災厄を喰らう者
屋敷へ足を踏み入れると、外の冷たい空気とは打って変わって、室内は驚くほど穏やかな空気に満ちていた。
廊下には柔らかな灯りが灯り、古いながらも丁寧に手入れされた家具が並んでいる。壁には見たこともない魔術式の図面や古い書物の装丁が飾られていて、魔術師の住処であることが一目で分かった。
「どうぞ、こちらへ」
青年__≪万象を編む者≫は軽やかな足取りで廊下を進んでいく。
振り返った彼は、にこやかに名乗った。
「ああ、そういえばまだ名前を言ってなかったね」
柔らかな笑みを浮かべて言う。
「僕はカシム・レディート。敬語は不要だよ。君たちの自己紹介は……そうだな、あとでゆっくり聞こうかな」
「分かった。改めてよろしく頼む、カシム」
アルベルトが気楽に答える。
「こちらこそ」
カシムは楽しそうに笑い、再び歩き出した。
やがて1つの扉の前で立ち止まる。
「ここが客室だよ。まずは荷物を置いてもらおうか。そのあと、すぐで申し訳ないけど……会ってほしい人がいるんだ」
そう言って扉を開けた。
部屋は想像以上に広かった。大きな窓の向こうには、霧に包まれた森が広がっている。柔らかなソファと丸いテーブル。棚には魔術書が並び、どこか静かな研究室のような空気も漂っていた。
エメラルダは部屋を見回し、思わず小さく息をつく。
「……とても落ち着く空間ですね」
「だろう?」
カシムが少し得意げに笑う。その様子に、エメラルダもつられて微笑んだ。
2人が荷物を降ろしたのを確認してから、カシムは再び廊下に案内した。
「こっちこっち」
少し歩くと、広い空間に出る。暖炉と大きな本棚がある、落ち着いた部屋だった。どうやらここがリビングらしい。カシムは部屋の奥に向かって気軽に声をかけた。
「ナディア。お客様だよ」
最初こそ気づかなかったが、部屋の奥の椅子から1人の女性が静かに立ち上がった。
エメラルダは思わず目を見張る。そこにいたのは、ひと目で美しいと分かる女性だった。長い黒髪は夜のように艶やかで、白い肌との対比が鮮やかだ。鋭く整った瞳は宝石のように深い色をしている。
エメラルダが柔らかな光の美しさだとすれば、彼女は月夜に光る刃のような美しさだった。
女性は静かに2人を見つめる。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……遠路はるばる、よくいらっしゃいました」
凛とした、落ち着いた声だった。
「私はナディア・レディートと申します。授けられた名は≪災厄を喰らう者≫」
一拍置いて、言う。
「あなたたちと同じ、古代魔術の行使者よ」
エメラルダはすぐに微笑み、軽く礼をした。
「お会いできて嬉しいです。私は≪祝福の魔女≫、エメラルダ・ヴァインベルクと申します」
「≪古代魔術の探狂者≫、アルベルトだ」
2人が名乗ると、ナディアは静かに頷いた。その時だった。
「ふふっ」
楽しそうな声が横から聞こえる。
「緊張してるのかい?本当に可愛いな」
先ほどのような優しい声ではなく、そこに深い愛情の混ざった声。カシムがナディアの頬を撫でようとした、その瞬間。ナディアの眉間に深いしわが刻まれる。
「……カシム」
低い声だった。
「何かな?」
「あなたは黙ってなさい」
「え、なんで?」
ナディアは腕を組み、ぷいっと顔をそらした。
「……別に。よくお客様の前で、甘い言葉を囁けるわね」
その言葉に慣れているのか、カシムは肩をすくめる。傷ついた様子は全くない。むしろ、その対応すら愛おしいと思う表情をしていた。
「好きだもん。愛情と伝えるのに、時も場合もないだろう?」
「うるさい」
だが、そのやり取りを見て、エメラルダは思わずくすりと笑った。アルベルトも小さく吹き出す。どうやらこの屋敷の住人たちは、なかなかに賑やかな関係らしい。ナディアはエメラルダとアルベルトの反応に気づいたらしい。ほんのり耳を赤くしながら、誤魔化すように軽く咳払いをして、2人へ向き直る。
「……とにかく、ここまで来るのは大変だったでしょう」
静かに言う。
「改めて言うわ。遠路はるばる、ありがとう」
そして、ほんのわずかに微笑んだ。
「古代魔術の行使者同士。ゆっくり話ができそうね」
霧の屋敷での新しい出会いが、こうして始まったのだった。




