恐怖! 味っ子への道
三月が、家の扉をあけると、部屋の中は薄暗かった。
双子の弟、弥生は中学受験を受けるわけでもないのに、近所の塾の無料講習に行くといっていた。お父さんは、いつも帰ってくるのが遅い。けれど、お母さんはどうしたんだろう。
三月がそんな疑問を持ったまま家に入ると、母は、台所ではなく、暗い居間でごろごろとテレビを見ていた。
「ただいまー」
「ん~、おかえり」
「どうしたの? 電気もつけないで」
「ん~、ちょっと体調悪くて」
テレビを見たまま、挨拶が返ってくる。本当に体調が悪ければ、寝室で寝ているだろうから、それほど深刻な状態ではなさそうだ。三月はほっとする。同時にお腹が空いてきた。
もうすぐ夕飯の時間だ。
「お母さん、ご飯は? どうするの」
「ん~、三月が作って」
寝っ転がったまま母が言う。具合が悪いわりに、心なしか元気そうに見えるけど。
それはともかく――
勢いででた言葉だろうが、なんであろうが、三月の心はときめいた。
ご飯を作る、この言葉の響き。
食事を作るなんて、小学校の家庭科の授業のときぐらいの三月。自宅の台所に立って料理をしたことはない。けれどそこは未来のある若き少女。勉強より身体を動かすことが好きだけど、お料理できる良妻賢母にも憧れちゃうお年頃。
初めてだろうとベテランだろうと、料理なんてようは切って焼いて煮るくらい。案外上手にいって自分の隠された味っ子への道が開けるかも?
「よしっ。じゃあちょっくら作ってみよーかなー?」
おちゃらた口調で、くるりと母に背を向けて、三月は台所に向かった。
さて何をつくろうかな? 考えるのも楽しい。昨日は麻婆豆腐だったなぁ。とりあえず冷蔵庫の中身を確認してぇ……おっ、なんだか主婦っぽいぞ♪
冷蔵庫を開ける。どうしてウチの冷蔵庫って変なにおいがするんだろ、と毎度の疑問が浮かぶが、まずは中身の確認…………って。
冷蔵庫の中は明るかった。詰めすぎると暗くなるのだから、当然その逆なわけで。早い話、予想外にがらんどうとしていたのだ。いつもは必要なものだけ取ってすぐ扉を閉めるので、不自然には思わなかったけれど、ちょっとスペースがありすぎのような気がする。とりあえず、目に入った物をあげてみる。
卵(六個入りパック)。横の扉のスペースではなく、パックのままそっくりそのまま棚に入っている。
麻婆豆腐の素(パック状)。要冷蔵。昨日の残りだろうか。ちなみにひき肉は別売りタイプ。肉と豆腐の姿は見当たらない。
ドレッシング(和風トマトバジルドレッシング ノンオイルタイプ)。少し減っているだけでほとんど残っている。そういえば大分前、トマトが入ってないのにトマトの味がしたサラダを食べたような気もする。一言で表せば微妙な味。
プラスチックの容器。中に入っているのは、夕飯の食べ残しだろうか。昨日の麻婆豆腐は完食したはずだけど。半透明の容器だし、ビニール袋で厳重に包装されているため、中身は不明。
――以上。
扉の部分を見てみると、牛乳・マヨネーズ・バター・カップゼリーなどなど、こまごまとしたものは、それなりにあった。
三月はゆっくりと冷蔵庫の扉を閉めて、居間を見る。
その視線に気付いた母が、仰向けのさかさまの状態で答える。
「あ、今日買い物に行っていないから。商品を買いすぎない、これ基本なり。主婦の鑑」
それにしても、少なすぎる気が……
「あ、そうか」
三月はぽんと手を打つ。食材は何もここだけに入っているわけじゃない。冷凍庫とか、野菜入れとかにあるんだよ、きっと。
まずは冷凍庫。よさげな冷凍食品があればレンジでチンだけ。ビバ冷凍技術♪ 開けてみる。アイス。冷凍枝豆。アイス。冷凍フライドポテト。アイス。冷やし中華など用冷やし用氷(牛乳パックを切って水を入れて凍らせたもの)。アイス。エビチリ。
…………
まあ、アイスだらけなのはいつもお世話になっているので分かっていたけど。枝豆とポテトじゃさすがに夕食としてはさびしいよねぇ。エビチリは嫌いだし。
気を取り直して、野菜室をチェック。引き出しを開ける。
手前には、ミネラルウォーターと自家製烏龍茶(ていうかティパックで作っただけだけど)の2Lペットボトル。これも良くお世話になっているのでおなじみ。さらに奥。
緑色の物体を発見。よしっ、レタスをゲット。これでサラダができるぞ。上に、トマト何とかドレッシングがあったしね。さっそくレタスを取り出す。ん、意外と重いぞ。それになんか色が薄い感じ。緑というより黄緑色。まいっか。
「あー、ちなみに、それ、レタスじゃなくてキャベツだから」
母が逆さまの視点でこっちをうかがってにやにや笑っていた。三月は冷蔵庫に向き直って、赤くなった顔を隠しつつ、キャベツを押し込む。
「知ってるよっ。千切りにしようかと思ったけれど、肉がないから止めたのっ」
人間は兎じゃないんだ。野菜を生で食べるなんて、霊長類(ちょっと前に覚えた単語)としてありえないのよ。
キャベツをしまった三月は、冷蔵庫の奥を探った。キャベツが邪魔だが、再び取り出して誤解されるのもやなので邪魔なりに探る。硬いもの発見。缶だ。取り出してみるとラッキー。りぷとんのミルクティだ。思えば帰宅してから、なにも口にしていない。無性に飲みたくなってきた。
「ねぇ、これ、飲んでいい?」
一応聞いて缶フタを開ける。ちょっと飛び散った紅茶の色がクリーム色よりちょっと濃い気がしたが、構わず口にする。……ん? なんか、微妙な……
「いいよー。けどよく底を見てみてね」
タイムラグがあって、意味深な答えが返ってきた。三月は飲みかけの缶を上に掲げ、缶底をのぞく。数字が記されている。それは賞味期限のはずだが……
「ぐぎゃっ」
その数字は、本日より一年半前の日付を示していた。
「な、ななな、なんでこんな前の紅茶が残っているのよっ」
「なんかの景品で貰ったやつ。置きっぱなしで忘れてたけど、ま、冷蔵庫の中に入っていたんだから問題ないでしょ」
「問題あるってっ。だってなんかこの紅茶、トマトっぽい味がしたもん」
「そういう味なんでしょ」
「んなわけ、あるかっ」
慌てて紅茶を排水溝に流す。もちろん水で口をすすぐことを忘れない。ああカルキ臭くて生ぬるい水が神の水に感じるよ。
中身を捨て終わった空き缶はしっかり洗って、蛍光油性ペンで賞味期限のところに強調アンダーラインを引いて、目立つところにドンと置いた。父と弥生に見せつけ、母に反省を促すためである。
「うしっ」
気を取り直して、さらに冷蔵庫の奥のほうを探る。突き当り、冷蔵庫の壁に何かが張り付いているようだ。引っ張って取り出す。
藤っ娘のお豆さん(未開封)だった。なんていうか予想通り賞味期限は五日前に切れていたが、問題なのはなぜか袋に氷が張り付いていること。
奥をのぞく。袋が張り付いていたのは通風孔のところだった。これに触れていたせいで、凍り付いてしまったと思われる。
三月は無言で氷のついた袋を母に見せる。すると母が妙に納得した口調で答えた。
「ああ、それが邪魔して温度が下がんなかったのか。ほら、キャベツの右横」
「なに? このビニール袋に入った赤いような茶色いような黒いような液体は?」
「人参」
「腐ったものを入れておくなっ」
「ほら。だからその豆が冷たい空気が出る場所を塞いでて、温度が高かったからよ」
「たとえ炎天下にさらしておいても、一日やそこらで、こんなになるかっ」
「いやー。人参って腐るととろけて液体状になるのが珍しくってねぇ。みんなに見せようとして忘れてたよ。三月に見せたし、捨てていいよ」
「言われないでも捨てるよっ」
思いっきり投げつけたい衝動に駆られるが、袋が破裂するのを恐れて、三月はゆっくりとゴミ箱に捨てた。
「まぁまぁ、その豆食べていいから。『冷凍』されていたんだから大丈夫でしょ」
「食えるかこんなもんっ!」
こちらはそのままゴミ箱に向けて思いっきり投げ捨てる。
嫌な予感が三月の頭によぎった。冷蔵庫にはこれだけしか入っていなかったが、もしかすると……
あと食材があるとすれば、床下収納だ。たまに缶詰とかカップラーメンにお世話になるそこを開ける。いつもは手前のカップめんを取るだけである。だが今日は、封印されしその奥を探る。――予想以上だった。
また出てきたドレッシング「マスタードクリーミィドレ」(賞味期限二年前)。開封前だから、冷蔵庫に入れなくても大丈夫なんだろうけど、二年前だし。クリーミィを通り越して固体化している。
瓶詰めの「梅の蜂蜜漬け」(賞味期限一年前、開封済み)。梅干なら多少賞味期限が過ぎても……と好奇心で一つ味をみると、とってもすっぱい感じがした。梅はすっぱいものだけど「蜂蜜漬け」だし。そもそも賞味期限は開封前の日付である。怖いので処分。
乾燥されたしいたけのお菓子「椎茸煎餅」(賞味期限今年の3月)。←をみて、「あぁ、今5月だから、ちょっと前じゃん」と二ヶ月前の賞味期限をちょっと前と思ってしまう自分に愕然として、床に叩きつけて踏みつける。
何に使うのか使ったのか「アプリコットソース」(賞味期限九ヶ月前)。床下に放置されていたけど、要冷蔵。もう確認もせず、処分品側に移動させる。
缶詰「ロンガン缶」。ラベルに名称が書いてあっただけで、ロンガンが何物かは、分からない。賞味期限は見慣れない数字……って、自分より年上っ!?
「あぁそれ、缶詰ってずうっと放置していると爆発するって言うじゃん。その実験中」
「自分の部屋か、物置においてやれっ」
結局、出るわ出るわで、机の上に並べると、食べられるものより、賞味期限切れ食材のほうが圧倒的に多かった。商品を買いすぎない主婦の鑑、はどこにいったのだろう。
「これ捨てるよ」
このままだったらそのうち、家が午後五時半ぐらいにニュースに登場するゴミ屋敷になってしまう。ドレッシング等液体類は、そのまま捨てるのは忍びないので、いちいち封を開けて排水溝に流す。
「東京湾に変な生物が発生しないことを祈るよ」
他人事のような母の言葉が聞こえてくる。なぜこんなことをしているんだろ、と三月は小学六年生の身で人生に疑問を感じた。
そして導き出された結論は、
「さてはそこの人、お母さんじゃなくて、偽者ねっ」
「現実を見ろって」
はい。お母さんです。現実です。
「ううっ……お母さんがこういう人だったなんて」
普段はちゃんと料理しているし(一見)、普通に買い物しているし(一見)。それだけにショックが大きかった。
「……ねぇ。もしかして昨日食べた麻婆豆腐の豆腐の賞味期限は……」
「世の中には聞かないほうが良かったってこともあるんだよ。ちなみに賞味期限当日だから大丈夫。開封済みだったけれど」
「……お母さんの病気って、腹痛?」
「熱」
「……私がこの前お腹を壊して学校を休んだときの原因って……」
「ああ、三月の風邪はお腹に来るからねぇ」
「そーじゃなくって」
「大丈夫だって。昔の人は泥がついたものでも食べたんだから」
「けど、賞味期限が切れたものは食べないと思うよ」
「そうだね。昔はそんな表示なかったし」
「私の言った意味とちょっと違う」
不毛な会話を打ち切って提案する。
「ねぇ。出前取っていい?」
「三月のお小遣いから天引きでね」
「…………」
結局夕食は、床下収納から出てきたカップラーメン(賞味期限切れまであと三日)になった。それに加え、冷蔵庫にあった卵(これまた賞味期限が迫っていた)を使って卵焼き――っていうか目玉焼き崩れだったけど――を作ったのが、三月の女の子としての、せめてもの意地だった。冷蔵庫にあったビニール袋で厳重に包まれていたタッパーは中身を確認することなく、タッパーごと捨てた。
ちなみに、カップラーメンはちょっぴりアレンジして、冷凍のポテトと枝豆を入れてみたのだが、解凍せず凍ったまま入れたせいか、なんとも救いようのないものになってしまって、母からは大変不評だったが、そんなこと三月の知ったこっちゃなかった。