浅野真奈美
エレベーターは音も無くウェルバレーの底へと降りていく。
風のオーブを転用した浮遊式のシステムに変わって既に五十年は経過しただろうか。それ以前に使われていた電磁式のエレベーターは既に東京には一台も無い。更にそれ以前の古いものはワイヤーで吊っていたと聞いたことがある。
浅野真奈美はそんな時代があったとは信じ難い、と近代科学の粋を集めた東京の壁面を遠くに眺めつつ、下方に広がる皇居の堀を見下ろした。
梶尾に命じられ景のお目付け役になって五年は経つだろうか、それまではただ従順に言うことを聞いてきた景が初めて反抗し逃げ出した。第八水門に飛び込んだ最後の景の姿が脳裏に焼きついている。
「小娘が……」
支配下にあった筈の動物に咬まれたような屈辱。浅野は右耳のピアスを指先で転がす。
エレベーターは地表に差し掛かり、更に地下へと潜って行く。風景が無くなり閉塞感に包まれながら、流れていく無機質な壁面を無感情に眺めた。暫く進むと空間が開ける。
地表より十キロもの地下に広がるジオフロント。下部地殻に程近いその広大な空間には森林が広がり、空間を支える巨大な柱が所々に立ち並ぶ。壁面には幾つも白滝が水を吐き出しているのが窺える。そこには地表の東京とは異なる大自然空間が広がっていた。
ジオフロントには属性ごとの六つの建造物が円を描くように配置され、その中心に日本における紋章官の活動中枢・ノアがある。
浅野が梶尾と初めて出会ったのは十五年前、紋章院に入って四年目だった。
紋章院で年に一度行われる六紋祭。そこで紋章の力を競う大会が開かれる。優勝者には名誉と高位紋章官への未来が約束される大きなイベントである。
浅野はその年、若干十三歳の最年少優勝者となり梶尾にティアラを授与された。
元帥から手渡される冠には最高の栄誉と計り知れない重みがあった。
浅野はその時に言われた言葉を未だに覚えている。
『日本の為に君の力が必要だ』と。
その時、浅野は感じたことの無い感情を抱いた。初めて自分が必要とされた気がしたのだ。
両親はチルドレンではない。そのため両親は自分に対して距離を置いていた。幼く能力に慣れぬ頃、幾度と無く暴走させた力で二人は安息の時を得ることが出来なかったのだろう。二人はまるで腫れ物に触れるように娘に接した。今ではその娘のお陰で東京に住んで居るのだが、ほんのメール一通さえ連絡を寄越すことは無かった。何年も会っていないから生きているのか死んでいるのかも分からない。
そんな浅野にとって梶尾の言葉はとてもかけがえないものに思えたのだった。
浮遊式パネルに乗ったままノアへと向かう。
ひたすら真っ直ぐ木々に囲まれた道を流れるようにパネルは進む。緑道の先には巨大な六角錘の建造物が屹立し、徐々に近づいていた。
パネルを降り、ノア内部へ入ると司令部区画への廊下を進んだ。すれ違う下級紋章官は頭を下げるが浅野が彼らを意識することはない。
「やぁ真奈美ちゃんじゃない、聞いたよぅ、景様に家出されちゃったんだって?」
癇に障る明るい声が後方から投げかけられる。浅野は立ち止まり声の主を睨みつけた。
長身の青年が翠の目を向け廊下の壁に背を預けて立っていた。長い金髪を柔らかく揺らす色白な面立ちは日本人のそれとは違っている。
「あなたには関係ないでしょう。次の手はすでに打ってあるわ、心配は無用よ。それとも他に何か用でもあるのかしら、私はあなたと違って忙しいのだけど。六紋天王ホワイト・E・シュナイダー」
「いやだなぁ、シローって呼んでよ。ホワイトの白ね、漢字ってかっこいいじゃない。それはさておき僕だって景様のことが心配なだけだよ、君と同じようにね」
頭の後ろで手を組んだシュナイダーは明るく答えるとにっこり笑う。この笑顔は嘘だと浅野は感じた。
「そう、ならばくだらない話で時間を無駄にさせないでくれるかしら、それが景様の為なのだから」
「まぁそう言わないでさ。どうせもう東京近郊のエリアには手配済みでしょ。しかも紅蓮が動いているんだからすぐに見つかるんじゃない。それにしても家出だなんてさ、君があんまりに怖いから逃げたんじゃないの? 景様かわいそう~」
茶化すようにシュナイダーが笑う。
うるさい、と浅野は掌に炎を生み出した。
「あなたの厭味に構っている時間は無いの。何ならそのお喋りな口を溶接してあげましょうか?」
シュナイダーは怖い怖いと言いながら余裕の笑みを浮かべる。
「たださぁ、いくら何でも紅蓮しか動かさないってのはどういうことなんだろうねぇ? 何か聞いてないの?」
「さぁ、私はただ言われた通りにしているだけよ」
「へぇ~、そう。そうかぁ、そうだよねぇ」
うろうろと歩きながらシュナイダーは微笑する。
「何? 言いたいことがあるのならはっきりと言いなさい」
「別に~」
だがその翠の目の奥には何かを疑う気配がある。これ以上入り込むなと言うように浅野は無言の壁を作る。シュナイダーはそのまま浅野の様子を眺めていたが突然何かを思い出したように声を上げた。
「おっといけないいけない、もう行くよ。こう見えて僕も忙しいんだ。じゃあまたね」
指先だけちらちらと振ってシュナイダーは廊下を反対方向に去っていった。
炎を掻き消し侮蔑の視線を投げた浅野は、不快感を振り払うように司令部への通路を再び歩き始めた。
六紋天王。
各属性における最高の能力者。その能力のあまりの強さにより元帥の梶尾をもってしても完全な支配は出来ていない。今は従っているが弱みを見せれば反旗を翻しかねない危険な存在である。
中でも木の属性、ホワイト・E・シュナイダーは特に変種。日本人ではないということ以外の経歴、年齢、全てに措いて謎の存在である。腹に一物を隠しているような者達ばかり集まる六紋天王。彼らを警戒してし過ぎることは無い。
司令部のコマンドルームに到達すると、金属の塊のような扉を開き足を踏み入れた。
高低差のある広い半球状の部屋は一見巨大な戦艦の指揮所のようにも見える。
最後方にはコマンドモジュール全体を眺めることの出来る司令官席があり、下方の中心に巨大なオーブが据えられている。オーブを囲む様にオペレーター席が配置され、今も数名がモニター光に照らされながら作業をしている。
浅野は時折低音が唸るように響く中、階段を上がり司令官席の脇に据えられた副官用の席についた。
手早くパネルを操作するとデスク上に数枚のホログラフスクリーンが浮き上がる。
部隊から上がってくる報告を選別し選り分ける。地図の映っているスクリーンを引き寄せ情報と位置をリンクさせる。
殆どが信用に足るものではない、どうでも良いような情報も多いが中にはそれらしいものも窺えた。
「エリアSuで大きなエネルギー反応、その他には…目立ったものは無いか。エリアSuに小隊を送れ、レジスタンスの場合は無視しろ」
オンラインで指示を送ると浅野は席を立ちフロアの中央に向かう。
部屋全体を覆うドーム型多面ビジョンに映し出されるグラフや数字、入れ替わり映し出される映像をぐるりと眺める。フロアの中央には巨大なオーブが紫の稲妻を抱えて鎮座している。浅野はオーブに近付き手を置いた。
「プロジェクト・バベル」
チルドレンの存在と地位を向上し、統一することでチルドレンの結び付きを強め、日本以外の列強国家に対し優位に立つ為の大きなプロジェクト。
古の昔、世界大戦で敗戦してより日本はその地位も誇りも失った。
偽りの平和に堕落した日本人。それは今も尾を引いたままだ。だがこのプロジェクトが成功すれば新たなる世界に措いて日本は強大な指導力を持つことになる。
神話ではヤハウェに言語を乱されたバビロンは力を失った。
しかし我々は違う。チルドレン全てをまとめあげ力を示すのだ。
なのに……
「…何故邪魔をする」
浅野はオーブに置いた掌を握り締めた。