梶尾の魔手
やや薄暗く黒いセラミックのデスクが一つだけ置かれた閑散とした部屋である。
照明は無く、代わりに床天井すべてに走る幾何学模様が淡く光を放っている。ほぼ全面を耐音・耐衝撃素材製の黒みがかったパネルが占めている為に模様は余計鮮明に浮かんで見える。
部屋の左側面には壁一面に窓が広がりウェルバレーと呼ばれる空気循環に利用されている巨大な縦穴空間を臨むことが出来る。巨大建造物と化した現在の東京にはウェルバレーがいくつも点在している。
そしてこの窓の遥か下方、ウェルバレーの底には堀に囲まれた皇居が見える。
皇居や明治神宮、赤坂御所等の地域は建造物となった東京の中にあって今も昔と変わらぬ姿をウェルバレーとして残している。
それを見下ろすように存在するこの部屋に今二つの人影があった。
「浅野君、一体どういうことだね。何の為に君を景に付けていたと思っているのだ。こんな事態にならないようにではないのか?」
「申し訳ございません。水路に逃げられてしまい景様に追いつける程の者も居らず」
そういうことではないだろう、とデスクに両肘を着き、ロマンスグレーの髪を無造作に撫でつけた矢上征二郎は浅野真奈美を睨みつける。浅野は頭を下げ畏まる。
「いくら景に強い力があるといっても、あの子はまだ子供なのだ。近頃では魔犬の数も増えてきていると言うじゃないか、そんな所に一人で出てしまうなんて」
「現在捜索範囲を広げて部隊を展開しておりますので」
「当然だ! 早く連れてきなさい。景には我々の、いや日本の未来が、ひいては世界の未来が懸かっているのだ」
征二郎の激昂した声が室内に響き渡ると浅野は上げかけた顔を再び下げた。
「おやおや、あまり大声を出されますとおに身体に触りますぞ」
声の主が笑いながら姿を現す。浅野は立ち上がり道を開けるように一歩下がって頭を下げる。首相よりも一回りは歳のいった恰幅の良い初老の男が入ってきた。その男が片手を上げると浅野は頭を戻し姿勢を正した。漆黒のスーツのせいか年齢の割にはそれを感じさせない力強さがある。
「梶尾、私の身体などどうでもいい、早く景を見つけ出せ。もしも景に何かあったら…」
征二郎は亡き妻の顔を脳裏に走らせる。
「承知しております。必ず我々が景様をお連れいたします。今しばらくのご辛抱を」
「頼む」
力の抜けた返事をすると征二郎は立ち上がりデスクから離れ、窓際に立ちウェルバレーを眺めた。
浅野は梶尾と矢上の邪魔にならぬよう退出しようとしたが、梶尾に止められそのまま待機した。梶尾はいくつかの案件に関する報告を簡単に行うと浅野を連れて退出した。
扉が閉まり後ろを振り返ることもせずに梶尾は浅野に聞こえる程度の声で話す。その口元には広げた扇子が当てられている。
「浅野、景様の件、他言はしていないだろうな?」
「はい、部隊は紅蓮のみ展開しております」
よろしい、先の見えない長い廊下を滑るように進みながら梶尾は答えた。浅野は靴音を響かせながらそれについていく。
「景様にも困ったものだ。万が一反抗勢力の手に落ちれば面倒なことになる。それでなくとも計画に遅れが出ている、早々にこの件は片付けねばならない。だが小娘といえどもその力は侮れん、こちらも相応の被害が出るだろう」
浅野は無言で頷く。
「よいか浅野、多少手荒なのは止むを得ん。生きてさえいればいい、何としても連れ戻せ」
「よろしいので?」
浅野は不敵に笑う。梶尾は凍りつくほど無感情に構わんと答えた。
「我々に必要なのは鍵だけなのだ」
景は教会の外へ出てみた。
自分の知る東京の景色とは全くの別物である。本物の空が見える。風が吹く。そんな当たり前のことも景にとっては珍しかった。
東京の空は天井に映し出された疑似映像「スカイビジョン」、風はイオン浄化し作り出された空調だし、太陽光線は取り込まれ波長を再構成された擬似光である。
如何にその質を向上させたとしても結局は作り物。土の匂いも空気の匂いも光の暖かさも本物と比べてしまえば、やはり何かが違っている。それは東京という都市を妄信し固執する者達には決して分からないことなのだと景は思った。
今、目にしている景色は決して綺麗では無い。壊れた建物や掘っ立て小屋、錆の浮いたような風景。むしろ傷付き、汚れ、痛み、薄汚れている。独特の臭いも漂っている。そこに住む人々もまた同じように風景に混じる。
しかし、景の目には人々が生気に溢れ平和に暮らしているように映った。それが例え表面的なことであったとしても、時折窺える笑顔は東京の人々のそれよりも強く輝いて見えた。
「何してるの? もう平気?」
護という少年は隣に並ぶと両手を頭の後ろで組んだ。彼もまた笑顔に強い輝きを持っている。
「俺、この街の近くしか行ったこと無いんだ。日本って凄く広いんでしょ? 世界ってもっと広いんでしょ? 君は行ったことある?」
世界を立体映像で周ったことはある。ピラミッドも自由の女神も万里の長城も間近で見た。
だがそれは本当に行ったことにはならないと景は思う。父に連れられて他の国に行ったこともあったが、都市部にしか滞在せず、その殆どは高層建造物にまみれて東京の景色と何ら違いは感じられなかった。
考えあぐねた結果、自分は東京しか知らないのだと景は言った。
「そうなんだ、東京ってどんなところなの。一度で良いから入ってみたいんだけど、一層には一般人も入れるんでしょ?」
目を輝かせる護を見ると景の胸の何処かが痛んだ。
「行かない方がいいわ、あんなところ大嫌い。みんな作り物、空も大地も、太陽も」
「ふぅん、全ニィと同じことを言うんだね」
つまらなそうにする護を横目に全の顔を思い出す。
「そう……あの人には分かっているのね。私はこっちの方が好き」
景はぽつんと立っている曲がった蛇口に近付くと頭を捻り、水を出して手を触れた。
暫くそうして地面に溜まる水を眺め、そっと目を閉じた。景はまるで会話をするように小声で語りかけると満足したように目を開く。
水が動いた。水は地面の手前で速度を落とし向きを変えて舞い上がり、景の掌の上に集まった。
護から感嘆の声が漏れる。
球状に集まった水は流動しながらその姿を変形させて、細かく数えきれないほどの球に分かれる。分かれた水滴は上空に舞上がると弾け、霧雨のように降り注いで虹を浮かび上がらせた。
「すごーい、ホントに凄いや、もっとやってよ。それって好きな形にできるの?」
「うん」
「猫とかできる?」
護に言われてその形を作り出すと手を叩いて護は喜んだ。真っ直ぐに見つめてくる護に照れながら蛇口を捻る。言われるままにいくつか作ると、その度に喜ぶ護に自分もつられて笑っていることに景は気がついた。
こんな気持ちになったのはいつ以来だったか思い出せない。笑ったのも久し振りのことだ。
いつだって力は身を守る為だけに使ってきた。立場もある、そうしなければいけなかったことも十分に分かっている。それでもこの力は暴力であることが殆どであった。そこには喜びや楽しみなどは無く、ただ虚しさしかなかった。何度この力を否定しようとしても、大人達の答えはいつも同じであった。
『選ばれた者なのだから』
結局、満足のいく答えをもらえぬまま特別な者として扱われ続け、自分の中のズレに結論を出せぬまま、父を困らせないように、邪魔をしないように、行儀よく、そうやって自分自身に言い聞かせながら景は生きてきた。
「ねぇ、剣作ってよ、出来る?」
「うん」
今度は水を刀剣の形に変形させる。護は持たせてと剣の柄に手をかけ、かっこいいと大喜びで剣を掲げる。
次の瞬間、水の剣はその形を無くして護に降りかかり、その姿をずぶ濡れにした。
「あはははは」
きょとんとしながら景が笑うのを見て護はからかわれたと分かり、犬のように頭を振って水を飛ばした。
「ひどいよ景」
二人は顔を見合わせてまた大笑いした。
暫くそうして遊び、二人は教会の鐘楼に登った。縁に腰掛けて流れる雲を眺めた。
「これからどうするの?」
「分からない」
護の問いに景は呆けたように答える。本当にどうしたら良いのか分からない。ただ、このままではいけないのだと、それだけは分かる。
景は全の言葉と紋章を思い出していた。