景
少女は美しい池の中心に立っていた。わずかに触れた足先から生まれる波紋が柔らかなガラスの音を伴って広がる。
両手を広げると鏡のような水面は隆起して立ち上がり、まるで生物のようにしなやかにそして少女の動きに呼応するように踊る。
水柱は交差してくるくる回り、二本の螺旋はやがて天に向かって伸びる。美しく夢のような世界。
だが、その光景は脳裏に浮かんだ光の塔の記憶に重なる。
先程までの美しい景色を暗闇が覆う。
突然湧き出した気配に振り向くと、水柱の中に女の顔があった。
女は恐ろしい形相で水柱に張りつき叫ぶ。男、子供、老人、一人、また一人と増えてゆき、そのいずれもが苦悶を浮かべていた。
水柱から手が伸び少女に縋ろうと次々に絡みつく。
嘆きが折り重なり世界を埋め尽くしていく。
少女の悲鳴は、誰にも届かなかった。
「いやぁぁぁぁぁぁ」
絶叫と共に少女は身体を起こした。
体中が汗で濡れているのが分かる。手は震え涙を流し、呼吸も荒く動悸は未だ続いていた。
そして、その目には見知らぬどこかの天井が映っていた。
何かがふわりと少女を包み込む。
暖かく、よい香りがした。ずっと昔に感じたことのある懐かしい記憶。その何かが少女の強張りを奪っていく。涼風のような音が繰り返し聞こえる度に力は抜けていった。
『大丈夫』
漸く落ち着きを取り戻した少女は己の状況を思い出し、身を包んでいる何かを力いっぱい押しのけ立ち上がる。
押しのけたそれは、見たことの無い程美しい女だった。
長く緩やかに波打つ金髪を束ね白い肌に輝く翠の瞳で少女を優しく見つめている。
服装から見ると修道女のようであった。
少女は身構え、女を警戒しながら部屋を見回す。狭い部屋だが生活感がある。東京のそれとは全く別物であるのはすぐに知れた。
「ここは……どこ?」
最後の記憶では巨大な犬と戦っていた筈だ。おかしな二人組みが現れて、それで。
急に力が抜けてへたり込む、力が入らない。紋章の力を使い過ぎたのだと思い出す。
その時が一番危ないのですよ、声が記憶の底から語りかけてくる。
女は少女を支えて再び横にさせた。
「まだ無理しないほうがいいわ、もう少し横になっていなさい、あなたにはまだ負担が大きかったのね、きっと」
この女は何かを知っている。このままではいけないと思う少女の額に女の掌が触れた。その手は冷たくて気持ちがよかった。少なくとも彼女に敵意は無いのかもしれないと少女は僅かに感じた。
「私は舞。ここは私達の家。だから安心していいのよ。寝られるようならお眠りなさい、私が傍にいてあげる」
女の美しい旋律のような声は少女のすべての不安を取り除くように心を落ち着かせた。
少女は再び深淵へと落ちかけたが、部屋に響いた大声で一瞬にして現世に引き戻される。
「何があったの、大丈夫?」
勢いよく扉が開かれ少年が飛び込んでくる。少し遅れて入り口の影から小さな頭が三つ、恐る恐る部屋の様子を覗く。
「こら、あんた達静かにしなさい。それに護、雪、月、女の子の部屋にノックもなしだなんて失礼よ、いつも言ってるでしょ」
でも悲鳴が、と少年は辺りを目線で窺う。
「大丈夫だから、ほらほら、とっとと出る」
舞は立ち上がって子供達を部屋から追い出すようにしっしと手を振る。
「あなた、あの時の」
少女は体を起こすと少年の顔を見た。最後に見た二人組の一人だと気づいたのだ。少女の声に振り向くと少年は舞の腕をするりと潜ってベッドの横に張り付いた。
「おはよう、大丈夫? 僕は護。君名前は? 東京から来たの? 昨日は大変だったね。かっこいいよなぁ~、僕も君くらい強かったら良かったのに。でもね、僕も絶対強くなるんだ。これジェイの刀、だから名前はジェイにしたんだ。ジェイって僕らの父さんなんだけどさ」
休む間もなく話し続ける護に戸惑っているのを見て、舞が頭を鷲掴みにしながらベッドから引き離す。
「いい加減になさい、彼女まだ疲れているんだから。ごめんなさいね、この子昨日からずっとこんな感じで。いつもはもう少しおとなしいんだけど」
何があったんだか、と困ったように笑う。
「だから、何度も言ってるじゃない。僕も犬やっつけたんだけど、その子はもっとでっかい犬を倒してね。でも気絶しちゃったからほっとけなくて、そんで梁山泊にいったら史進って人がお金くれて、だって初めて食べたんだよ、ステーキ」
会話にまとまりのなくなった護を、「はいはい」とあしらい、舞は引きずって部屋の外に連れ出す。
「……景」
護が声に振り返ると少女は、私の名前とだけ言った。舞は微笑んでベッドの横を指刺す。
「あなたの荷物はそこにあるから、誰も覗いたりしてないから安心してね。それから、おなか減ってない?」
景は一昨日から食事をしていなかったのを思い出した。意識してしまうと急に空腹感に襲われて、つい頷いた。
「今何か持ってくるから、少し待っててね」
「あの…」
「ん?」
「ありがとう」
微笑むと舞はそのまま台所へと向かう。護は舞に頭を掴まれ引き摺られたまま、見えなくなるまで手を振っていた。その二人のあまりにもアンバランスな構図がおかしくて漸く微笑んだ。
しなやかな金髪が揺れる後姿を見送ると、その隙を見て三人の子供達が小走りに駆け寄ってきた。年長らしい銀髪の少年に二人が隠れるように立ち、せーので同時に声を出す。
「どうもありがとう」
景には何のことかも分からないので、どうしてと尋ねる。
「だってゼンがね、お礼はお姉ちゃんに言えって」
「わたしに?」
顔を見合わせて、なんでだろ? 知らないよ、と少年二人はお互いに問答し始める。
「花矢しってるよ、おねぇちゃんがお肉をくれたんだよ、だからおれいをしなさいって舞ちゃんもいってたもん」
そういえば先刻、護という少年もステーキがどうとか言っていたような気がする。何かをした記憶は無かったが、強いて言えばあの犬が関係しているのかも知れないと思う。しかし、景に分かるのはそこまでだった。
黒髪の方の少年がじっと見つめているのに気がついた。目が合うと銀髪の少年の影に隠れながら、ねぇと口にする。
「おねぇちゃん強いの? マモルにいちゃんが言ってたよ。ゼンよりも強い?」
「ゼン?」
景の頭に昨夜の男の顔が浮かんだ。真面目なのか巫山戯ているのか分かり難かったが、緊張感のない人に見えた。余裕と言い換えられるのかもしれない。
「ゼンはねぇ、トウキョウが嫌いなんだよ」
何でかな? しらないよ、と二人は顔を見合わせる。僕には好き嫌いはだめだって言うのにさと銀髪の少年は頬を膨らませる。
「ゼンこの前僕のおかし食べちゃったんだ、買ってくるって言ったのにまだなんだよ」
うそつきだよね。と子供達はお互いの言葉にうなずく、あまり評判は芳しくないようだ。
「嫌いなの?」
女の子は赤髪を縛っている黄色いリボンを弄りながら「大好き」と、にっこり笑った。
そこへ食事を用意して舞が戻ってきた。
「ちょっと何してるのあなた達。お姉ちゃん困るでしょ、ほら、全のとこに行きなさい。お休みにするって言ってたからいっぱい遊んでくれるわよ、きっと」
うそ、マジで、やった、三人はそれぞれに感嘆を上げて部屋を飛び出していった。部屋は再び静まり仄かないい香りが漂う。
「本当にごめんなさいね、煩かったでしょう」
景は首を振る。
「お客様なんて珍しいから楽しいみたいで、あぁこれ、お口に合えばいいけど」
手渡されたトレイにはベーコンの乗ったエッグトーストと野菜のスープ、ヨーグルトが並んでいた。口にした景のおいしいという言葉を聞くと安心したように舞は椅子に腰掛け、外を眺めてから問う。
「景ちゃん、あなた追われているってほんと?」
ぴたりと食事の手が止まり景の表情は暗く、否、むしろ青くさえ見えたかもしれない。どうして? という舞の問いに景は無言で返す。
「あ、言いたくなければ良いのよ」
気にしないで食べてと舞は微笑む。
「駄目だな」
突然の声に驚き、入り口の方を見ると片手にマグカップを持った男が立っていて、ゆらりと中に入ってきた。コーヒーの甘い香りに反し、その目は景を無機質に眺めている。あの男だった。彼が全というらしい。
「ちょっと全、あなた無神経よ。だれ…」
「誰にだって話したくないことの一つや二つはあるってか? そうだろうな、俺も、お前も、嬢ちゃんにもな。当然何でもかんでも話すことはないが、今回はそうもいかない。相手がまずいからな、一歩間違えれば取り返しのつかないことになる」
そうだろう? と全は景の方を見る。景は顔を伏せた。
「取り返しのつかないことって何よ? 全、あなた何を知っているの?」
知ってる訳じゃない、と全は舞の後ろを通り抜けて、角にある二人掛けのソファーに腰を下ろして足を組んだ。
「昨日から俺なりに色々考えていたんだ。こんな嬢ちゃんが追われているってのはどういうことかってな。追剥だとかって感じでもないし、嬢ちゃんは能力も高い。ちょっとやそっとの相手なら逃げる必要もない力だ。そいつが逃げの一手ってのは追っている側が同じ紋章付きか、もっと強い組織力がある奴らってことだ。これだけでも十分ヤバイ話なんだがな。嫌な予感はしたのに護が恩人だとか五月蝿くてね、とりあえず連れてきた訳だ」
全はカップのコーヒーを一口すする。
「まぁ俺としても将来の成長が楽しみな若い子をあんな所にほっぽらかすのもどうかと思ったから別にいいんだけど」
将来の成長ねぇと舞は冷ややかな視線を送る。景は無言でいる。
「ところで舞、最近東京の方で光が伸びるの見たことあるか?」
「えぇ。照明だとか宇宙と交信しているとか、ひどいのになると新しい兵器だとか、紋章付きが戦争を起こす気だとか、色々と噂にはなっているみたいだけど」
景は変わらぬ体勢で布団を握り締めている。
「噂なんて当てになんねぇ、所詮は妄想の範疇だからな、稀に真実の要素が混じっているとかその程度だ。まぁそれはいい、その光の塔みたいなもんが何なのか俺は知らないけどな。嬢ちゃん、追われてんのはそいつが関わってんじゃないのか?」
舞は呆れたように笑う。
「なに? つまり景ちゃんがあれに関して何かを知っているから追われているって言うの? そもそもあれが何かも分からないのに飛躍し過ぎよ。それに景ちゃんが幾ら凄い紋章付きでもそんなこと調べられないでしょうに、まだ子供なのよ」
調べる必要なんて無いさ、全は煙草に火を点けてすぐ後ろの窓を開けた。
「なにかの拍子に知っちまったとかだろう。嬢ちゃんが俺と会った時に梶尾の手の者か、とそう言った。追っ手に梶尾が関わってる時点で国家レベルの話なのは……お前なら分かるだろ、舞」
舞の表情が一瞬で凍りつく。
「梶尾って…まさか梶尾…現十?」
「梶尾を、知っているんですか?」
二人の様子に漸く景は言葉を発した。しかし舞は景と目を合わせすぐに外に視線を逸らした。外で雪月花の相手をしている護がちらりと見える。
「嬢ちゃん幾つだ?」
景は十二と答えた。護と一緒ね、と舞は微笑む。
君が生まれる前の話だ、と全は大きく溜息と共に煙を吐いた。
「十五年前に起きた『川崎の大火葬』差別的な政府に不満を持つ者達が旧人……まぁつまり紋章の無い連中の権威を取り戻そうとして起こしたクーデターだったんだが、結果はクーデター参加者他、約二万人がことごとく燃やされるってぇとんでもない惨劇に終わった。事件以降それ以外の反政府思想を持った奴らは皆、身の危険を感じて地下へと姿を消した。紋章付きの力には逆らえないと世界に知らしめた最低最悪の事件だ」
全の視線は舞へと向けられる。
「舞はその事件の直後にその現場でジェイに拾われたんだ。どうしてそこに居たのか、どうやって生き延びたのかさえ全く分かっちゃいないし、何も知りようがない。俺はまだ四つでジェイに出会う前だから当時の舞については詳しくは知らないが、あの悲惨な事件で生き残った当時五歳だった舞はそれ以前の記憶はない。年齢以外の名前も家族も何もかもな。あの事件の中心人物、元帥・梶尾現十。その名前を知らない訳が無い」
「大火葬の…」
景は顔を歪める。昔のことだからと舞は景を優しく見つめた。
「それはさておきだ、今はその話じゃない。その梶尾が嬢ちゃんを追っている。これは正直とんでもないことだ。何をやったのかは知らないが、君が居るだけで火の粉が辺りに飛び散りまくるような危険な状況だ。何を見た? 何を知ってる? あの光の塔は何だ?」
景は全の目を見ることができない。
全はその顔を見据える。
「どうなんだい? 現総理大臣・矢上征二郎の一人娘、矢上景さん」