梁山泊
周囲はざわざわとしている。
振り向き、眺め、悲鳴を上げる者も居れば、また称える者も居る。
二人はそんな声を無視して大通りを真っ直ぐに進んだ。
街は比較的賑わいがあり都会としてまだ機能している。それでも東京と比べれば天と地ほどの違いがあるのは仕方の無いことだが、ここには未だ百年前の日本の面影が残っていた。
人々は十戒の海の如くに割れ、モーゼよろしく進む二人に好奇の目を向ける。
そんな視線を受け流しながら暫く進み、全と護は目指す本拠ビル『梁山泊』へと足を踏み入れた。
突然現れた巨大な塊にフロアに居る者も、噂を聞いて降りてきた野次馬も、皆一様に驚きの声を上げた。その様子を見て正面のカウンターから見慣れた小太りの男が急ぎ足で駆け寄ってきた。
「全、これは一体何事だ? これは一体どうしたんだ。何だこれは? お前達がやったのか?」
大いに動揺しながらも男はぎりぎり入り口を通った巨大な魔犬を警戒するように近づき、時折つつきながら全と犬を交互に眺める。ビルの入り口には野次馬が押しよせていた。
「それからこいつだ。換金頼むぜ、張正さん」
全は担いできた袋を放り投げ、重かったと両腕を回して首をさすった。護は少女を背負ったままやり取りを見ている。張正と呼ばれた顔の肉がパンパンの小太り男は動揺から懸糸傀儡のようにカクカクと不自然な動きをしながら全を見た。
「換金ってお前、それよりもこいつをどこで」
「ポイントSu‐227の辺りだな」
「ポイントSu‐227だとぉ? あそこはひと月前にウチと『白猿』で合同殲滅作戦が行われたんだぞ、それがこんな…」
知らねぇよ、と全は耳を掻き指先に付いた垢を吹いて飛ばす。
『白猿』はこの辺りでは唯一『梁山泊』に肩を並べている組織の名だ。商売敵のはずだが偶々利害関係が一致したということなのかも知れない。
「それにな、何もいないどころか集団にも遭ったぜ。あれは流石にびびったけどよ。殲滅作戦なぁ、それが本当なら失敗だったってこったろうな」
そんな筈はないと張正は詰め寄るが、だったら行ってみれば良いと言われて返す言葉もなかった。魔犬の周りを囲むように同じ雇われハンターや従業員がざわざわと集まってきている。
「張正さん、とっとと換金してくれよ。こっちは早く帰らないと怒られるんだからさ」
「あぁ、いや、だが今回のこれは他に例が無いケースでもあるし、私の一存では何とも」
張正は上層部に伺いを立ててみると言ってカウンターへと向かおうとした。
「一体何事だ。やけに騒がしいが」
ホールに落ち着いた声が響く、途端に辺りは静まり返り、硬質な靴音だけが響いた。
白いスーツに赤いシャツの、いやに目立つ男が階段を降りてきた。黒髪を後ろで束ねて後ろに垂らしている。その視線は全とその後ろの巨塊に注がれる。
「これは、史進様。申し訳ございません」
張正は直立し頭を下げた。
護は静まり返った辺りの様子を伺いながら「誰?」と小声で全を見る。
「九紋竜史進。幹部・梁山泊四天王の一人だ。本名じゃねぇが腕利きのハンターだぜ。幹部は滅多に姿を見せねぇんだけどな、珍しいこともあるもんだ。俺も写真でしか見たことがねぇ」
史進は懐から眼鏡を取り出し、近づいて魔犬の傷跡を眺める。
「ほう、すごいなこれは。私もこれほどのものは初めて見た。これを仕留めるのはさぞ大変だっただろう」
傷に触れ、眼鏡越しの目を細めると「これは君が」と問いかける。
「んー。まぁ大変だったかな」
全は護の上で眠ったままの少女をちらりと見た。史進は不意に護の方を見た。目が合った護は緊張で固まった。
「その子は?」
恩人だ。全は即答する。
史進は立ち上がり全と目を合わせると「なら安心だな」と顔を緩めた。
「当然」
全が答えると張正は慌てて叫ぶ。
「全、お前史進様に何という口のきき方を」
史進は構わぬよ、と眼鏡を懐に戻した。
「それで張正、換金は済んだのか?」
「いえ、それはまだ。何せ初めてのケースでありますし、たった今お伺いを立てようかと思っていた処でございますれば」
そうか、と史進は再び塊を眺め全に向き直った。これでどうだろう、人差し指を立てる。
「100万だって? このレベルなら袋のと合わせて250は貰わねぇと割に合わねぇ。これでも二、三死にかけたんだ」
なぁと護に同意を求めるが相場も分からない護からは同意もなにもない。
「250で良いのかい?」史進は笑う。
「全君といったかな、私はこれ単独で一千と言っている」
その場の誰もが声を上げる。護達も例に漏れない。騒つく集団の中、張正においては放心している。
「相応の額だと思うのだがね。恐らく他の幹部も同じ判断をするだろう。我々としてもこれだけのものは見たこともない上、希少性も研究材料として申し分ない。もしかしたらこれによって一網打尽に出来る何かが分かる可能性もある。そうなれば更に追加報奨を出しても構わないと思っているのだがね。どうだろう、ご不満かな?」
「不満は……無い」
全の答えを聞くと史進はよろしい、と頷いた。
「張正、なにを呆けている。早く彼に渡すカードを用意しなさい。入口のは急いで地下の解剖室に回しておきたまえ、老師に連絡も忘れるな。野次馬も散らしておきなさい。それからポイントはすべて彼に還元するように」
てきぱきと指示を出すと史進は全に向き直る。その間、野次馬達は集まった警備に追い払われていた。
「全君、君の名前はよく聞いているよ。これからも我らが梁山泊の為に頑張ってくれたまえ、助手の彼は君の弟かね?」
「あぁ、そんなもんだ」
護は慌てて頭を下げようとしたが背中の少女を落としそうになり挨拶ができなかった。
「将来が楽しみだな」
全の肩を叩くとくるりと向きを変えて史進は階段に向かった。
「そうそう」
立ち止まり振り向かずに「お嬢さんにもよろしく伝えておいてくれ」とだけ言うと、史進は階段の先に姿を消した。
帰り道、色々なことが安心と共にテンション上昇に繋がっている護は浮かれていた。それは仕方の無いことである。今日一日の出来事は特別だった。
だが、それに引き替え全は梁山泊を出てからずっと黙ったままだ。
「史進さんっていい人だね、偉い人達ってもっと怖い人だと思ってた。すごく強いんでしょ? 見てみたいなぁ狩りしてるところ」
ようやく全は口を開いた。
「お前の言う通りだよ。九紋竜史進か、ありゃ怖いぜ」
護は意外そうに全を見た。
「あいつ、お嬢が紋章付きだって気づいていた。倒したのもな。まぁあんなもん倒せる子供となればそれ以外は考え難いんだが。それを分かっていて一千万も平気で出しやがった」
護には全がなにを気にしているのか分からなかった。
「梁山泊って集団は紋章付きには頼らねぇって典型的な旧人の集団だ。東京以外はどこも似たようなもんだが。それにも関わらずだ。あいつ一体何考えてやがる」
暗い顔を心配するように護が見つめていると気づいた全は苦笑した。
考えても始まらないことだと、手にしたカードをクルクル玩んで陰気を吹き飛ばすように大声を出した。
「さぁ、今日はご馳走だぜ。舞達に土産を買っていかねぇとな、お前は何が食いたい」
「ステーキが食べてみたいっ」
護は手を上げて夢の一つを提案する。
「よしっ、今日はもう二度と見たくないって思う位食わせてやる」
「ほんとに? やった!」
護は少女を背負ったまま跳ねるように駆け出した。
そのとき護は気づかなかった。
全が己の握りしめた右手を黙って見つめていたことに。