襤褸の少女
「あいつ、追われているみたいだが間違いない、紋章付きだ」
「えっ? ほんとに? でも違ったらあの人死んじゃうよ、それに紋章付きでもあんなの」
護は全と巨大な影を何度も見比べてうろたえた。どうしてよいのか分からないからだ。全は微動だにせず様子を眺めている。
「護よぉ、男なら黙って構えるもんだ。それにな見ててみろ、すぐに分かる」
あまりにもその姿が余裕に満ちているので真似るように護も立つ、心境は穏やかではないのだが信じるしかない。
再び爆煙が上がった。そして今度はそれと同時に扇形の水幕が広がった。幕は僅かな光を反射して光る。
「ほぉう、水の紋章か。しかも高圧で広げて噴射させやがった。あれは鉄でも真っ二つにできるぜ。おそらく終わったな」
言葉道理に、物音一つ聞こえないほど辺りは静まりかえった。
「護、行くぞ」
「え、行くの」
当然だ、と袋を担いだ全は丘を駆け下りる。護もその後を追いながら水幕の上がった場所を見た。
護がチルドレンの能力を直接見たのはこの時が初めてだった。
話には聞いたことがある。
何も使わず煙草に火を点けられるとか、生き物のように炎を操るとか、雷を落としたり地面を割ったり、空を飛んだり、植物と友達になれるとか水の上を歩くといった噂まで聞いた。どれを取っても夢物語のようで俄かには信じられなかった。
しかし、教会にもあるオーブはそれが事実であると告げている。
『オーブ』と呼ばれる球体のシステムに紋章の力を蓄積した、いわば電池のようなこの球は程度の差こそあれ新たなエネルギーとして世界中に普及している。
オーブの利用法は多岐に亘り、炎であれば灯火やガスエネルギーに、風であれば酸素ボンベのように使うことも出来る。水であれば通常の容量の数倍もの量を保持するタンクに、雷ならば大容量のバッテリーにもなった。
それまでとは全く違うエネルギーシステム『オーブ』
このオーブこそがチルドレンの存在証明に他ならない。
物理的な力、それ以上にエネルギーとして紋章はこの世界で大きな意味を持っていた。
護はその力の大きさを今初めて目の前で見た。それは大きな衝撃でもあった。
漸く先程の場所に近付くと周辺の地面はそこだけ大雨が降ったように水浸しになっていて足元が少しぬかるむ。土煙は水に濡れて大分落ち着いていた。
中心辺りに大きな塊が転がっている。あの魔犬だろう。
その手前には紋章付きであろう影が這いつくばるように両手を地面に着き、大きく呼吸をしながら体を休めているようだった。襤褸を纏っているのでそれがどういう人物か判別が付かない。まだ残っている粉塵がいつもよりも土の香りを護に感じさせる。水の湿り気が空気を冷やし乾燥する喉に心地良かった。
近づく気配に気づいた襤褸が立ち上がり、フードの奥から強い視線を二人に向けた。距離を取り明らかな警戒色を見せる。
全は襤褸を横目に見ながら回り込むようにして巨大な魔犬の様子を見ようとした。
「お前達は梶尾の手の者か!」
全は顔だけ襤褸の方を向いた。発せられた声には中性的な因子が感じられる。しかし明らかに女、それも子供のものだ。話し方にもまだ幼さが残っている。
「お嬢ちゃん、何のことか分からないな。そんなに警戒しなくても……」
近付こうとすると黙れと襤褸が叫ぶ。
「お前はチルドレンだろう、子供だからと私を騙せると思ったら大間違いだ。私にだってその位のことは分かるよ。絶対に東京には戻らない」
全は足を止めた。
動かぬ護と全を交互に警戒しながら襤褸は距離を取り後ずさる。不意に護が笑い出した。フードの中の目が護に向けられる。
「あはは、なに言ってるのさ。全ニィが紋章付きなハズ無いって、全ニィは東京嫌いだしさ、君を東京に連れて行ったりなんかしないよ。だから安心し……うぇ」
護の口を水の塊が塞いだ。両腕にも水の蔦が絡まっている。二本指を揃えた手が襤褸から護に向かって突き出されている。
「護っ!」
動くなと言うように全に振り向いた襤褸は「捕まる訳にはいかないの」ともう一方の手を向けた。足元の水が徐々にせり上がり両足に絡みつく。
「何をどう勘違いしてんのか知らねぇが、ちいとおイタが過ぎるな。護に手を出そうってなら只じゃ済まさねぇぞ」
両手の拳を鳴らし睨みつける。
どうやら護は鼻から呼吸が出来ているようだった。一安心して再び襤褸を見る。
「さぁどうすんだ。このままずっと居るつもりか、お前だって動けないだろうに。今ならまだ勘弁してやるから離せ。でなければお仕置きだ。それとも俺らを殺すか」
襤褸の目に揺らぎが見えた。
もごもごと護が声を上げる。全は頷く。
「わぁかってるって、すぐに助けてやっから」
護は大きくかぶりを振る。足まで振り上げて地面をびちゃびちゃ何度も叩く。
「なんだようるせぇなぁ、だからぁ――」
突如、背後で雷鳴のような魔犬の呻き声が上がった。襤褸が驚き振り向く。巨大な塊が動き出し、押し潰さんとその掌が高々と上がった。
「分かってるって言ってるだろ」
その瞬間二人の拘束が緩む。同時に全は駆け出していた。
巨大な掌は襤褸目掛けて振り下ろされたが、寸での所で全に抱えられ逃れた。
辛うじて立ち上がった巨体は倒れぬように足を広げているがそれさえも震え、今にも崩れ落ちそうだった。弱りきっているのは誰の目にも明らかであった。
襤褸は転がった時にフードがめくれて端正な少女の顔を露にしていた。
黒髪の美しい少女。
全は少女の上に馬乗りになったままその顔に見入った。
「ほう、将来が楽しみなお嬢さんだな」
「ちょっ、どいて、エッチ!」
「おいおい、嬢ちゃんよぅ。残念だが俺はお子様には興味が無いんだ。女ってのはこうボンッとなってキュウ~ときてスラ~ってのが良いに決まって…」
全の目の前に水の弓矢が向けられる。少女の目には本気の炎が揺れているのが見えた。
「あれ、怒ったか」
作り笑いを浮かべても少女の表情に変化は無かった。仕方ねぇなと溜息を吐いて全は腕を組む。
「外すなよ」
ニヤリと笑うと全は体を後ろに倒した。
眼前には巨大な顔が二人に覆い被さらんばかりに口を広げて迫っていた。
刹那、矢が放たれその脳天を貫く。
断末魔の悲鳴を上げる間もなく頭が弾かれた塊は、その威力にわずかに宙を舞った。
地鳴りと共に砂塵を上げて魔犬は沈黙し、再び辺りには夜の静寂が訪れた。
「全ニィ~~~」
離れていた護が駆け寄って来るのを全は逆さまになったまま眺めている。
「大丈夫? 全ニィ」
「あぁ、それよりも」
起き上がると少女は気を失っていた。全は立ち上がりその姿を眺める。
襤褸からのぞく少女の体には傷が窺えた。
彼女が来た方向を見た。その先には彼方にそびえ立つ東京が眩い明かりを溢れさせている。
「すごいんだねぇ紋章付きって、びっくりしちゃった。この子僕と同じくらいかなぁ」
護は先の初狩猟も忘れて興奮している。
「そうかもな、しかも能力は極めて高い。最後の矢、ありゃ媒介が無かった。相当なもんだ。だからこそ疲労に耐え切れずに気絶したんだろうけどな」
何も無いところから水を生み出す。無から生まれる有。
それは紋章付きでも一定以上の才覚と能力が必要なことだ。
これこそ紋章がかつての世界の理を覆した理由でもある。
「さてどうしたものか?」
このまま放置するというわけにもいくまい。いくら紋章付きとはいえ、まだ幼い少女である。しかし、連れるにせよ全には一抹の不安が残った。それは彼女の言った名前。
「梶尾なぁ…」誰にも聞こえぬよう呟いた。
「連れてってあげようよ、こんな所じゃ危ないし、あのでかいの倒してくれた恩人だよ」
「恩人ねぇ、俺もお前もこいつに拘束されてなかったか。それにむしろ俺は助けたぜ。しかもこのお嬢ちゃん訳ありだぞ」
でも……と護は少女を見下ろす。
その様子を暫く眺めて全は立ち上がった。
「まぁいい、それじゃお前の担当な。しっかり背負って連れて来い」
「え~、全ニィは?」
馬鹿だなぁ、体中の砂埃を払った。
「あれがあんだろ」
親指を後ろに向けて全は笑った。