魔犬狩り
空は紺と青と紫と赤、それらがグラデーションを織り成し間もなくその姿を夜へと変えようとしていた。日は昇り、沈めば夜が訪れる。空はいつもと変わらぬ工程を経てその日が終わりに近付いていることを人々に知らせる。
しかし、その日は決められた自然の運行に抗うように強い光が一本の柱となって空を貫いた。
その様はまるで塔のようでもある。光は次第に細まり、名残惜しそうに途切れ消えていった。
その光を眺める姿が落ちていく紫がかった太陽に辛うじて映し出されている。
「ありゃあ、やっぱり東京だな。近頃よく見かけるが一体何なんだ。イルミネーションにしちゃ時間が短い、宇宙人と交信してるって噂、まさかホントじゃねぇよな」
大きな岩の上に立ち指貫の手袋に包まれた右手を見つめる。全は暫く考えに耽っていたが、悲鳴に近い声でその名を呼ばれて現実へと引き戻された。
土手の下方に開けた空間へと目をやると護が全力で駆け回っている。その後ろからは黒い影が猛然と迫っていた。
「護よ~、逃げてばかりだとそいつが調子に乗るだけだぞ~。背負ってる日本の魂は飾りもんか~? 教えた通りにやればお前なら出来るって~」
護は顔をしかめて後ろを気にする。
そう言われたのもそうだが走るのも既に限界だった。ここでやらなければ後がない。護は足を止めて振り返り刀を抜いた。その手は震えてカチカチと刀が鳴る。
黒い影が迫ってくる。赤々と輝く魔犬の眼はしっかりと護の姿を捕えていた。足音が次第に大きくなりその姿も大きくなっていく、汚らしい呻き声が近付いてくる。
護は全に言われた言葉を小さく反芻する。
目は離すんじゃねぇぞ、動きをよく見ろ、冷静になれ、焦ったら負けだ。肩の力を抜いて、ここだって時に息を吐きながら振り下ろすんだ。いいな。
何度もその言葉を呟いて大きく息を吸った。
魔犬が近付く。まだだ。
もっと近付く。まだだ。
さらに近付く。まだだ。
そして飛び掛ろうと踏み切る。
今だ!
護は大きく息を吐きながら刀を振り下ろした。
どん、という音と共に刀は大地に食い込み、鮮血が飛び散る。暖かいものが護の頬を伝った。
次第に痺れた頬がずきずきと疼きだす。恐る恐る振り返ると無傷の影はゆっくりと方向を転換して護に向き直った。
護は一目散に駆け出して全を呼ぶ。
「ゼンニィ! 無理っ、やっぱ無理!」
「しょうがねぇなぁ、まぁ、正面から向き合っただけでも上出来か」
軽くストレッチをした全は背腰から両手で逆手にナイフを二本引き抜くと岩を飛び降り勢いよく坂を駆け出した。
大きく息を乱した護はふらつき、躓いてバランスを崩す。その瞬間をここぞとばかりに逃すまいと魔犬が飛びかかった。
黒い影が護を覆う、暗闇が迫るその瞬間が護にはスローモーションで見えた。
「ふせろっ」
その言葉に護の腰が落ちる。
スローモーションの視界に全の姿が映った瞬間、護の中で再生ボタンが押された。
全は魔犬を蹴り上げ、上がり様に交差させた腕を広げるようにしてその首を掻き切った。
一瞬、ほんの一瞬、それでこの狩りは終わりだった。
へたり込む護の目にはナイフを逆手に両手を広げた全の後姿がとてつもなく大きく映った。
その黒いジャンパーの背には白い十字架が鮮烈に輝いている。暫くその姿に護は見惚れていた。
「おい護、大丈夫か」
差し出された手に気付かぬかの様な護の表情に全は顔をしかめる。
「ホントに大丈夫かお前、どっか打ったか、顔の傷は大したことなさそうだが、もしかして腰抜かしてないよな」
止むを得ず護を持ち上げるように立たせると、ワイヤーカフスを取り出して倒れている魔犬の足を束ねた。
これで今日は二匹、上々だ。いかな魔犬といえどもゲームに出てくる雑魚キャラよろしく何十匹もうろちょろしている訳ではない。
この辺りは人民区から離れたエリアで樹木の姿も見えない荒野然とした殺風景な地区である。
かつてはここも大勢の人で賑った町があったらしいのだが、今はその名残も見あたらない。
この国にはこのような場所が点在する。人の住み難い場所が増えたのは魔犬のせいだけではないが一因であるのは間違いない。それにしても焼け野原のようなこの場所に町があったのだとすれば一体何がどうなるとここまで荒れるのか全にも疑問だった。
獲物を入れた袋を取って来ようと立ち上がろうとすると不意に護が声を上げた。
「全ニィ、危ない!」
その瞬間、全の背後の草陰からもう一つの影が飛び出した。
辺りに何の気配も感じていなかった為に驚きはしたものの、焦りはなかった。
近付いてくる呻き声をゆらりとかわしてそのまま切りつける、只それだけのことのはずだった。
だが、飛び掛った魔犬の体は中空で留まりそのまま落下した。
落下した肉塊のその向こうには刀を振り下ろした護の姿があった。
大きく目を見開き肩で息をする護の手にはしっかりと柄が握られている。
全は立ち上がり大声で笑い出した。
「すげぇじゃねぇか護っ、やったなぁ、助かったぜありがとよ」
背中をバンバン叩くとハッとした様に護は全を見上げた。
「あれっ、えっ、 僕…やったの」
上出来だ、と全は頭をいつもの様にくしゃくしゃに撫でた。
「しっかし胴切りたぁ驚いた」
以前から護には素質があると見ていた。
年齢の割に身体能力も高く、センスもあった。その力には目を見張るものがある。
だからこそ狩りにも連れて行くし一人で狩らせようともした。本来であれば魔犬から走って逃げることだって難しいのだから、それをやってのけている護はただでさえ並外れているのだ。
思っていた以上の潜在能力があるのかもしれない。
そもそも非力な子供が生き物の胴を真っ二つにするにはかなりの技術を要する。大人でさえも簡単なことではない。脂肪、筋肉はもちろん骨だってある。まとめて斬るにはそれらを両断できる物理的な力が必要だ。
それが無いのならば力学的な理解と技術の習得が必要になる。しかし、だから出来るかといえばそう上手くはいくまい。解ることと出来ることは違う。
それを無我夢中とはいえ、十二の子供がやってのけた。とんでもないセンスである。
そして何より、護は全に感知出来なかった気配を、あの瞬間いち早く察知した。
これがもし偶然でないならとんでもないことだ。
それは本来経験と技術に裏打ちされた積み重ねによって初めて感じることが出来るようになるものである。それをいとも容易く行ったばかりか、ベテランでもある全のレベルを一足飛びに越えた可能性もあるのだ。
分断され転がっている魔犬を眺めながら全は心が躍るのを感じた。面白い。
全は犬を放り、縛っておけと指示を出して袋を取りに行った。
護は言われた通りにワイヤーカフスを取り出し手足を括る。
袋を持って戻ると護が縛り終えた魔犬を袋の中に放り込み袋の口を縛る。
「今日もいい感じだ。まぁサイズが小さめだがいいか、これならあと一匹はいけそうだな。うまく見つかればだが」
そう言いながら懐から取り出した消毒ジェルを塗ったフィルムを護の頬に貼り付ける。染みるのだろう護は「いーっ」と声を上げてジタバタした。
「おっと、噂をすれば次の獲物だぜ」
全が見た方角を護も見る。影が真っ直ぐこちらに向かっているのが見えた。しかし何か様子がおかしい。全は眉根を寄せた。
「おい、ありゃあ何だ?」
全の口元は笑っているが決して楽しいからではない。影の方を見ると影は二つになっている、いや三つ、四つ、その数は増え続け十に近い。土煙がもうもうと上がり迫ってくる。
全と護はお互いに目を合わせた。
「にげろっ!」
言うと同時に二人は駆け出した。
いかな全でも護を庇いつつあれだけの数を相手にするのは厳しい。一匹ずつならまだしもいっぺんに襲われればひとたまりも無い。
魔犬は単体で行動するのが殆どで、まれに集団行動を取るとは聞いたことがあったが、実際に見たことは一度もなかった。その上約十匹もの数である、極端もいいところだ。
「なんだよありゃあ、お前何か狙われる様な物もってんじゃないのか。それとも先刻の奴の敵討ちか、 体真っ二つにすりゃ怒りもするよなぁ……。しかもあいつら早いぞ、このままじゃ追いつかれっちまう。護、お前ちょっと謝ってこいよ」
「なっ、何言ってんだよ全ニィ、狙われてんのはそっちじゃないの? 僕は先刻のが初めてなんだよ、全ニィなんてもう数え切れないでしょ? 謝るのは全ニィだと思うよ」
先の疲労もある、このまま逃げ続けるには少々厳しい状況であることは明白だった。
「そっかぁ、謝ったら許して……くれないだろうなぁ、やっぱ」
そうこうしている内に魔犬の集団は二人に並走するように横一直線に並んでいた。
二人は目線だけで左右を確認し、半ば覚悟を決めた。
こうなればやれるとこまでやるしかない。
並走する集団はおそらく切欠を見つけた途端に一斉に飛び掛ってくるだろう。それがいつ訪れるのか二人は神経を集中させて時を待った。全も護もその瞬間に向けて何通りも行動予測を立てる。
ピリピリとした強烈な緊迫感を伴う時間だった。
ところが予想に反してその瞬間はいつまで経っても訪れなかった。
魔犬達は襲い掛かるどころか二人をそのまま追い抜くと、気付くでも振り返るでもなく遠ざかっていった。
二人は足を止めて土煙を見送った。全は大きく深呼吸して息を整えて風に流されていく土煙の残骸を眺める。
「一体どうなってんだこれは?」
「分かんない、でも助かったね」
護は両手を膝に付いて荒い呼吸を整えている。
まぁなぁと全は頭を掻いた。
しかし、あれだけの数が集団で一度に現れることそのものが大問題である。
最近その数が増えてきているとはいえ十は多い。
「嫌な予感がするぜ」
「感じる」
「ん? 感じるって何を」
思いもよらぬ返事に全は目を丸くした。護はそんなことはお構いなしに振り返り、その方向を指差す。指し示す先には小高い丘がある。
「あっちに何か居るよ、嫌な感じがするんだ」
全は護の感知力を思い出し、ものは試しと丘に登ってみることにした。
近付くにつれ全も周囲に拡がる奇妙な気配を感じ始めた。
二人は小走りに丘を登りきると周囲を見回す。日は落ち、辺りは薄闇に包まれている。暗闇の境界が曖昧で判別が難しい。
あそこだと護が指差す。同時に全も同じ方向を見ていた。
示された場所に爆煙が上がる。
煙の中から黒い影が飛び出した。
魔犬だ。魔犬は何かを追っているように見えた。
だが……。
「で、でかい、ちょっ、あんなの初めて見た。全ニィあんなのいるの?」
「あれは子供…、しかもあれは」
魔犬の大きさもさることながら、それに追われている人影の方が気になっていた。あんなとんでもないモノに追われているなんて不幸以外のなにものでもない。普通だったら助からないだろう。
「どうしよう全ニィ、助けないと…、でもあんなのに狙われたら僕たちだって」
どう見ても魔犬は通常の八~十倍の大きさがある。人間など丸呑みされてもおかしくない。
これ程までに巨大な魔犬の情報などとんと聞いたことが無い。どうやら先の魔犬集団は逃げている最中だったようだ。
より強大な力からは逃げる、それが生物の本能であり種の存続には必要な判断である。
「あれって魔犬十匹以上の強さってことになるのかなぁ?」
護の言葉に全は腕を組んで一概には言えねぇなぁと呟いた。
「そういう見方も出来なくはないけどな。でもお前が言っているのは犬が犬に怯えて逃げてた場合だろ?」
「そ、それはそうだけど他の見方って?」
「居るじゃねぇか」と顎で示した。