蜘蛛
翌朝、いかようにして居場所を知ったのか、泊まっていた宿にやってきた従者に連れられて葦高は恋鐘と共に周防の屋敷へとやってきた。
布津母の町はそのおよそ七割が武家の敷地として使用されており、
町人の活気が雰囲気を支配する長屋通りを少し歩けば、そこには同じ町とは思えぬ厳かな町並みが軒を連ねている。
周防の屋敷はその中でも一際立派な屋敷であった。
「ほぁ~、これは立派な屋敷じゃの~。これではあの村長の家など馬小屋じゃ」
「黙っていろ」
屋敷の門をくぐりつつ、その全景を首を振り回すように眺める恋鐘。
葦高の裾を掴んではぐれないよう最低限の理性を残して
彼女の旺盛な好奇心は屋敷の庭や廊下、そして通された客間の装飾に至るまで例外なく注がれ続けたのだった。
そしてその視線の最後を飾るのはしばしの間をおいて同じ客間へとやってきた美しい女。
「夜鷹!」
葦高たちと同じく従者に連れられやってきた夜鷹が襖を開けて見たのは、
思わず背筋が伸びる厳かな客間と、その中心に大きな薬箱を背負ったまま座す顔に麻布を巻いた男。
そして、その張り詰めた雰囲気をぶち壊すように室内を走り回る童女の姿だった。
「まったく遅いぞ夜鷹! 葦高はさっきから一言も話してくれんし童はもう退屈で死にそうじゃ~」
「ごめんなさい。少し準備に手間取ってしまって」
今の今まで興奮して走り回り、額に汗すら浮かべた顔で言う退屈ほど説得力のない言葉もない。
先日顔を合わせ、短いやり取りを一度交わしたばかりだというのに、全幅の信頼を寄せたような笑顔を向けられ思わず夜鷹の顔がほころぶ。
彼女にとって意外だったことがあるとすれば、目の前の童女が自身の名を呼んだこと。
「私の名前をあの子に? 少し意外ですね」
声をかけた先の葦高から返事はない。
夜鷹の主観でしかないが、少なくとも先日の出会いの中で葦高は目の前の童女にも自分にもいい印象を持っているとは思えなかった。
ゆえに奉行所を離れた後に合流したのであろう彼女に自分の名前をわざわざ教えた彼の人間らしい行動が意外だったのだ。
「確かにこの調子で待たされては、いささか退屈かもしれませんね」
胡坐をかいて座る葦高の背からは特に張り詰めたものは感じない。
何か思考に耽っている様子ではあるが、緊張しているわけでもなければ、なにかに怒っているわけでもない。
健気にも声をかけ続ける童女のせがみを完全に無視するその絵面はなかなかに大人気ないものだった。
「それでは、ここで待つ間私とお話しをしていただけませんか? 少しは退屈も紛れるでしょう」
「本当か!?」
「ただ、その前に」
夜鷹の申し出に浮足立つ恋鐘を制して、二人は座りまずは挨拶を交わす。
お互いの名を改めて名乗り、自身が何者であるかを示した。
恋鐘はすでに名を知っている夜鷹に改めて名乗られる意味をよく理解していないようだったが、
自身の名前を聞き返されると嬉しそうに笑みを浮かべて名乗り返すのだった。
二人が好きな花の名や美味しい甘味の話など他愛ないやり取りで時間を潰している中、
葦高はこの屋敷について考えを巡らせていた。
先日のやり取りの中で、呪法に関しての心得があるとのたまっていた周防という男。
曰く七財なるヨウガイすら屠る技術を編み出したこの男が己の屋敷によそ者を招くのだとしたら相応の用心をするはず。
そのため葦高は最低限屋敷に結界の類でも施されているだろうと踏んでいたのだが、
通された道のりには勿論、広い屋敷のどこにも呪術的な罠なり結界なりが施された気配は感じない。
「……違うな。気配はある。二つ……いや二人。
なるほどその身体そのものが呪術の塊ということか」
合点がいったと小さく膝を打つ葦高の笑みがこぼれたことに夜鷹が気づき顔を上げる。
「なにか捉えましたか?」
「さてな……いくぞ恋鐘、待つのは終わりだ」
沈黙を続けていた葦高がその言葉と共に立ち上がると、待機の指示を無視して歩き出す。
初めて訪れる屋敷にもかかわらずまるで目的地がどこにあるかを理解しているように、
襖で幾重にも仕切られた部屋を通り抜けながら突き進んでいく。
その足早な歩行に身の丈が小さい恋鐘は小走りでついていくしかない。
まるで母鳥を必死に追いかける雛鳥ような童女の姿に、最後尾からその様を見つめる夜鷹は二人の関係性を上澄み程度には理解するのだった。
「恋鐘さんは葦高様がお好きですか?」
「なんじゃ、藪から棒に」
「いえ、随分と彼を信頼しているようですから」
「当然じゃ! なにせ童はいずれ葦高の伴侶となる女子じゃ。葦高への想いは誰にも負けぬ!」
「あらまあ……」
背後からの問いに首を振り向かせて応えるつつ、足を止めず葦高との距離を広げまいと歩き続ける恋鐘。
その発言は幼い少女特有の微笑ましいもので夜鷹の頬がまた緩む。
昨日あれだけの男たちを殺害した彼女も、幼子には人並みの情を沸かせていた。
反面葦高は会話に興味がないのか、無言のまま背負った薬箱を揺らしている。
あれだけの好意を寄せられていながらこの態度。見る限り照れ隠しという風でもない。
葦高は心の底から恋鐘を嫌っている。だというのになぜ彼女をそばに置き続けるのか。
二人の関係性。その深奥に溜まった淀みまでは今の夜鷹には察しえない。
「この先だな。まったく面倒をかけてくれる」
まるで迷宮のような屋敷の中をひとしきり進んだ末に葦高はようやく足を止めた。
部屋の周囲を取り囲むような襖絵には、巨大な蟲の姿を纏ったヨウガイと、
それに立ち向かう男たちの姿が、まるでその歴史を伝えるように描かれている。
画に描かれたヨウガイは皆立ち向かう人間よりも大きく、戒めのようにその強大な力が表現されていた。
百足や飛蝗、蟷螂、羽虫、蜚蠊とどれも見れば寒気がする異形の容貌、そして中でも一番大きく、最大の障害として描かれているものがいた。
「これは……蜘蛛、でしょうか」
その蜘蛛は、他に描かれたどのヨウガイよりも巨大で、その強大さを特に強調して描かれているように見えてならない。
足を侍に断ち切られながらも、一人でも多くの人間を食い殺さんと大口を開けるその様には
襖絵でありながら今にも動き出してこちらに襲い掛かってきそうな迫力があった。
「……自身のお住まいに飾る襖絵にしては、あまり趣味がいいとは言えませんね」
「ううむ、同感じゃ。こんな絵があったのでは恐ろしくて眠れたものではないわ」
夜鷹は忌避を、恋鐘は恐怖をそれぞれ口にして、しかし唯一葦高だけは肩を震わせて笑っていた。
その表情は麻布に覆われて見ることはできないが、漏れ出る声色からその笑みが歓笑や苦笑の類でもないことは明らかだった。
「まったく、よくもまあこんなものを絵画に残せたものだ。
誰が描いたものか知らんが誉めてやろう。せいぜい喜べ」
それは嘲笑だった。
口では誉めると言っておきながら、その心は侮蔑に満ちている。
その対象はこの襖絵を描いたものに向けられているのか、それとも描くのを命じたものか。
葦高はそんな笑い声を不気味に響かせたのち、
おもむろに蜘蛛が描かれた襖に手をかけ勢いよく開け放ったのだった。
・・・
「痛だだだだだだだッッッ!!!!!!」
襖を開け放った先に満ちていたのはそんな絶叫だった。
男が並んで二十人は楽に座れるだろう巨大な広間にいた人影はたったの三人。
この屋敷に葦高たちを呼んだ張本人である周防正彦。
その正面に敷かれた布団の傍らに座しているのは見覚えのない一人の少女。
そして彼女が向かう布団の上で痛みに耐えかねず暴れているのは、先日葦高と激闘を繰り広げた清史郎であった。
「痛だだだだ! ちょ、ちょっと待っ、痛っだあぁぁああああああ!!!!!!」
「暴れないでってば! そんなに動かれちゃあ治るものも治らないでしょ!」
痛みに悶絶する声と、それを抑え込もうとする声はどちらも必死さに満ち満ちたものだったが、同時に緊張さに欠けるものだった。
まるでいたずらを見咎められた子が母に折檻されているかのような、そんな光景である。
それまでの荘厳とした気配をある意味消し飛ばすありさまを見せられ硬直する葦高たち。
そんな彼らの様子に様子に気が付いた周防は晴れやかな笑顔で手を振りながら声をかけるのだった。
「やあやあ!これはこれは申し訳ない。治療に少し手間取っていてね」
「ほら! 清史郎さんが暴れるから皆さん来ちゃったじゃないですか! 男の人なら少しは我慢してください!」
「うごおおおぉおおおお!!!!」
見れば年若いその少女は、治療を受けている清史郎と同じくらいか、さらに若い印象を受ける。
男女の違いはあるだろうが、化粧っ気がなく幼さが残る容姿から見るに元服前であることは確かだろう。
周防は優秀な術者を囲っているようなことを言っていたが彼女がそうなのだろうか。
「あぁもうッ! じっとしないならもう手加減しませんから!」
「あがががが!」
そう言いながら少女が手を当てているのは清史郎の腹部。先日葦高が蹴破り損傷させた部位に違いない。
だが優に内臓まで至っていたであろう重症の傷が今の清史郎には見受けられない。
当初は死への秒読みが始まっても不思議ではなかったというのに、現状目立った外傷はすべて消失していた。
そしてたった今も腹部に当てられた手のひらから治癒の力が淡い光を伴って流し込まれていた。
「ふう……これでズレていた骨と内臓の位置も元通り! 清史郎さん? 何か言うことは?」
「はい……ありがとう……ございました……」
治療の完了を告げられたとは思えないほどに憔悴した清史郎のお礼が広間に響き渡る。
先日あれほどの激闘を繰り広げた戦士をここまで疲弊させる少女は何者なのか。
夜鷹は口元に手を当てて笑い、恋鐘は涙目を浮かべて怯え、葦高は警戒に眉を顰めていたのだった。
「改めまして、ご挨拶が遅れてすみません。わたしは周防藍子といいます」
そしてしばらく続く清史郎の悶絶をよそに挨拶を交わす面々。
名を名乗る葦高たち三人の仕草はそれぞれが、粛々、溌剌、最低限、と皆異なったものだったが、少女の名前を聞いた時の反応は皆同じだった。
「周防とな?」
「そう、何を隠そう僕のたった一人の自慢の愛娘さ」
山吹色の小袖を身に纏った少女、周防藍子。
細身で妖しく不健康そうな父親とは対照的に健康的なその姿は、
恋鐘の無邪気さとも夜鷹の美しさとも異なる可憐さだった。
人前で父に自慢だと言われたことが恥ずかしいのか、その頬はほのかに赤らんでいる。
その感情がそっくりそのまま顔に出る性分を含めてすべてが周防正彦とは正反対であった。
「に、似とらんのう……」
「そういう君は謎の三人目か。選別の時には見かけなかったと思うんだけど、何者かな?」
思考がそのまま流れ出る恋鐘の口ぶりをきっかけにその姿を見やる周防。
口ぶりを見るに屋敷に入ってきた時点で、招待した二人以外のものがやってきたことを察知していたようだ。
「童は恋鐘! いずれ葦高の伴侶となる女子じゃ。
いやはや、今日はこの挨拶がいっぱい言えて実にいい日じゃのう」
「……この愚図の言葉に耳を貸すな。聞くだけ無駄だ」
「なるほど、よくわかったよ……」
全員の挨拶が済み、そろそろこの屋敷へやってきた本題へと話を進めなければならないが、そのためにはもう一人の復活を待たなければならない。
そんな折、ようやく清史郎の悶絶が収まったのはそれからしばらくの時がたってからだった。