夏のまぼろし
どうして、後悔はいつも後になってからでないと分からないのか。
初夏の日の入り、僕は一人で雑木林を歩いていた。
山の縁に消える太陽は、向かい合う山々の端を真紅に染め上げ、白んだ月と一緒に美しい景色を彩っている。
なぜ歩いているのか、自分でもよくわからない。
きっと、自分でもよくわからないうちに歩き始めて、よくわからないうちに歩き終えるのだろう。思えばそれは、僕の人生そのものだ。
林を進んでいると、夜前の冷たい風が吹いてきて、冷たい汗が身に染みる。
高い木々のその頂上だけが陽を受けていたが、暫くしてそれらも影に沈んだ。
視線を落とし、周りの林を眺めて、こんなに暗くなるまで気が付かなかった自分の呑気さに呆れた。
あたりはすっかり闇に支配され、今まで気にも留めなかった虫の鳴き声や葉の擦れる音が耳に障った。
もう巣に還ったのだろうか、鳥の声だけは聞こえなかった。カシオペア座の隣には、燐の火の様な美しい青い火が燃えていて、僕の心に迫るものがある。
不思議と安心感を覚える闇の中で、そうして僕は独りでただ立って、夜空の星を見ていた。
どのくらいそうしていたのか、自分でもわからなくなったその時、目の前にぽっと灯が点いた。
淋しそうに立つ街灯が、夜空に輝く屑星を消し去ってしまった。
続いて灯る街灯たちが、暗闇の森の中に、針の様な細い光の道を通した。
妙な圧迫感を感じながら、僕はその道を歩いた。蝉の必死な歌の中に、枯れ枝を踏みつける渇いた音が混じる。
空の星々は街灯に掻き消され、ただ満月だけが輝いている。
夏の草いきれの匂い、――あの胸が詰まるような濃い草の香りがした。
鼻腔をいっぱいに満たす香り、肌に微かな振動を伝える蝉たち、木々が擦れる音、美しい満月と、見通しのきかない薄暗い森。夏の夜に圧倒されながら、僕はまっすぐ歩いた。
草木のない少し開けた所に出ると、そこには先客がいた。
月の光を浴びて、石のように立っていた。
空に光る綺麗な満月を見て、その少年は物憂げに、そして悲しそうに笑っていた。
いや、満月ではない。そのもっと手前を眺めている。
月が煌煌と輝く傍に、一軒の家が建っていた。少年はその二階の窓を覗き込んでいるのだった。
僕はその様子を黙って眺めていた。もしモネがこの光景を描いたら、きっと幻想的で美しい絵画が出来上がるだろうと思った。
窓は唐突に開いた。
彫刻された木の合わせ窓が開く様は、まるで蕾が開花する様子を考えて作られているようだった。
そして実際そうなのだろう。花弁の隙間から顔をのぞかせた少女は、初夏の夜の空気を胸いっぱいに吸い込んでから、切なそうに、それでいてどこか恍惚とした表情で、綺麗に輝く月を見上げた。その姿は祈りのようにも見えた。それを見た少年は、くしゃくしゃに顔を歪ませた。
なるほど、これは残酷な満月だ。
僕の足は、自然と月光下の家に向かった。
僕は泣いていた少年を突き飛ばした。ただ無性に腹が立ったから、突き飛ばしてやった。
少年は驚いたように目を見開いている。
僕はその少年を無視して、その家の日本風の引き戸を開けた。土足で踏み込んで、階段を上がった。一段上がるごとに、階段が不愉快な音を立てて軋み、そのたびに心臓が少しずつ跳ね上がるのが分かった。
僕が階段の半ばに差し掛かった時、少年がドアを蹴破り、あっという間に階下から追い上げて、そして少女の部屋の前で立ち止まった。彼は震える手で、ドアにかけてあった木札のネームプレートをそっと取り上げた。
糸杉の細い枝の中に“――――の部屋”と丸っこい字体で刻んである。それを後生大事そうに胸に抱き、少年は膝から崩れ落ちた。
その様子を横目で流しつつ、僕は覚悟してドアを開けた。
そこには僕と同じくらいまで成長した少女がいた。窓から身を乗り出して、美しい満月を眺めている。
同時に、僕は理解した。あの時彼女が何を祈っていたのか。
僕があの日、あの月を見上げた日に、彼女もまた同じように――だがそれも僕にとって辛い理由で――その綺麗な天体を見上げていたのだろう。
――随分と残酷な仕打ちじゃないか。
僕は後ろ手でドアを閉めて、彼女の少し後ろで立ち止まった。
「……ねえ、」
なんの返事もなかったが、僕は気にせず進める。だってこんな夢みたいなこと、もうないだろうから。
「そこからは、よく見えたかい?」
彼女の肩に、震える手を乗せた。
何が、とは言わなかった。石のように立ち尽くしていた僕、そんなこと気にも留めないで願い続けた君の想い、それは結局どうなったのか。
それを聞くのは、あまりにも無粋な気がした。
いや、本当は答えを聞くのが怖かったのかもしれない。
だって、いったん口を開かせれば、どんなにつらい言葉が彼女の口から飛び出すかもわからないじゃないか。
だから僕は、口を塞ぐ代わりに、彼女をベッドに押し倒した。
彼女は僕の腕の中で、動きずらそうに強張っていた。しかし最期には何か決心したように、何も言わずに、そっと僕の胸に額を付けた。
何度も夢に見た短めの髪と、そして懐かしい温もり、香ばしいうなじの匂い。少しくすぐったい。
胸が苦しくて、息ができない。なのに、何度も自分から唇を合わせた。
へそのあたりがとても苦しくて、胸に向かって切なさが駆け昇ってくる。
僕は、彼女の頭を抱き抱えるようにして、そのうなじに口を押し付けた。熱した頭を、冷たい砂に押し当てるように。
きっと、僕はその時、とても変な顔をしていたと思う。
彼女は淋しく笑って、震える両手を脇の下から通し、僕の背中を確かに掴んだ。
肌が温かい。そんな当たり前の事にも涙が出た。
抱き合っている間、僕等はその腕を決して解こうとはせず、事の後も二人で肌を合わせたまま、眠りこけるまで話し合った。
綺麗なお月様だけが、僕らの夜の証人だ。
心地良い虚脱感の中で、僕等はぐっすり眠った。
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そうして目が覚めた。
遠くの軒下から、昨日付けた風鈴の音が聴こえてくる。
あの頃は全く知らなかった女の娘が、横の布団で気持ちよさそうに昼寝をしていた。
僕はその髪を撫でて、もう一度瞼を閉じた。
ああもういつまでも嘆くまい。