3話 子守唄は愛で包むように
アルテシアは以前とは違い、メイド服ではなくドレスを翻してオズワルドの執務室に入る。カートも持っておらず、さらには今日はユイリアもついてきていた。
部屋の中はいつもと変わらず、入り口の正面に窓を背後にするようにして執務机があり、オズワルドはペンを走らせている。珍しくいた侍従はオズワルドの机に書類を置いていた。
アルテシアはカツカツとヒールの音を響かせながら部屋の中央へ進み、そのまま机の前で向かいあうように置かれていた二つのソファーのうち、片方に座る。
すると「アルテシア様」とユイリアの低い声が鼓膜を揺らした。ぞわりと背筋が震え、鳥肌が立つ。これは、もしかして……。冷や汗を垂らしながらそろそろとユイリアの方を見ると、彼女は笑っているように見えた。……見えただけで、実際には全く笑っていないのだけれど。
「……な、なにかしら、ユイリア?」
「…………いえ、なんでも」
「なんでも、な顔じゃないわよね!? え、怖いんだけど!」
――これは間違いなく怒っている。いつもよりも、すごく。さすがにこれはまずいわ。いったいなんの琴線に触れてしまったのかしら??
アルテシアがそう考えながら目を白黒させて震えていると、ふっ、と思わずといった笑い声が聞こえてきた。そちらを見れば、オズワルドが口元を押さえ、肩を震わせている。
(そういえば、最近笑うようになったわよね)
最初の頃なんかひたすら仏頂面でこちらを見下していたというのに。これは仲良くなったからかしら?
そう思うと、自然とアルテシアも笑みを浮かべる。何だか嬉しくて、幸せだった。
長閑な雰囲気が漂い始めると、パン、とオズワルドの侍従が手を叩いた。
「さて、話し合いを始めましょうか。アルテシア姫、こちらが我が国が……というより陛下が考えている案の概略です。目を通してください」
そう言って、侍従はアルテシアに書類を渡した。概略だからか、簡潔に一枚の書類にまとめてある。「分かったわ」と言って受け取ると、ゆっくりと目を通し始めた。
そこには『サツマイモ』と呼ばれる最近南西の国々から伝わってきた植物のことが書かれていた。この『サツマイモ』は栄養価が高く、さらには開墾しなくてもよく、乾燥にも強いためかなり育てやすいとのこと。春に植え、秋に収穫するらしく、冬の保存食にするのはどうだろうか? という案だ。
アルテシアはさらに下へ視線を移す。だけど問題点がいくつかあるらしく、その最もたる例が暖かい地域でしか育たず、シュミル王国では南部でしか育たないらしい。南部で育てたものだけで全国民の食料を補うのはかなり無理があるとのこと。
「ふーん」とアルテシアは声を出す。
「シュミル王国の南部でしか育たない……ね。ということは、レーヴェン王国なら全土で育つのかしら?」
「さぁな。ただ、その可能性は高いだろう」
「ふーん」
アルテシアはもう一度書類に目を通すと、顔を上げ、オズワルドに尋ねた。
「これ、レーヴェン王国に送ってもいいかしら? レーヴェン王国全土で栽培してもいいか尋ねるわ。それで栽培が成功したら収穫量の何割かをシュミル王国へ送る。それでいい?」
「ああ、いいぞ」
その言葉に頷くと、アルテシアはユイリアに書類を渡した。ユイリアが受け取ったのを見ると、侍従がすかさず封筒を渡す。機密事項だから、万が一他に漏れてしまわないように、という配慮だろう。
アルテシアはその様子を見て、オズワルドの方に視線をやる。彼も二人の方を見ていたけれど、どこか視線が虚ろだ。
ふむ、と頷くと、アルテシアはソファーから立ち上がり、カツカツと歩いていく。そして机越しにオズワルドと向き合うと、その瞳をじっと見つめた。――正確にはその目元を。
「……ねぇ、ちゃんと寝ている?」
オズワルドはきょとん、とアルテシアを見たあと、ゆっくりと頷いた。
「もちろんだ」
「じゃあどれくらい?」
「だいたい……四時間くらいだが」
「そんなの寝たうちに入らないわよ!」
バンッ、とアルテシアは机を叩いた。数枚の書類が紙の塔からはらりと落ちる。それを拾おうとするオズワルドの手を掴むと、アルテシアは強引に引っ張りながら尋ねる。
「ちょっと、侍従! 仮眠室はどこ!?」
その言葉に、侍従は部屋の左側にある扉を指さした。「そう、ありがとう!」と言いながら、アルテシアはその扉へ向かう。もちろん、オズワルドを掴みながら。
カツカツと歩いていくアルテシアに、オズワルドは引きずられながら声を上げる。
「おい、別にこれくらいでも……」
「ダメよ! 寝不足で判断が鈍られたら困るわ!」
そう言いながらアルテシアは仮眠室の扉を開ける。簡素なベッドだけがある、まさに寝るためだけの部屋だった。アルテシアはそのまま速度を落とすことなくベッドに向かって端に腰掛けると、ポンポン、と自らの膝を叩いた。
その行動の意味が分かったのか、オズワルドはあからさまに嫌な表情をする。だけどアルテシアも負けじと手を掴んだままオズワルドを見つめた。
……折れたのはオズワルドだった。
「……分かったから手を離せ」
言われた通りにアルテシアが手を離すと、オズワルドは一瞬呆けた顔をし、そして恐る恐る、アルテシアの太ももに頭を乗せた。いわゆる膝枕だ。
アルテシアは触れた熱にゆるりと笑みを浮かべると、オズワルドの髪をいじり始める。ふんふん、と鼻歌でも歌いそうな雰囲気でいじっていると、オズワルドが「……そうされると寝れないのだが」と抗議の声を上げる。
「あらそう。じゃあ子守唄でも歌おうかしら」
「……おまえの子守唄なら、きっと壊滅的なんだろうな」
「失礼ね。私、母様が歌うたいだったから、結構得意なのよ」
そう言って、アルテシアは静かに声帯を震わせ始めた。低く、耳に心地よい声で、ゆっくりと歌う。それにあわせてオズワルドの胸もそっと叩き始めた。
これはアルテシアの母が幼い頃から繰り返し歌ってくれていた子守唄だ。優しく愛で包むように毎晩歌ってくれていて、アルテシアも自然と覚えてしまっていた。アルテシアの一番好きな歌。
アルテシアが子守唄を歌い終わり、オズワルドの顔を見ると、彼はすぅすぅと寝息を立てていた。穏やかな寝顔に、アルテシアは笑みを零す。自然と、胸の底から感情が溢れた。
(好き、だなぁ…………って、え? え、ちょっと待って。え、好き? 好き??)
アルテシアはぴしり、と固まり、頭だけを素早く回転させる。――つまり、私ってこいつのことが……好き、なの? なの?? え、うそ、待って待って待って……。
すぅ、はぁー、と深呼吸をして心を落ち着かせる。そしてオズワルドの寝顔をじっと見つめた。――た、確かにかっこいいとは思うけど……うそ。
アルテシアは呆然とオズワルドを見つめる。……やがてたっぷりと時間を掛けて気持ちを受け入れると、顔を真っ赤にして、オズワルドが目を覚ますまでの一時間、ずっとその場で悶えていた。
△▼△
頭に僅かな振動が伝わり、オズワルドはゆるりと瞼を押し上げると、ぼうっと目の前に入ってきた光景――顔を真っ赤にしているアルテシア――を見つめた。彼女は何故か手を上下に振っていて、興奮をしているよう。
その様はまるで小さな子供のようで――。
(……かわいい、な)
そう思いながらオズワルドはずっとこちらに気づかないアルテシアを観察し続け、ふと我に返った。
――かわいい? 何を思っているのだろう、自分は。
だけど、そう思ったのは事実で……。
ふむ、とオズワルドは心の中で頷く。――そうか、いつの間にか彼女に絆されていたのか、俺は。ぼんやりと霞がかった頭でそう考えながら、オズワルドは目を閉じた。
(もう一眠りしよう)
ここ最近の疲れが一気に押し寄せたのか、まだ眠くてたまらない。もう少しアルテシアを見たかったが、それはまた今度にしよう。
――そんなオズワルドがいい加減太ももが痛くなってきたアルテシアに叩き起されるのは、それから十分後だった。