1.5話 プレゼントは願いをこめて
「じゃあ、また明日来るわ」
そう言って、アルテシアはオズワルドの執務室から出た。ふふん、と笑いながら、カートを返すために厨房へと向かう。――さて、今日も続きをしなくちゃ。
メイド服の裾を揺らしながらアルテシアはカートを返すと、自らにあてがわれた客室へ向かった。勢いよく扉を開ければ、そこにはユイリアとシュミル王国から借りた侍女たちがいて、既に準備は整っているよう。アルテシアは口角をつり上げた。
「じゃあ、今日もよろしくお願いするわね、ユイリア先生」
するとユイリアもにっと笑みを浮かべて言った。
「その前にお召かえですよ、アルテシア様」
着替えをしたあと、アルテシアはユイリアと向かいあうようにソファーに座った。二人の間にある机にはうっすらと図案が書かれたハンカチと刺繍針、刺繍糸、刺繍枠などの刺繍セットがそれぞれ二つずつ置かれている。
これからアルテシアはユイリアの指導のもと、ハンカチに刺繍を施していくのだ。目的はもちろん、オズワルドに渡すため。
「さて、」とユイリアが言う。
「では、始めましょうか。昨日は図案を書いていただいたので、今日は実際に縫いますよ」
「ええ、分かったわ」
アルテシアの真面目な返事にユイリアは鷹揚に頷き、刺繍枠とハンカチを手に取った。そして「見ててくださいね」と言うと、刺繍枠のうち金具のついていない方を机の上に置き、図案がその刺繍枠の上に来るよう、ハンカチをかけた。そしてもう一つ、金具のついている方の刺繍枠を重ねて嵌め、そして調整をしながら金具を締めていく。
「――このような感じに用意してください。上の刺繍枠を嵌める際には金具は緩めた状態で、最後きつく締める直前にはもう一度ハンカチが張った状態か確認すると良いでしょう」
「ふーん……これってそういうふうに使うのね。今まで全く知らなかったわ」
そう言いながら、アルテシアは刺繍枠にハンカチをセットしていく。まずは金具のついていない方の刺繍枠を机の上に置いて、そこにハンカチを乗せる。次に金具のついている方を上から嵌めて……。
「はい、皺をとってくださいね」
「ええ」
ユイリアに言われ、アルテシアは刺繍枠の上にできた皺をとる。なくなったところで金具を締め始め、そして言われた通り、金具をきつく締める直前にできてしまった皺をとると、ぎゅっと金具を締めた。
「よし!」とアルテシアは声を出す。ちゃんと綺麗にできたと思ったのだが、ユイリアはそうは思わなかったようで。彼女は「触ってみてください」とアルテシアに自らがやった刺繍枠とハンカチを差し出した。
アルテシアはそれに触れ、思わず「あら」と声を漏らす。
見た目では二つの刺繍枠とハンカチは大差ないと思われたのだが、触ってみると明らかに張り具合が違う。ユイリアのやったものの方がピン、と張っていて、上から指で押さえると抵抗がある。対してアルテシアのやったものに触れると、抵抗はあるもののやはり弱い。どこか弛んだ感じがする。
「意外と差が出るものなのね。びっくりしたわ」
「でしょう? まぁ、このままでも十分にできますが、少しやりづらいかもしれません。交換します?」
「いえ、いいわ。だって出来なんかよりも、ちゃんと愛をこめて最初から最後までやったのかが重要なんだもの」
ふふん、とアルテシアは笑う。昔、うんと幼い頃、ユイリアが花冠を作ってくれたことがあった。子供が初めて作ったためか、その花冠はとてもぶきっちょで……だけど、アルテシアはとても嬉しかった。
下手かどうかなど関係ない。大切なのはこめられた愛情。
だから、アルテシアもオズワルドに手製のクッキーを届けていたし、今回、初めての刺繍を施したハンカチをプレゼントしようと思っていたのだ。
「ささ、早く縫いましょ。私やってみたかったのよ」
「分かりました。ではまず、てんとう虫の方から縫いましょうか」
「分かったわ」
アルテシアは頷き、針と刺繍糸をとる。
「まずは糸を通すのよね? てんとう虫だから……赤色?」
「いえ、外側から縫うので黒色です。糸はだいたい……これくらいで十分でしょう。抜くときはそっとお願いしますね。そうしなきゃバラバラになって大変なことになるので」
そう言ってユイリアは黒い刺繍糸の束からそっと糸を抜いていき、四十センチのところでハサミで切った。パチン、と音が鳴る。
ふむふむ、とアルテシアは頷きながら針を置き、ユイリアと同じだけ糸を出すとハサミで切った。黒い糸がはらりと弛緩する。
それを見て、ユイリアは「では、」と言った。
「次にここから必要な本数――今回の場合は二本を取り出していただきます」
「え、取り出していいの? このまま縫うんじゃなくて?」
「はい。使っても良いのですが、だいたい初心者は二本か三本が基本なので」
「分かったわ」
アルテシアはユイリアが糸を出していくのを見ながら、自らも取り出す。ふと、そういえばこれって最初からユイリアに任せておけば良かったんじゃ……となる。そうすれば余分な糸はもっと少なく済んだはずだ。そこにユイリアの気遣いが感じられて、アルテシアは思わずニマニマと笑ってしまった。
「……どうしたのですか」
「いいえ、なんでも?」
そう言いながらも、口元は弧を描いたままだ。ユイリアは胡乱げな瞳を向けながらも、いつものことだと判断したのか説明を再開する。
「では、次に二つの糸を結んでいただきます。こうやってこま結びに。両端ではなく、片方だけでお願いします」
アルテシアは頷きながら、糸を結ぶ。これくらいは簡単で、意外と簡単なんじゃない、と心の中で呟いた。
「さて、」とユイリアが言う。
「次に糸を通していただきます。針の穴は小さいので、こうして、先を潰すと入りやすいですよ」
ユイリアは分かりやすく机の上に糸を置き、親指の爪で潰してみせた。そして左手に針、右手に糸を持つと、すっと簡単そうに糸を通す。
アルテシアはそれを見習い、同じように糸を潰して穴に通そうとするが、なかなか穴に入らない。根気よく続け、入ったのは一分ほどしてからだった。
通ったあと、思わずふぅ、と息をつく。
「なかなか精神力のいる作業ね」
「そうなんですよ。だけど、ここからは楽しくなりますから」
そう、ユイリアは笑顔を浮かべながら言い、左手に刺繍枠を、右手に針を持った。アルテシアも期待をしながら同じように手に取る。
アルテシアが持ったのを確認すると、ユイリアは針を刺し始めた。
「てんとう虫の輪郭はバックステッチという縫い方で進めていきます。まずはこの辺りに針を刺してください」
そう言いながら、ユイリアはてんとう虫の頭の部分に針を刺した。それを見て、アルテシアも同じ位置に針を刺す。すぅ、と針を引いたら糸が出てくるのは何だか楽しくて、思わず笑みが零れた。
「では、次に線をなぞるように右側――だいたい二ミリか三ミリ離れたところに針を刺してください。……次は最初に針を刺したところからこれまた二ミリか三ミリほど離れたところから針を出して、最初に針を刺した穴に刺します。これを繰り返して、まずはてんとう虫の丸を縫ってください」
「分かったわ」
アルテシアはユイリアの手の動きを真似ながら縫い進める。まずは左側、次に右側……。頭の中で混乱しないよう唱えながらちまちまと縫っていく。
……そしててんとう虫の輪郭ができると、思わず「終わったー!」と言って机の上にハンカチを置いた。正直、かなり疲れた。簡単そうな作業に見えたけれど、実際はなかなか進まないから、すごく精神力が削られる。
――……これからが楽しいって言ったのは誰だったかしら。
アルテシアは思わず遠い目をする。これのどこが楽しいのだろう。全く分からない。
「アルテシア様、放り投げないでください。次は糸の始末ですよ。そしたらてんとう虫の中の線を同じようにバックステッチで縫って、そしたら赤い部分をフレンチナッツステッチで…………」
ユイリアはつらつらと今後のことを語る。……先は遠そうだ。
△▼△
数日後、アルテシアは今日も今日とて勢いよくオズワルドの執務室に突入した。
「失礼するわ!」
だけど声とは裏腹に、クッキーの乗ったカートは慎重に押す。雑にやって零してしまったら大変だ。せっかく作ったのに食べてもらえなくなるし、何より材料費が無駄となってしまう。
オズワルドはメイド服を優雅に翻しながらやって来たアルテシアを見て、顔を顰める。またうるさいのがやって来た、とでも言いそうな表情だ。だけどそれほど嫌がっているようには見えなくて、アルテシアは一人で頷く。――以前よりも仲良くなってきたことだし、そろそろデートにでも誘おうかしら?
元々、いつかデートという名の二人きりでの庭園の散策には誘おうと思っていた。今なら親しくなったし、そろそろ誘ってもいいのかもしれない。
ふふふ、と笑いながらアルテシアは空の皿を回収し、新たに持ってきた皿を机に載せる。――そのデートでとうとう完全に落としてやるんだから!
アルテシアがニマニマと笑っていると、ふと、オズワルドがかなり引いた表情をしていることに気がついた。慌ててアルテシアは少し表情を引き締めると、問いかける。
「あら? 何かしら?」
「いや、それは俺のセリフなんだが……」
アルテシアはそれを聞いてもずっと笑顔を浮かべていた。にこにこにこにこと笑い続け、……やがてオズワルドが諦めたようなため息をつく。
「……何でもない」
「そう、なら良かったわ」
そう言うと、アルテシアはポケットから真新しいハンカチを取り出した。数日かけて刺繍を施し、昨日やっと完成したものだ。
アルテシアはふふ、と笑いながらハンカチを渡す。オズワルドは胡乱げな瞳を向けながらも、渋々とでもいうようにそれを受け取った。そしてアルテシアの施した刺繍を見て、怪訝そうに首を傾げる。
「ふふふ、感謝しなさい、この私が初めてやった刺繍よ。素晴らしい出来でしょう? 四つ葉のクローバーとてんとう虫をモチーフに選んだのは――」
「……四つ葉のクローバー? てんとう虫? …………なるほど、そういうことか」
「ちょっと何よその反応! ほら、ちゃーんとできているでしょう? この黒と赤がてんとう虫で、それを囲む緑と黄緑のやつが四つ葉のクローバーよ!」
ふんっ、とアルテシアが鼻息を荒くして言うと、オズワルドは「…………まぁ、言われてみれば見えなくともない」と言う。――もう、もう、何よそれ! 目がおかしいんじゃないかしら!? 確かにちょっとばかし形が崩れているけど、間違いなく四つ葉のクローバーとてんとう虫じゃない!
アルテシアはそう心の中で叫ぶと、オズワルドに向かって言い放った。
「万が一、億が一、……無限が一! これがそうだと見えなくても! 愛がこもっているからいいじゃないのっ!」
「…………愛、か」
オズワルドがぽつりと零した言葉が、アルテシアの耳朶を打つ。アルテシアは首を傾げた。
「ええ、そう。愛よ、愛。それがどうかしたの?」
「……何でもない」
何でもないような顔には見えなかったが、本人がそう言うのならそうなのだろう。無理矢理自分を納得させて、アルテシアは「それじゃあ」と言ってくるりと踵を返した。もちろんその手にはカートがある。
「私、これから寝てくるから。おやすみ」
「……ああ、おやすみ」
若干間があったものの、望む返事が帰ってきたことにアルテシアは喜びながら、ふんふん、と鼻歌を歌って部屋を出る。何だか胸の底がぽかぽかとして、幸せだった。
ヨーロッパで、四つ葉のクローバーの四つの葉は、「名声」「富」「誠実な恋人」「健康」を招くとされていて、てんとう虫のモチーフは身に着けた人に成功と財をもたらし、病気の人は病が取り除かれると言われているそうです。