5話 理想の結末を迎えたい(3)
「……ああ、久しぶり。元気だったか?」
そう言って、フェルディナンドはにっこりと作り笑いを浮かべる。その顔は僅かな間にげっそりと肉が削げており、顔色も悪い。どことなく危うい雰囲気を感じて、アルテシアはこっそり眉を寄せた。――こんな人ではなかったわ。もっと優しげな方だったはずなのに……。
だけどその思いを顔に出すことはなく、アルテシアも同じく作り笑いを浮かべた。
「はい。シュミル国王陛下が良くしてくれましたから」
その言葉に今度顔を顰めたのはフェルディナンドだった。責めるような口調でアルテシアに尋ねる。
「なら、なぜ式を挙げなかった?」
「あら? むしろ我が国の名誉のためならこれで良かったのではないかしら?」
アルテシアはふんっ、と鼻を鳴らす。王女を嫁がせた国に攻め入ったとなれば、他国からの非難は免れない。だけど今回の場合なれば、アルテシアを王妃に据えなかったから条約違反だと攻め入ったという正当な理由ができるのだ。
アルテシアの言葉に、フェルディナンドは顔色を変えることはなかった。それがどうした、と言わんばかりの態度でこちらを見つめている。
その態度に、アルテシアは首を傾げた。もしかして何か他国に手を打っていたのかもしれない。例えば、賄賂とか。だけど、そんな余裕は今のレーヴェン王国にはないはず……。
そんなアルテシアを見て、フェルディナンドは、ははっ、と笑った。
「それくらいも分からないか? すごく簡単なことだ。レーヴェン王国には金がない。だけど貴族たちは自分だけが助かりたいから大量に隠し持っていたっていうこと。……酷い話だろ? 民が苦しみ、僕もなんとかせねばと奔走していたのに、民を助けなければいけない貴族たちは皆保身に走っていた……。だから、他国に渡す賄賂を負担してもらおうとしていたわけ。お金を払わなきゃそもそもこの国がなくなるぞ……ってね」
フェルディナンドはそう言って笑顔を浮かべる。だけど本当の意味では笑っていないようにアルテシアは思った。笑顔の仮面の裏で、彼はきっと嘆き、苦しみ、憎しみをぶつけている……。
アルテシアの顔が歪んだ。フェルディナンドはそんな人物ではなかった。誰よりも民のことを憂いていて、大事にしていて……貴族もちゃんと守るべき国民だと思っていた。
なのに……今の彼はどうだろう? 守るべき民にも含まれる貴族を憎しんでいるようにしか見えない。
(きっと、それくらい辛かったのだわ)
民を守るために頑張っていたのに、その守るべき民自身から他の民を守るなと足を引っ張られて、もどかしくて……。
国の現状に嘆きながらも何もしてこなかったアルテシアには分からないことだ。
だけど……いや、だからこそ、彼を止めないといけない。それがフェルディナンドが見失ってしまった願いだろうから。
アルテシアは険しい瞳でフェルディナンドを見つめる。
「お兄様……ですが、戦争を行えば傷つくのは民です。民を守りたいのではないですか?」
「……守れたら守りたいさ! だが、その方法がどこにある!? ……民は飢えている。レーヴェン王国はここ数年のひどい干ばつで貯蓄はもうない。他国はあの国王の借金があるから、と食物を売ってくれない。それならば力づくで奪うしかないじゃないか! シュミル王国でも干ばつは起こっているが、うちとは違って高い山がたくさんある。そこの雪解け水さえあれば小麦が育つ……」
「それで二国分の食物が賄えるとでも!?」
フェルディナンドの言い分に、アルテシアは思わず叫んだ。確かに豊富な雪解け水を使えば小麦は育つだろう。きっとオズワルドもそれに気付いて、小麦を育てるよう命じたはずだ。だが、シュミル王国でも飢えた人々がまだまだたくさんいる。だからおそらく、その小麦だけではシュミル王国の国民全員を賄うことはできなかったのだろう。
それくらい分かっているだろうに、フェルディナンドはやたらとシュミル王国の雪解け水を狙う。まるでヤケになっているみたいに。
――何が酷い話よ。お兄様が今やっていることだって酷いことじゃない! そう思いながらアルテシアはフェルディナンドを睨み、はっきりと告げた。
「お兄様のやっていることは間違ってるわ。戦争をやってシュミル王国を統合したところで、結局国の運営が難しくなるだけよ! そもそも、私、送りましたでしょ? シュミル国王はレーヴェン王国と手を取り合ってこの状況を乗り越えることを望んでいるわ。そのために『サツマイモ』の資料も……」
「どういうことだ!?」
アルテシアの言葉を遮ってフェルディナンドが叫びながら立ち上がる。そして足がもつれそうになりながらも急いでアルテシアに近寄ると、その胸ぐらを掴んだ。
至近距離で異母兄を見つめることになり、アルテシアは違和感を覚えた。まるで、そんなことは聞いてないとでも言うような反応だ。そんなことあるはずがないのに……。
ゾッと悪寒が背筋を伝う。これは、もしかして……。
「僕はシュミル国王は頑固でこちらの話に聞く耳を持たず、共に協力しようとしても突っぱねられたと聞いたぞ!?」
フェルディナンドの言葉に、アルテシアは顔を蒼白にする。フェルディナンドにアルテシアの出した手紙の内容は歪められて伝えられたり、または全くの偽りを伝えられたりした。アルテシアの手紙は国王宛てに書いたから、おそらく国王からそのままフェルディナンドやそのほかの貴族に伝えられているはず……。
つまりは、国王もしくは国王に意見を出せる身分の者が、何らかの意図を持ってアルテシアの手紙をあえて歪めて伝えた。
フェルディナンドはずっと彼らの手の上だった。
「くそっ!」
フェルディナンドはアルテシアの胸元から乱暴に手を離し、苛立ち紛れに叫ぶ。その顔には苦渋が満ちていて、アルテシアも同じように叫びたくなった。――民にはなんの罪もない。なのに彼らをより苦しませようとするなんて。それが国の要のすることか! と言いながら誰だか分からない黒幕を殴ってやりたくなった。
「……それで、シュミル国王の提案した案は具体的にどんなやつなんだ?」
フェルディナンドがアルテシアを見る。その瞳には真摯な光がともっていて、こんなことしている場合ではない、とアルテシアも気持ちを切り替えた。何より大切なのは国民。今すぐこの無意味な戦争を止めなければ。
「それは――」
と、アルテシアが口を開いたときだった。
突如雄叫びが天幕を揺らし、蹄の音が大地を震わせる。アルテシアは慌てて天幕を飛び出した。
遠くに粉塵が見え、悲鳴や怒号も聞こえてくる。何が起こったのかなんて、考えるまでもなかった。
「どうして……」
指揮するはずのフェルディナンドはここにいる。なのに、どうしてこうなった? どうして勝手に軍が出陣している?
フェルディナンドがまたも「くそっ!」と叫んだ。
「そういうことか……っ!」
アルテシアが問いかける視線を向けると、彼は焦ったように話し始めた。
「あそこに見える旗は、ヴァイス将軍のものだ。つまり出陣したのは将軍の私兵。シュミル国王の元にこんな時間にも関わらず奇襲を仕掛けたのも彼らだ。国王と協力してかは知らんが、おそらくヴァイス将軍はおまえの手紙が歪められていることを知っていた。だからおまえがここにやって来て、僕が真実を知るとすぐに察したのだろう。だけど戦争を止めるわけにはいかないから……」
「……そういうことね」
アルテシアはつい、と視線を戦場へ向けた。相変わらずおぞましい声が微かに聞こえてきていて、背筋がゾッとする。あそこで、いったい今、どれだけの血が流されているのだろう? 何人の命が儚く散っているのだろう? そう考えるとたまらなく悔しい。
(どうにかしないと……)
だけど、どうやって? もう戦闘は始まってしまった。片方を説得して撤退させたとしても、もう片方が追撃してきてしまい、戦闘が終わることはない。仮に両方を同時に説得したとして、どちらかが先に兵を退かねばならない。しかしそんなことをしてしまえば、追撃される可能性もある。
――チラリ、と荒唐無稽な案がアルテシアの脳裏に浮かんだ。だが、こんなことしたところできっと何も変わらない。もしそれで戦闘が止まったのだとしたら、それはもう伝説となるだろう。
だけど……。
「――お兄様、馬を貸して! あそこの丘に行きたいの!」
フェルディナンドは胡乱げな瞳を向ける。
「いったい何を……」
「お願いよ! たとえ無謀だとしても、やらなきゃ気が済まない!」
馬を借りて、アルテシアはひたすら丘の上を目指す。一秒でも早く、一瞬でも早く着かないと。その間にどんどん人が死ぬ。
丘の上に着き、アルテシアは転げ落ちるように馬から降りる。眼下では戦闘が継続していて、若干シュミル王国が押し込まれるような形になっていた。兵力としてはシュミル王国の方が上だが、急に突撃されたからだろう。
そう思いながらアルテシアは深呼吸をして息を整える。そして、歌い始めた。
お腹の底から息を押し上げ、声帯を震わせ、戦場へ歌を届ける。これで戦闘が止まるなんてアルテシアも思っていない。だけど……もう、何もしないで見ているだけなのは、許せなかった。
……ふと、耳に届くのは歌声だけになっていた。アルテシアがいつの間にか閉じていた瞳を開けると、何千、何万の人々がこちらを見つめている。
アルテシアは口元を綻ばせ、よく通る声で告げた。
「両者ともに兵を下がらせなさい!」
次、エピローグです。