白猫のシルエット
外には既に夜の藍青のとばりがおりていた。
自分を言葉に出来ない位、無惨に殺害したアスモデウスの事を思い出すだけで、粟立つように鳥肌が浮かび額に冷や汗が滲んでいく。呼吸はひきつるように乱れ出す。
「……イジメなんてレベルじゃねえよ。一方的な悪魔の虐殺だろ」
息を吐き捨てるように言い放った。負け惜しみだという事実を心が認める事を拒絶する。
━━アイツはクスリを間違いなくやってる末期患者だ。人間じゃないのは間違いない。あの野郎は一生壁に向かって会話してればいいんだ。
「くそっ俺がトラウマ廃人になったらどうしてくれんだ! ああぁ!」
神流はベッドから起き上がりながら文句を言う。あの嫌な声は、もう聞こえない、聞こえて欲しくない。
水を飲みに下に降りるとレッドが物置に毛布でくるまって寝ていた。神流を起こさないように、ここで寝たのは明白だった。
「……」
━━いろいろ気を使わせたみたいだな。
神流はレッドを抱き抱えて2階に運び、ベッドに寝かせる。ベッドから落ちた紅い髪を戻し、毛布をかけ直した。レッドを起こさないように気を付けて1階に降り、水を飲んでから深呼吸を行い、夜の冷たい空気を肺に流し込んだ。
「異世界で1番出会っちゃいけない奴に出会ってしまった……俺は何てトップランキングの不幸体質なんだ」
━━あの薬物中毒ミイラの極限トラウマを払拭したい。ストレスは成長期で発情期の体ごと蝕むであろう。気晴らしに夜の街に出掛かけるしか道は無いのだ。
レッドを起こさないように極小の声で気合いを入れる。
「そうだ、俺の心に迷いは無い。自分に正直でありたいんだよ先生!」
アルコールに救いを求め、元サラリーマンの主人公は滑るように夜の街に溶けて消えていった。
~~***
静かな夜の街に1人で降り立った神流は、パーカーのようなフード付きの黒い外套に身を包んでいる。レッドを起こさないよう静かに物置を漁ってから、着替えて夜の街に向かっていた。
━━別に殺し屋でも何でもない。物置にあったレッドの父ちゃんの外套を借りている。黒い迷彩のようになっていて目立たない仕様だ。
街を見渡すと大通りには、空しいランプの街灯が点々として、赤く朧に、しかし明るく揺らめき、煌めいている。
━━月明かりもあるし出掛けても安全だろ、酒場や盛り場が在れば夜の情報も得られて一石二鳥なわけだ。 要するにビールは何処だ? 葡萄酒も良いんだが、やはりビール……。早まるな俺の鼓動、焦ればボッタクリのキャッチに捕まるぞ。
平民エリアに目星をつけてうろつき回る。暫くすると……あった。1ヵ所だけ平屋の店に明かりが見えた。 コンビニくらいの大きさで木造だった。外にもテーブルがあるが、座ってる騎士風の男は飲食をしていない。
━━多分、用心棒か何かだろう。
レトロな酒場の雰囲気に、神流は小走りで駆け寄り用心棒に会釈してすり抜けると、躊躇わず扉を開ける。勢いがありすぎたのか店中の視線を一斉に浴びてしまう。
酒場の中には、労働者や騎士も居た。職業が解らない人が結構いるが、獣人は1人も居ない。見た目が中学生の神流は、かなり場違いだが、外套が誤魔化してくれている。誰とも目を合わせないようにして静かに一番奥の席に目立たないよう腰掛ける。すると、誰も気にせずに酒盛りを再開し始めた。
━━当たり前だが、店の中は外より全然暖かいし、かなり賑やかだ。
神流には異世界の酒の名称が解らないから、マスターに隣のグラスやジョッキを指差して「アレ欲しい」とか「コレをくれ」といって注文していく。
━━やっときた、待ってました。木のジョッキに注いであるビールだ。地元で造ってるんだろう、クセはスゴいが飲める。
神流は、ゴクッゴクッと無造作にあおる。
「プハッ嫌な仕事の後のビールは旨い」
この異世界にくる前なら口髭につく泡を気にしたが、髭自体が今の神流には存在しない。
━━お店で出すビールだけあって上等だ。冷たく喉越しも良い。強いて言えば、外国のビールのようだ。
この世界も神流にしてみれば、外国のようなものだ。
神流は伊達に中年を経験していない。その麦酒という液体を流れるまま喉に放り込む。口の中には程よい苦味と余韻だけが残り、後味も最高だった。次はワインを注文する。グラスになみなみと注がれているワインがきた。そのルビー色の液体も、息をつかず一気に飲みほしてしまう。元の世界なら、嫌われる飲み方だ。
━━比べるのも何だが、ミホマさんの家の台所にあった葡萄酒よりも酸味がかなり少ないな。
ツマミには炙った干し肉と、塩茹でした野菜の皿が来た。充分だ。酒の合間に口にする塩気が調度良い。
神流は、程好くホロ酔いになったところで、中座した。勘定は大銅貨1枚で済んだ。
━━フーゥ酔い? 良い月夜だ。情報収集? なんのこと?
「ん!」
帰る途中に後ろが気になった。誰かに後をつけられてるのが解る。だが、全く身に覚えがない。
━━いい気分なのに水を差すとは不粋な。
少しづつ距離が近づいてくる。 神流は路地を曲がると素早くステップして樽の裏に隠れた。
『覚醒』
追ってきたのは、大きいマスクをした平民服の男で、周囲を見渡している。神流は、隙間から大男を狙う。
「【睡眠】」
━━当たった……しかし効かない。今度こそ
「【麻痺】」
撃ち込んだが何も変化が起きない。
━━何故だ? 不感症か?
もう2人合流して来た。同じ服装をしたマスクの大男達だ。試しに1人に【睡眠】を撃ち込んでみたが、やはり効かない……。
「マズイな、強盗か誘拐される可能性大だ。110番が有れば、何て言ってる場合じゃないな」
神流は、奴等が樽を通り過ぎた後に、逆方向へ逃げる。
向こうに通り過ぎた奴等が、神流に気付いた。神流は、小刻みに路地を折れながら走っていき、そのスピードをまったく緩めない、お陰でアルコールが抜けてきた。
距離は稼いだ。しかし、相手が3人では、挟み撃ちとかで捕まるのは時間の問題かも知れない。
━━ベリアルのとこに行くか? いや、素性の解らない奴等にシジルゲートを見られる訳にはいかない。どうする?
ふと視線に気付いて横を視ると、路地の先に大きな猫が居る。闇に光る大きい猫目が神流を見ている。その猫には見覚えがあった。
クワトロ永久要塞に来る道中で、ストーカーしてきた白い猫の「アシェラ」だ。上品な白い毛並みを魅せるアシェラが背中を向けて神流を見ている。
まるで、ついてこいと言うかのようだ。神流は、逃げる方向をアシェラに決めて走り出した。
白猫アシェラは、神流が追い付くまで待ってから、曲がって数メートルの建物に消えた。そこには何かの店舗が、存在していた。
店らしき扉の下に設置されてる、大きい猫用扉を潜り入って行ったようだ。
神流は、少し逡巡した後、その店の扉を開けた。
その店の中の棚やラックには、魔法や魔術に使う錫杖やロッド、短剣や指輪、骸骨のようなアクセサリー、不気味なオブジェ、竜を模した魔石等が並んでいた。見覚えのある人物が、店のカウンター越しに此方を凝視していた。
カウンター下の枯木に生えたキノコや瓶、そして、吊るされた薬草らしき草の束からは、鼻が曲がりそうな香りが漂っていた。
視線を神流に縫い付けたまま観察している老婆が、皺の目立つ口を開いた。
「……やっぱりお主か」
神流に向けた疑心暗鬼の表情を、その老婆が崩すことは無かった。 睨みを効かせる店の主らしき老婆が、再度、重い口を開く。
「最近、外で不審な魔力の動きが多いからと警戒して感知してみれば……やっーーぱりお主か」
「こんばんは、城門の詰所で面接みたいのされてた方ですよね?」
店主は城門で、矍鑠とした気概ある目で神流を睨んだ老魔術士であった。魔術士の老婆は表情を少し緩める。
「ふん、ワシの名前はホワン・ウネじゃ、ホワン様と呼ぶがよい。何故こんな時刻に此処に? 杖でも買うのか? 売れ筋は岩イモリを焼いて煎じたホレ薬じゃ。今買うなら割り引いてやっても良いぞ」
「買いません。覚えてると思いますが、俺は、雑用屋ハイドの神流と言います。輩に追い掛けられてる途中で、その猫アシェラに導かれ付いて来た次第です」
「なんじゃ買わんのか……むぅ? 随分と酒臭いのう。それに何でお主が、この子の名前を知っとるんじゃ? 教えたのかい? ダメじゃぞアーシェ、油断すると捕って喰われてしまうぞ」
「純朴な子供を捕まえて何を言ってるんですか?」
「酒臭い純朴など無いわ、のう?アーシェや」
白猫をホワンが優しく撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らした。ホワンが此方に視線を戻し目を細める。
「酒臭いお主は、結局何者なんじゃ? 只の子供では無いのは解っておる。最初に言っておくが、余命の短いこのワシの魂液など、たかが知れておるぞ! ワシの炎の魔法で消し炭になる前に出ていくと良い」
「何を唐突に言い出すんですか御老体。今は無害の中の無害。ただの元社畜サラリーマンの旅人モドキみたいなハイドの少年アルバイトですよ」
「余計に分からんわい! ワシの曾孫より語学のレベルが酷いのう。警戒しとるワシが馬鹿らしくなる程じゃ」
━━いきなり焼くと言われたら誰でもテンパるだろう。
ホワンの真顔が少し崩れる。神流に呆れ過ぎてしかめっ面が緩む。
「あの少しお聞きしたいんですけど、その魂液というのは何ですか? 魂ですか?」
「仕方無いのう、しっかりと聞くんじゃぞ」
ホワンは息を止めたように静かな佇まいを見せる。それに合わせるように灯りの蝋燭の揺らめきも止まる。
「…………魂液とは魂の核じゃっ!!」
神流の口は半開きである。
「むぅぅ……よく視てもセーリューの言う通り、纏う魔力と反対に邪な悪意が感じられないから不思議じゃ」
神流は唖然としたままだ。
━━よし解らない。悪意が無いのは当然として、その説明で理解出来ると思ってるのか? しっかり聞いて損をした気分になったよ。ボケ具合はセーリュー爺さんと似ている気がする。口に出したらホントに魔法でミディアムレアに焼かれそうだ。小心者の俺は
「お口にチャーーック、ヒック。いや、何でも無いです。……セーリューさんのお知り合いでしたか。話が変わるんですけど、その白猫のアーシェに俺をストーカーさせてませんでしたか? 後、小僧の俺なんかを何故に固執するんですか?」
「……よく気付いたの酔っ払いの魔少年。街道の森におかしな魔力反応をアーシェが感知したから、見張らせておった。セーリューから、心配無用と聞いてからは、させておらん」
「魔少年ってホスト的な感じですかね? 追加金御不要、警戒無用ですよ」
━━身体小さいからアルコールの回りが良いな。饒舌過ぎてウッカリ秘密を喋りそうで困る。
ホワンが片方の目を瞑り、神流を見据えて口を開く。
「警戒するじゃろ。魔力の気配は有るのに何度見てもお主の素性が視えん! ワシの【鑑識】が通じないのか全て真っ白じゃ。ワシを誰だと思っとるんじゃ! レッド・ウィンドの連れで無ければ通報しておる。本当に人族か甚だ疑問じゃ」
「失礼過ぎですよ。俺はピュアな人間です」
神流には100%の自信は無かったが、言い切るしかない。
━━俺が俺としての自我がある限り、1人の人間として生きる。
「後で責められたくないからの、門番の小僧には一応赤縞と言ったが、後はデタラメじゃ。いちいち魔力を消費してられんし視えなくて門番の小僧にナメられたくないからの。解るじゃろ!」
━━黒い、というか年寄りって、こんなに適当なのか? 俺が不審者として捕まえられる可能性があった事を考えると、助けられたともとれる。
「そうなんですか。色々な御気遣い有難うございます。……俺は自分の事がよく解らないんですよね」
「むぅ今気付いたぞ。お主が腰に携帯してる剣はアーティファクトかの? 呪われてるようにも見えるが、そのせいで魔視が通らんのか?」
「解らないですね。でも、コイツに生気や魂をチューペットされてるかもしれないですね」
━━べリアルならやりかねない、と思いつつもべリアルを憎めないのは何故だろう?
神流はホワンとアーシェを見て笑顔を見せる。
「まあ今のところ気にならないんで大丈夫です。外が明らんで来たんで、そろそろ帰ります。セーリューさんに宜しくお伝え下さい」
神流はホワンに頭を下げて1度外を確認してから、情報屋ハイドに帰って行った。
「……結局何も買わんで帰りおったぞ。ああいうのを冷やかしというんじゃアーシェ」
アーシェは同意するように喉をクルルと鳴らした。




