野生再び
再び鼓膜を針で刺す枯れ葉を踏む音。鋭い牙と強靭な獣の顎の映像が浮かび上がり戦慄の糸が張り巡る。
緊張し怯えを感じながらも手に持つ枝を握り締め、跳び退くイメージをしながら身体を回すように一気に振り向いた。
━━!?
ーーそこには小さな少女と幼女の2人が此方を眺めながら何かの絵のように立っていた。
「くはっ!? ……え」
━━ビビったぁ。チョトだけ漏らすかと思たよワタシ。やっと人間だよ。…………うん、日本人では無いな。
「……ハハ」
1人は肩にかかるブラウンの髪で、小さい方の少女は赤茶色の短めの髪がサラサラと風に揺らいでいる。
━━2人共に瞳は綺麗な栗色で着ている服は、お世辞にもキレイとは言い難い。硬い角も動物の尻尾も付いて無さそうだ。人類でホントに良かった良かった。
まだ涙の跡も乾いてない神流は急に恥ずかしくなる。どう取り繕うか頭の中で並行して考えていた。その間も2人は神流をじっと眺めている。
「ん?」
━━見ているのは俺ではなくこの果実だ。言葉が通じるか解らないが血と土で汚れた不審者の俺が「人間だよね?」と聞く訳にもいかない。ここは獲得したアイテムで紳士的に同種族として意思の疎通を図ろう。
神流は大して草も付いてない額と肩を払ってから襟を正して声を掛けた。
「ゴホン、こんにちは、この果実いる?」
━━返事は無いが頷いてる、頷いてる。言葉も通じてるみたいだ。需要があって良かった。
2人に1個づつ、中でも大きくて綺麗な実を渡して自己紹介をする。
「俺は迷子……ではなく、たっ旅人の神流だ」
使ったことの無い肩書きに極度の恥ずかしさを覚え顔が赤らむ。それを気付かれないようにしながら、実を撫でてる2人に名前を聞いてみた。
「マホです」「妹のマウ!」
━━姉妹共にまだメチャ幼い。お姉ちゃんは7歳前後で妹は2つ位下だろう。ちょっと背伸びしたい年頃といったところか。俺が涙目のせいか警戒している様子があまりない。
「此処は何て言う場所か教えてくれる? ついでに最寄りの駅とか交番とか……」
「守護竜様の墓山の近くです」
「モヨエキ?」
「いやっ何でもないから」
━━竜? やはりというか異世界なのか?
少女2人は頬が痩けていて腕や足はポッキーさながら異常に痩せている。
「それ大丈夫なんですか?」
姉の少女が神流の肩を指差した。
「ああ、コレね。全然平気。放し飼いの狂犬とエンカウントしてバトルが勃発しただけ。この枝でパーンて一撃入れたらキャンキャン言って逃げてったよ。……ハハ」
━━寧ろこの子達の方が心配だよ。色々聞きたい事はある……しかし、不審に思われドン引きして逃げられてしまったら、また1人で彷徨う事に……。それだけは絶対避けたい。
神流は残りの実を御裾分けしたいと告げ、了承を得ると2人の家に行くことにした。
━━日本の伝統の御裾分けに救われた形だ。さっきの狂犬以外にも何が出て来るか解らない。
枝を持ちやすいように折って片手に持ち直す。少し後ろで周囲を警戒しながら一緒に歩く。何故、狼も居るようなあの場所に来たのか質問してみると、此処に居た理由は、この実が落ちてないかを見に来たからだった。
━━情けないが知り合いも頼れる人も居ない俺は藁にもすがる思いで、小さい2つの背中からはぐれないように付いて行くのでした。
2人が珍しい形をした大岩の前を通過しようとした刹那。
━━!
藪を突き破って出てきたのは灰色狼の顎! 迫る巨大な獣の体躯が2人の少女に襲い掛かる。
「させるか! 届けーーーー!!」
神流は飛び付いて灰色の獣を受け止め、そのまま地面を転がり少女達の目の前で地面に押し倒される。
「2人共、俺から離れろっ!」
動けない2人から小さな悲鳴が上がり、獣の凶暴な唸る咆哮がそれを塗り潰す。首筋には先程神流が突き立てた枝が深々と刺さっている。
押さえつけられたまま灰色狼の噛み付き攻撃を上半身を捻り回避する。肩口を押さえつける鋭い獣爪が食い込むと新たな裂傷を増やすと共に噛み傷からの出血を促した。
「うおぁぁぁーーーー!」
神流に覆い被さる灰色狼の凶悪な牙は獲物の命を奪う為だけに振るわれる。
「ガルアァーー!!」
「うぐっ!」
先程の恨みを晴らし補食しようと荒い息を漏らして喉笛を執拗に食い千切ろうと何度も牙を立て喰い掛かる。
恨みがあるのは神流も同じであった。一矢報いたが肩に牙が入り込む尋常ならざる激痛を刻んだ憎き肉食獣。
その肉食獣が果実を大事そうに抱える無防備な少女達を補食しようと襲い掛かった。僅かな牙すら触れさせる事を許せる筈がない。
怒り、恐怖、生存本能、その総てが混ざる思考の中、必死に牙の並ぶ顎と首を下から押さえ抵抗を続けた。ヨダレを散らし荒ぶる無情の牙が首筋の根本へと迫る。
━━
咄嗟に持っていた枝を牙の前に出して防御したが強靭な顎で簡単に噛み砕かれた。
「おらぁ!」
雄叫びを上げ下から伸ばした右手で狼の下顎を掴むと同時に狼の口角に左手を捩じ込み舌を掴んだ。
意表をつかれた灰色狼は狂ったように悶え暴れ出した。
「まともに噛めやしないだろ駄犬」
神流は下顎を掴んでロックしている右手を離す。ロックが外れた下顎が締まり牙がミリリと手首に食い込んでいく。
「ぐぅぅ!」
左手を抜こうとしても牙が食い込み強靭な顎の力で噛まれ抜くことはもう出来ない。血と涎がワイシャツをピンクに染めていく。灰色狼は暴れながら首を振るわせ顎に力をかけて牙をねじ込み手首を食い千切ろうとしていた。
獣の口腔では黄金の指環が燐光を放ち光彩を作り出し咽喉を照らしていく。
「食わせてたまるかっ!」
絶叫しながら灰色狼の首元に刺さる枝を引き抜くと、左手を食い千切ろうとする肉食獣の左目に突き入れた。全身の力を集中させた一撃は眼球を潰ぶし眼窩を砕く。
灰色狼の顎の力は緩んで牙の力が抜け、声にならない悲鳴が林に木霊する。神流は左手を引き抜かず逆に灰色狼の舌を強く握り締めた。
━━俺が殺られたら2人が襲われる。ここで逃す訳にはいかない。
噛み砕かれた短い枝を右手で拾い逆手に持つと渾身の力で灰色狼の右目にも突き入れる。
「ギャウン!」
左手首に刺さる牙の力が一気に消えていく。
灰色狼はよろけて横倒しになり、ようやく本能に殉じた生命活動を停止する。神流は大きく息を吐くと灰色狼の口から左手を引き抜いて倒れ込んだ。
「はあっはぁはぁっ……」
━━やっつけたか? 肩も痛い、手首も痛い、酸素が足りなくて息苦しい、涎で生臭い、でも、まだ生きてる。少女達を護る事が出来た。なんとかやってやったぞ。
「大丈夫ですか?」
「カンナーー勝った?」
「ああ、全然余裕……。だけどチョッとだけ休憩させてチョッとだけ…………がくっ」
~*
暫く仰向けになる神流が呼吸を整えて腕を押さえながら立ち上がると不思議な光景が目に入る。マホとマウの2人が灰色狼の尻尾を持って思いきり引っ張っていた。
━━死骸で遊んでる訳では無さそうだな。
質問をしてみる。
「えっソイツどうするの?尻尾を抜くの? もしかして運ぶの? 嘘でしょ?」
「この灰色狼を持って帰ります」
「お母さんいっぱい喜ぶよー」
━━もしかして野生児。
「…………そうなの? 冗談とかじゃないの」
━━狼なの? そりゃあ痛い筈だ。知らんけど。確か狼の肉は「香肉」っていうのが中華料理であった気がしたが、食べたいと全く思えない。寒いから毛皮でも取るのだろうか。その前に俺より少し大きい犬、じゃなくて狼を運べる訳が無いと思うが。
「その熱意……伝わったよ俺に」
梨の入った上着を2人に渡して、自分を喰い殺そうとした狼を担いで運ぶ事となった。動かない灰色狼を肩に載せながら、アンニュイな気分になった神流は考える。
「ふう、はぁ」
━━スゲエ重い。肉云々で毛皮がどうとかではなく、狼の死体を運んでる自分自身が信じられない。でも、2人じゃ運べないし命の綱である少女達の信頼は得たいので致し方無しなのである。其よりこの駄狼の狂狼病で死んだらどうしよう。
~**
1時間程、透きとおる陽射しが降り注ぐ樹海のような道なき道を小さな背中を頼りに付いて進むと、木が伐採された広場のような場所に辿り着いた。そのエリアの真ん中に彼女達の家らしき山小屋と納屋が佇んでいた。