洗礼の痛み
不意に聞こえたのは枯れ葉を踏むつける音だった。ようやく振り向いた神流。
「…………へっ?」
真後ろにストンと尻餅を着いた。開ききった瞳孔に映ったのは木こりでも第一村人とも違った。
視線と繋がる藪の先に動物園でも見たことの無い巨躯の狼が神流を睥睨していた。力強い灰色の体毛がニスを塗布したように美しい光沢を魅せる。息の漏れる大きな口の隙間から垣間見得る鋭い獣の牙は獲物の敵愾心を刈り取るのに十分過ぎる役割を果たしていた。灰色の額の下で輝く漆黒の双眸が神流の挙動を縫い止めている。
「いやっ待っ!?」
心が追い付かずとも見間違いであってくれと願う神流。自分の不幸を信じたくなかった。目を瞑ってしまい衝動に駆られるが、本能が出す煩い程の警告音と危機感がそれを許さない。
灰色の狼が前肢に力を掛けると地面に少し沈み枯れ葉を潰す音が小さく鳴る。
狼は相応の鋭い目を持ち灰色の力強い体毛に覆われ、軽い前傾姿勢をとっていた。
━━!? 何だよ? マジでデカくて怖えよ。外国の野犬か? ……まさか俺を喰おうなんて馬鹿な真似をしないよな?
「だっ誰か……」
神流を獲物と認めた灰色の狼が気配を消すことを止めて軽い前傾姿勢をとると獣臭を漂わせ涎を垂らして唸り出した。
「ガグルルルル……」
鋭い敵意を漆黒の瞳に宿し涎を散らしながら荒い呼吸をする肉食動物を前にして、アプリでしか動物を飼った事の無いサラリーマンが平静を維持するのは困難を極めた。
「いっ!?」
獲物に対する明確な殺意で瞳と牙を染め上げた灰色狼を前にした神流の血の気は引いていき冷たく下がって行く。しかし、それとは逆に心臓は早い鼓動で血流をグングンと上げていた。額に浮かぶ粒状の冷や汗が頬を伝って流れる。
━━そうだ、簡単な話だ。
閃いた神流は梨を拾い、狼を刺激しないようゆっくりと投げて足元まで転がした。
「ふうっふうっ……お前も腹減ってんだろ? なっ? なっ? それを銜えて今日は帰ろうよな」
背中はいつの間に冷や汗で濡れきっていた。狼の次の挙動を眺める事しか出来ない神流の前で、本物の肉食獣は頭を揺らしながら前足を出して梨を跨ぐとノソリと距離を詰め始める。
「━━!?うぇ、まさか駄目なのか」
━━何でサバイバルバトルをしなきゃいけないんだよ。冗談じゃない。あんな凶暴そうな獣に比べたら俺なんてイクラちゃんかタラちゃん位の戦闘力しかねえよ。
「待てっ待ってくれ、ウェイト、ウェイト! ハウス! ……。おっお手えっ!」
両手を不恰好に前に伸ばし壁を造るように甲高い声を上げた。極限の叫びを微塵も気にせず歩を進める灰色狼の獰猛な唸り声が神流を硬直させていく。
━━くっ渾身のハウスとお手が効かないなんて外国の犬じゃ無いのかよ。どうにかして、逃げなくては……。
唾液が乾き喉が張り付くと加速していた心臓の鼓動が鼓膜を揺さぶるように届き指先が震え出した。筋肉が萎縮し金縛りのように動きに負荷が掛かり始める。
━━どうする? ダメ元で助けを呼ぶか警察は、保健所は!?
まるで動けない神流とは対照的に、飢えた狼は獲物を逃がさぬように周囲を周りジリジリと慎重に距離を詰めていく。
「━━ヤバイ」
「━━」
黄金の指環の明滅の光が一瞬強くなった。
━━今の今まで破裂しそうに暴走させていた心臓の拍動がみるみる落ち着いていく。と同時に
「ガルァッ!!」
「ちょっ、ひぃ!?」
野獣の猛りが木霊する。立ち上がろうとした神流の喉笛を目掛けて飛び掛かった。避けようよ身を捩った神流の左の肩に鋭い牙がズブリと深く食い込んだ。肉を抉り痛覚神経を掻き回し鋭い犬歯が傷口を引き裂こうと揺さぶる。
「かはっ! 熱っ痛ああああああ――――――!」
熱いと錯覚させる痛みが、脳神経を抉じ開け痛覚の存在証明を雄弁に果たす。
「ぐあああっうあああっ! 止めろーー!」
とろりとした血液が学生服を伝い地面に垂れ流れる。逆の手で狼の激しく揺れる頭部を押さえるが、肩に尚も食い込んでくる野生の牙。落ち着いた情け容赦ない漆黒の眼を、顔を歪め歯を食い縛りながら訴えるように見つめた。
「ぐうぃあああああーーーーっ!」
全力で肺から酸素を吹き出すように絶叫しても食い込む牙が緩む気配がない。狂いそうな激痛が身体中に弾け意識を失おうと追い討ちをかける。ーー。
親指に嵌められた黄金の指環が力強く点滅を繰り返す。
「━━!?」
すると、パニックに陥り意識を失おうとしていた神流の脳の神経に変化が訪れる。血の気が急激に下がるように落ち着いていき瞳に活力が生まれた。痛覚も麻痺したかのように緩和されていく。
━━
左手で肩に噛みつく狼の喉に親指を食い込ませ、引き剥がそうとしながら空いてる右手で地面を滑らして必死に何かを探し始めた。
━━痛い痛い痛い! 超絶痛いけど、痛いのはもう仕方無い。生存競争しないと死ぬ肩が食い千切られて死んじゃう。
牙におさめた獲物の抵抗や足掻きに構わず、灰色狼の顎は万力さながらに力を込めて牙を食い込ませていき肩ごと食い千切ろうとする。今まで完全に恐怖で支配されていた神流の頭の中はクリアになっていき状況打破に思考が推移していた。
「離れろクソ狂犬! うらっ!」
左肘に肩からの出血が連なり垂れていくのを感じた。右膝を立て灰色狼の鼠径部に足の甲で一撃当てる。その攻撃が効いたのか、呼吸の為か、噛みつく力が一瞬弱まった。
━━あった。
神流は探っていた右手に枝を掴むと力任せに首に突き刺して捩じ込んだ。一気に噴き出した血が枝と右手を濡らした。
「ギャインッ――!!」
呆気なく灰色狼は悲鳴と共に牙をズッと外し逃げて行った。
「はぁはぁ……自業自得だ狂犬め! 俺の痛みを知れ、飼い主が居たら訴訟してやる……」
とことん力尽きてしまった神流は濡れる眦も放置し地面に仰向けに横たわると空を見上げる。
━━メチャ痛い、もう嫌だ。28年も生きてきて一番痛いし首輪の無い狼に襲われる初体験……。ボーイスカウトに入った事も無いのに強制サバイバルワールドにポイ捨てされる理不尽。仕事で得た知識など何の役にも立たない空腹。のんびりサラリーマンとして生きてきた俺への戒めなのだろうか? 痛いし辛いのは大人とか中坊とか関係ねえよ。もう家のベッドに返してくれよ。早出出勤でもサービス残業でも頑張れるよ。
「うう痛い…………こんな事やってたら普通にポロっと死ぬよ。てか、もう死ぬんじゃね? 外科に行かないともう無理だろ…………応急処置……出来るかな」
神流は噛みつかれていた左の肩を震える手で恐る恐る触ろうと手を持っていく。
━━イメージでは、服ごと裂かれて食い破られた肉の箇所はぐちゃぐちゃで白い肩甲骨が見えてるかも知れないエマージェンシーレベル。出血多量で御臨終でさようなら地球。
「ん? ふぇ? あれ?」
不思議な事に出血はしているが、肩は残っており肉も抉れてはいなかった。起き上がって寝ていた地面を見ると血溜まりどころか血液で少し汚れているだけであった。
━━どういう話だ? ちょー痛かったのに。
神流は何とか身を起こし立ち上がる。制服の上着とワイシャツを脱いで肩を確認してみる。ワイシャツは血だらけだった。肩に大きな歯形が付いて血は出ているが、傷口もボールペンを強く刺した程度で出血も止まろうとしていた。
「あんなに肩の骨が折れたと思うほど痛かったのに……何で」
━━ブレザーの生地が強かったのか? 俺が大袈裟なだけなのか?
「まだ痛いけど助かったんだから文句は無い……頭が絡まって混乱しそうだが、取り合えず……」
神流はワイシャツを着直すと周囲を歩いて武器になりそうな枝を拾い片手に持った。
「武器は絶対に要る。これがあるとないとじゃ大違いだ。何があるか解らないからな………………もう起きたよクソッ」
━━梨をとっとと拾ってこの場所を離れて人里でも人街でもいいから探そう。
上着を広げ散らばった梨を上に乗せて拾い集めていると不意に後ろで枯れ葉を踏む音が再び聞こえた。
「━━!」
気を抜こうとしていた神流は背後で不意に聞こえた枯れ葉を踏む足音に鋭い牙と強靭な獣の顎を想起し戦慄する。
━━狂犬の仕返しか?
緊張し怯えを感じながらも手に持つ枝を握り締め跳び退くイメージをしながら身体を回すように素早く振り向いていく。