空を見ていた
希薄で澄んだ光が静かに降り注ぐ山小屋の戦場。その陽のぬくみは神流の背中にも届いていた。
向かってくる山賊を退けた神流は残りの山賊達へと歩を進めていた。
柔靭な巨躯を有するサーベルタイガーのシンバは神流の視線に反応する素振りすら見せない。
(主人であるダグブルの敵を爪で凪ぎ払い餌として命を奪う。この爪と牙に敵う強者は闇を纏う魔獣だけだろう。主人が退けと言わなければ、あの闇の獣の喉笛に牙を食い込ませる事が出来たという自負はあった。遠くから人間という主人と同じ種族の餌が、小さな足音を立てて無防備に迫ってくるのが見える。生意気にも強者の自分に視線を合わしてくる身の程知らずの猿だ。爪も牙も角も見え無い、強さの欠片も無い、食い応えの無い低レベルの餌なのが分かる。主人からの制止が無ければ一息で屠り骨ごと肉を貪ってやる)
静かに伏せ存在を薄める。唸り声も上げず筋肉の弛緩すら起こしはしない。視線の端にすら入れなくても嗅覚によって補足距離すら分かってしまう。
(爪の届く位置に僅かでも入れば一瞬、只の一瞬にして前足で押さえ着け虫のようにジタバタ苦しませツマラナイ死を迎えさせる。そんなことさえ意識するのが馬鹿馬鹿しく忌々しい猿だ)
しかし、サーベルタイガーは甚振られる獲物が自ら近付いて来る事に密かな興奮を覚えていた。ーー獲物の猿が何かを此方に向けるのを黄色いタイガーアイに確実に捕らえていた。
━━
━━?
ダグブルの目に映るのは山小屋にいる手下達が倒れていている場面。そして簡単に子供に倒された手下供、更に向かってくる少年。
そんな事より一番気掛かりだったのは、手塩に掛けて育てたサーベルタイガーのシンバの様子がおかしい事だった。
ダグブルは声を荒げ始める。
「何やってやがる! 起きろシンバ! 餌をやらねえぞ! おらっシンバ!? どうしたーー!?」
「…………」
シンバというサーベルタイガーの意識は起きていた。瞳は虚ろに薄く開いているが、角膜と水晶体の間にある猫目の黄色い虹彩の動きは緩慢と揺蕩っている。
「…………」
獲物を追い詰めて喉笛に牙を食い込ませる。それは当たり前の事で生まれた時から備わる狩猟本能だった。今、サーベルタイガーの頭頂から爪先炎のように湧き上がる感情は、自分の野性を鼓舞する狂おしい程の猛りと怒りだ。濁りの無い純粋な闘争本能が身体を妬き始めている。
(目に映る獲物に、この長い牙を食い込ませ太い首を反らして食い千切る。血飛沫を上げ血肉を舞わせ見せ付けてやる)
少し開いた口の端から低い唸りが漏れる。
「グゥゥーーーー」
止まらない焦燥感が筋肉を焦がす。直ぐにでも襲い掛からなければ本能に焼かれ己を保つ事が不可能になってしまう圧迫感まで意識に芽生える。
(無力な猿に爪と牙を必ず深く突き立ててやらねばならない)
「グルルルルルル」
血液が沸騰する錯覚を覚えたサーベルタイガーのシンバは、腰を浮かし前肢を上げた。
「ガロアアッーーーー!!」
無力な猿達へと凶悪で危険な暴力を噴火させるように開放した。
ーーギャリッバ━━ン!!
(猿達の背中や胸が大きく裂けて容易く吹き飛んで行った。心地好い、更に周囲に武器を構えて立つ別の猿達にもう一撃喰らわす。猿共は面白いように血飛沫を大量に上げて弾けてるぞ。しかし、満足する血を見ても猛り狂う血液の紆濤が収まらない激しくなるばかりだ。ーーん?何かが聞こえてくる)
「おい! シンバァーー! なんて事しやがんだ! 手下を全員殺す気かこの野郎!」
ダグブルが耳元で唾を飛ばし喉が切れそうなほどに叫び吠えていた。
「飼い猫の分際で言うことを聞かねえなら殺して毛皮にしてやるぞーー!」
(主人が何かを言っている。怒らしてしまった、聞かなくては……しかし、何故こんな弱い種族の猿が己の主人なんだ? 何故、強者の己を怒鳴り付ける? 食事を与えてくれるから逆らうな。いや駄目だ獲物は自分の爪と牙で狩って腹に収めろ)
━━
全てを焼き尽くすような怒りの炎が四肢から身体を焼いて迸った。怒りの本能のまま繰り出された3度目の爪撃は下からダグブルの甲冑を切り裂いた。
「ーーガルロッ!」
「ぐっはあああっーー!!」
放物線を描いて地面に激突したダグブルの目前には神流が立っていた。ダグブルの醜態を地を這う虫を見るような目で見下ろしていた。
胸の傷口から出血し辛うじて意識の残るダグブルが神流の顔を見上げ睨み付ける。
「ぐおぉ……グゾォ! 今回のヤマは最初から苛立つ事ばかりだ!」
ダグブルは歯軋りをして思い返す。
(生息してない筈の魔獣が襲ってくる。はぐれたグリル達はチンケな山小屋から戻らねぇ。華奢なシーフ擬きに手下達が簡単にやられ、このくそガキにまでやられる。そしてシンバがイカれて俺様に歯向かいやがる。……俺様を前にして泣かず怯えず許しを乞わない、生意気なこのガキの存在は許しちゃならねぇ。全てが忌々しくて堪らない。このクソガキを斬り刻んで殺して、死体を手土産にして山小屋の奴等を皆殺しにしねえと俺様の面子も立たねえ!怒りも収まらねえ!)
傷口の痛みに呻きながら直ぐ様、長剣を引き抜いて神流の頭上に着けた。その刃にはベッタリと血糊が付着しているが、命を奪うには十分な代物だ。そのまま下ろすだけで易々と頭を割って2つにするだろう。
「…………」
━━偉そうにしてたからコイツが親玉っぽいな。犯罪してますって汚い顔面が発信してる。こんなに近く刃を眼前に見ても死の予感すら出てこない。まさか人類から離れて行ってるのか? どちらにせよ俺が選べる選択肢は今のところ少ない。
「はあはあーーっ!! ワシは殺して奪う黒鼬野党の大頭だぞ!! 泣いて命乞いをしろやくそガキ! しねえと頭をカチ割って首を抉りながら跳ねるぞ! 命乞いして急いで薬草持ってこい!」
神流は無機的にダグブルの顔に視線を合わして嫌悪感を露にして口を開く。
「本当に予想通りの滅茶苦茶をやってくれたな。悪役まっしぐらに山小屋まで壊しやがって。剣がどうした? 喋んな」
「おあん!? はあはあ、訳の解らねえ事を言いやがる。殺さねえとでもたかをくくってやがんのか? クソガキ如きがダグブル様に舐めた事を言ってんじゃねえ!」
ーー神流は空を見ていた。
「どこ見てやがる!!」
「お前の行き先だよ。お前なんか青山羊悪魔メンの怖さに比べたらミジンコ以下、臭いから喋んな」
「割れた頭から脳漿撒き散らしてから後悔しろやーー! ごらぁ!!」
ダグブルには野菜を切る程の躊躇いも迷いもない。神流の頭を真っ二つに割って苦悶の表情をする死体を凌辱する為だけに全力を注ぎ長剣を降り上げて斬り下ろした。
棒立ちのままの神流は身動きすらしていない。
勢いよく迫る血塗られた刃の光が神流の瞳にだけ冷たく反射していた。




