点在する悪意とスリップストリーム
林の獣道に鳴る草を踏みながら駆ける小さな足音。
「はぁはぁお腹痛い、でも逃げなきゃ逃げなきゃ」
マホは林の中を走っていた。その服は土ぼこりで汚れ涙が乾いた後の残る頬は枝を掠めて擦り傷を負い出血している。
ーー担いで運ばれてる最中に意識を取り戻したマホは不安で心細く泣きそうになった。溢れた涙が眦から伝い頬を濡らした。草むらを通り抜ける際に勇気を振り、絞り身を捩って腕からスルリと抜けた。後ろに着地すると振り向くことなく真っ直ぐに逃げ出した。
マホを追う山賊グリルの足音がどんどん近付いてくる。
「ガキッ! 逃げ切れやしねぇんだよ。大人しく捕まりやがれ! 力が入りやがらねえ。ハァア、何でこんなに疲れるんだチキショーめ」
グリルの怒鳴り声を遠い背に感じたマホは脇の茂みの中に入り身を潜めた。
すぐ傍まで追い付いたグリルが辺りを見回す。
(………………)
兎のように身を丸め口に手を当てて息を小さく小さくする。
「ゲッゲッ近くに隠れてんのはバレてんだ。おいガキちゃんよ大人しく出て来たら痛い事はしないからよ」
傍に居るグリルはマホが声を出したり動き出せば、容赦なく捕まえて逃げられないように拘束したり暴力を振るうだろう。
(早く行って……お願い……)
マホは視線を地面に落とし、口を土に近付け呼吸の音が漏れないようにしている。兎のように丸くなり茂みに同化しようと心がけた。恐怖を証明するように首筋から尻の尾てい骨まで小刻みに震えが続く。
(怖い、ママ……カンナさん……)
「ゲッゲッ此処等で隠れるとしたら……」
グリルが無造作に茂みに手を突っ込むと、
「やぁーーっ!」
首の後ろを掴まれて持ち上げられたマホの姿が茂みから現れる。
小さな喉から甲高い悲鳴が上がった。それは静けさに包まれる林中に高々と響き渡り森の獣達が耳を立てる程であった。
林は点在する明確な悪意に支配されようとしていた。
*** *** *** *** *** **
◇大魔導書の眠る廻廊
衝撃に弾け爆発し崩落したように変貌した廻廊の床からは砂埃が燻るように舞っている。その中心では巨躯の悪魔像が、ひしゃげて曲がる巨大ハンマーの柄を握っていた。ハンマーヘッドの下で潰された瓦礫の隙間からは神流の学生服の裾が垂れている。
「…………」
悪魔の像は侵入者に敬意を表するよう巨大なハンマーの柄からゆっくりと手を放した。そのまま墓標のように残し、ぐるりと後ろを向いた。任務を全うしたと認識した眼光の黄色が鎮まっていく。
死なぬように抗った小さき侵入者が、この下から這い出る事が無いのは分かっていた。追い打ちする必要がないのだ。幾千年自分の役目を待ったのだろう。永遠に来ないかも知れない侵入者を……。それが現れた。大きさ等は関係ない役目を果たせる事が、この身の全て。侵入者の命の火を消して使命を果たす事が出来た。また幾千年幾万年壁に埋まり待つのだろう侵入者を、それが我が使命。
「……はぁ、ふぅマジあぶね」
自分の収まる場所に顔を向け踏み出した。瞬間、声の無い筈の空間に声がした。
「!?」
バシュッズパンバシュン!
残した足の踵に異変を感じ首を向ける。自分の後ろの足首が光を散らし滅多斬りにされるのを見た。
誰も居ない空間に居ない筈の侵入者の魔剣の斬撃音が響いていく。排除した侵入者が白い装いで足首の結合を斬り外していく。
「侵入者!」
怒りでは無く役目が残っていた事に興奮に類する感覚を感じた。何故、排除した筈の侵入者が此所に居て剣を振るっているのかは、考えても詮の無い事だった。
ベリアルサービル《ベリアルの軍刀》の刃を立てた神流は足首の横に刃の鍔ギリギリまで捩じ込み斜めに切り抜いた。
━━マジでさっきのは致死的な鬼神鎚の一撃だったな。ペッちゃんこになるかもだった。必殺技持ってんのはズル過ぎ。
神流は悪魔像の死角に入った瞬間に上着を脱いで近くの瓦礫に掛け、踵の裏に回り触れないように息を潜めた。巨大なハンマーを打ちつけて動きの止まった瞬間を狙おうとしたが爆風が起きた。巨大ハンマーの爆発が起きた際も悪魔像の踵に踞り足を盾にして嵐のような爆風と飛散物を防ぎきった。
━━神流流スリップストリームは成功。
「ーー侵入者ハ」
そして、興奮する悪魔像が勢いよく振り返った瞬間、重量に負けた足首からめりりべきりと砕け散りバランスを崩す、巨大な塔が傾くようにに倒れていった。
廻廊に反響する地響きと砂埃。床に伏した悪魔の像、その顔の前に神流が現れた。
倒れる場所を想定して走った神流は悪魔像の頭部に歩いていきベリアルサービルの鋒を額の中心にそっと当てた。
「自己紹介が遅れたな俺の名は天原神流。これが人間の底力なんだが、まだやるか? ベリアルの警備員さんよ」
(━━)
「ベリアルの警備員」意味すら分からない甘露な響きを聞いた。悪魔像の目が宿す虚ろな光が僅かに落ち着く。数瞬動きを止め、ゆっくりと、その場で身体を起こしていく。
濡れたように光る黒い瞳がそれを注視するだけで神流は動かない。身体中痛み膝の靭帯は損傷し足首の骨にはヒビが入っているだろう。それでも神流は刃の先を突き入れる事をしない。
━━
ーー悪魔の像は片膝を突いて座った。
「侵入者ヲ認メル。行クガ良イ強キ者ヨ」
「……そうか、こっちも助かる」
その鎮まった石像の目の訴えに神流はベリアルサービルを引いて腰に差した。息を吐き出し墓オブジェのように巨大なハンマーの元に首を傾げながら歩いて行き段差を降りる。
「蒸発でもしたかと思ったけど残ってたな……」
下敷きになった上着は調度隙間に落ちて抜き取る事が出来た。軽く叩いて羽織るように袖を通す。目の前の巨大な鎚を見上げる。
外の時が過ぎ行くとも、廻廊は永劫に静寂を募らせていく。
━━さて。
上に上がり膝を突く悪魔像を一瞥する事もなく奥に進み簡素な書斎のような部屋の中に入る。オーク調の重厚感のある古びた机の上には、深みのある臙脂色をした不気味な辞書のような本が真っ直ぐに置かれている。 つまらなそうに神流が手を伸ばして掴もうとすると
ーーガギン!
本から牙の生えた口が生まれ神流を襲った。ーーしかし、その口にはベリアルサービルの刃が差し込まれて防いでいた。
━━全く、こんな事だろうと思ったわ。ディズニーかよ。
「時間が惜しい」
ガシガシと刃を噛む本を上に上げて溜め息を吐くと振り向いて歩き出した。神流を苦しめた巨大な悪魔像が膝を突いて佇む。その前を無言で通り過ぎる途中、首だけを向けた。
「ベリアルに何か言ってやろうか?」
「……望マヌ、我ハ次ノ侵入者ヲ待ツノミ」
「……そうか」
━━ベリアルが入り口出さないと入れないのに侵入者扱いだからな。……理不尽極まりないな。
入って来た扉の前に辿り着くとベリアルサービルの先で暴れる「書」を突き入れ、自分の身体を押し入れて扉の向こうに消えた。
外の時がどう過ぎ行くとも、廻廊は永劫に静寂を募らせていく。
━━
━━
『随分と汚れたようだね。僕の「書」は丁寧に扱って欲しいものだ』
ベリアルは情熱を感じさせる露出度の高いトップスに衣装を変え大理石の椅子に揺ったり流れる腰を優雅に下ろして居た。その陶器のような表情に憂いは見えない。 露出の多い衣装から伸びるすらっとした肉体美と脚線美は誇張すらされていない。
「誰のせいだよ。前情報くらい渡しやがれクソ悪魔!」
満身創痍で抜け出た。神流の表情は芳しくない。
━━たくっ、とんでもないスカート丈だな。履く意味あるのか?
ベリアルサービルに噛みつく本ごと鋒をベリアルに向けて渡す。温度を感じさせないベリアルのトルコ石のような瞳に冷気を醸す煌めきが宿る。
『僕は堕天使だ。僕に2度と刃を向けないでくれ。見た通りの乙女なんだ君の行為にがっかりしてしまうよ』
「……言葉が出ねえよ。地平線まで呆れて」
ベリアルが臙脂色の本に触れるや否や凶暴な口はギュルルと表紙に戻っていき模様の一部となった。
━━カートゥーンだな。
「とにかく急いでくれよレイドボス。俺に化け物を差し向けないでくれよラストボス」
ターコイズの美しい色合いを見せる双眸が神流を見据え、氷霧で撫でたように艶めく唇が線を引いて開封していく。




