愛の叫び
魔石で構築された廻廊の空間には重々しい空気に満ちている。その壁には侵入者を威嚇して縫い止めるように巨大な悪魔の像が埋まり並ぶ。その異質な圧力を放つ悪魔像の掌にある蝋燭に灯された炎は絶えない。時折魔石に反射する炎の光に神流は瞬きを余儀無くされる。
突き当たりに部屋を視認した神流が食い入るように見詰めるとアンティーク調の古びた机の上に置かれた暗い深海のような青色の表紙をした本が見えた。
「あれか? 持てるサイズみたいだな。パッパと終わらそう」
汗ばむ額を袖で拭った神流は駆け出していた。順調に近付いて目的の奥の部屋に迫る直前で異変が起きる。大きい魔石がレンガのようにはめ込まれている床が波のように震え出した。まるで湖で横波を受ける小さなボートのように不安定な揺れが続く。
「まさか地面が崩れるんじゃ無いだろうな」
━━!?
近傍の壁が音を立てて亀裂が縦に走る。岩が裂ける音を廻廊の大気に響かせ、その割れ目が埋没する悪魔の像の輪郭に沿って頭上に達っした。すると深く身体を埋めていた耳の尖った巨大な悪魔の像が動き始め壁を崩しながら回廊に抜け出てきた。
「はえっ? うぉ! こんな話は知らない、聞いてねぇ……騙された……」
完全に壁から抜け出て手に持つ蝋燭の炎を掌で潰して神流を見下ろすと相貌が黄色の輝く光を発した。
━━まさかだろ。
「侵入者ハ潰ス」
「何でだよ!?」
悪魔の像に応えた瞬間、神流の脳に警報が鳴り響き感覚神経を大きく掻き回される。
━━まさか。
悪魔の像は頑強な拳を乱雑に打ち下ろしていた。軌道を読んだ神流は真横に飛び退いて躱す。眼前の床を易々と轟音を立てて破壊した。
「危ねっ!? 超危ねっ!」
床に拳を捻込んだ体勢の悪魔像は、跳ね退いて生存する神流に首を向ける。視認すると右手を腰に持っていき手斧を取り出すと鷹揚に構えた。
狭い空間で舞い上がる砂埃によって霞んだ視界に踏み込む石像の足。質量を纏った重厚で巨塊の手斧、その一撃を浴びれば真っ二つでは無くミンチとして潰れる未来が待っている。
緩慢に大きく頭上まで振りかぶった巨大な武器を悪魔の像は対象の命の火を消す為だけに振り下ろすのだ。
「侵入者ハ殺ス」
「ちょっと待てえーー! 侵入者じゃ無い! 許可を得ている! 俺はベリアルの知り合いだ! 契約とかもしてるってっうあああああっ!!」
重力に任せて振り降ろした斧の刃が床を割るように砕き瓦礫を飛散させ更に埃を巻き上げる。数歩分、後ろに走り直撃を回避した神流は背中に流れる冷や汗と緊張を感じながらベリアルサービルを引き抜いて構えた。
「……侵入者ハ潰ス」
「安物のAIかよ!?」
ガゴオォォンッ!!
風を起こしながら突き下ろされた悪魔像の左拳。それをギリギリベリアルサービルの刃で受けた神流は電撃のような衝撃を受けた。吹き飛ばされて転がっていき回廊の壁に斜めに激突した。
「ごはっ! 背中の骨が…今のは?」
口の端から血を吐いた神流は痛みを堪えて直ぐに立ち上がり石像を睨み付ける。
━━殺す気かよ? 殺さなくても死ぬだろ? くっ横を抜けて走るか?
「!!」
石像の両肩からボコボコと腕が生えていき腕が四本に増えた。おもむろに背中から金属製の巨大ハンマーを引き抜くと、再度神流に視線を下ろして黄色い眼光でサーチライトのように照らした。
「侵入者ハ殲滅スル」
「マジで腰が激痛いのに、そんなのオーバーキルだろっ!」
悪魔像が廻廊の幅一杯に振り回したハンマーを全身の力を使いベリアルサービルを持つ両腕で受け止める。奥歯にヒビが入る音が聞こえた刹那。
ーーバチチッビリッ!
━━っ雷撃!?
踏み留まる事が全く出来ない神流はベリアルサービルで受け止める身体ごと弾かれ紙のように後方へと吹き飛んだ。
「ぐあああぁっーーーー!」
地面に身体が打ち付けられ一瞬、肺の活動が止まり呼吸が出来なくなった。大きく咳き込み胸を押さえる神流は酸素の足りない思考に危機感を捩じ込んだ。
「ぶっ、ごほっごほっごほっおぇぇっ!」
━━ヤバ過ぎる。身体が持たね。
悪魔の像から黄色い視線が浴びせられている。殺意とは違う害虫を駆除して払うような機械的で業務的な眼光が神流をロックオンしていた。死の予感が頭に舞い散り過る。身体中の血液が恐怖に染まり心臓に流れ込む。
「ごほっ……こんなの無理だ」
膝を着いて悪魔像を呆然と見る神流を目掛けて地鳴りを響かせて歩いてくる。顔を歪めながら立ち上がり自分を滅殺しよつとする悪魔像の顔を見上げた。
━━とにかく斧だけは絶対ヤバイ。
「侵入者ハ排除スル」
「どこにだよ!」
注視していた手斧を持つ腕が動いた。危険な質量のまま弧を描いて神流を刃で斬りつける。転がって躱した神流が逆方向に振り向いて走ろうとすると
━━
既に悪魔像の大きな掌が眼前に迫っていた。咄嗟に頭部を腕で守り身体を捻るがダンプカーに轢かれたように弾き飛ばされた。宙を舞う勢いのままバウンドし魔石の床をゴロゴロとぼろ切れのように転がっていく。
「うあああああーーーー!!」
体が浮き上がる程の石像の平手打ち、身体の至るところを巡る痛覚神経が目覚め思考を揺さぶる。腕の靭帯が潰れたように麻痺する。鼻血と唾液の混じる吐血が冷たい魔石の床を紅い模様を描く。
「ぐっ……やべっ…………赤い血だ」
天原神流は知らぬ間に過信していた。ここまで生き残れた。山賊と対峙しても谷の主である本物の悪魔に殺されかけても何とかなった。いくら命を繋いでもベリアルの力ありきだと言うことに真摯に向き合って来なかった。
身体の末端まで痛みの信号を発し、点滅のように浅くなる息苦しい呼吸は神流のありのままの姿であった。特殊な身体能力も叡知の戦略も持たない神流は「何とかしよう」その意思だけで刹那的に動き藻掻いて臨機応変に乗り越えてきた。
━━。
しかし、激痛に打ち拉がれ思考の定まらない神流の精神にとうとう限界が訪れた。腕をついて顔を上げると後方の入って来た入り口に呼び掛ける。
「ベリアル……もう無理だ。降参する、これを諦める止めてくれ。………………殺す気なのか?殺す気かベリアルゥッーーーー!!」
「侵入者ハ抹殺スル」
乾いた無機質な声が重なる。外からも周囲からも何の反応も得られず、地鳴りが迫り四つん這いになる神流を床石ごと砕きながら蹴飛ばした。
「ーーぐほっ!!」
砕けた床の魔石ごと吹き飛ばされ横面が固い床に擦れて出血を促す。首の筋と肩に何度も殴られたような痛みが追加される。
「ううっうっ…………」
身体中から熱い痛みと死の恐怖が迸る。額は大きく切れ鼻腔から血が滴り、頬と首筋からも出血を起こし赤く温もりのある血が床に垂れていく。痛みは熱さを持ち合わせているのに背筋には寒さを感じていた。呼吸というより少し開いたままの唇の隙間から小さく息を吸い酸素を肺に取り込む。
「ぐふっごほっ、逃げないと……こんな所で……こんな所で」
━━死ぬ。
口に溜まり鉄の味と匂いを充満させる血液を床に吐いて額から流れる赤い血を汗で濡れた袖で拭う。ヨロヨロと立ち上がる神流は、後ろへと向きを変えてフラフラと戻って行くが隠れる場所すら見当たらない。
「くぅっ……」
━━まずい、入り口から逃げないと本当に死ぬ。
「侵入者ハ潰ス」
「はぁ、はぁはぁ……脇腹が痛い苦しい……」
足元の覚束無い神流に容易く追い付いた悪魔の像は片足を神流の頭上まで上げていき肩口から容赦なく踏み潰した。巨大な質量がのし掛かり神流の身体を無情に押し潰していく。
*
廻廊の外で玉座に細い腰を下ろしシルクのような靴下を履いて長い脚を組むのはベリアルだ。神流が自分へ向ける憤怒、嘆き、疑惑、絶望、その総ては芳醇で甘く濃密な香りを醸し出し空気となって鼻腔から身体に流れていく。
身が震えた。悦びのそれだとは認識している。ベリアルにとって、それが狂おしい程にたまらない。ワイングラスに反射する光には悪魔の像に踏み潰され悶えて絶叫する神流の姿が極めて鮮明に映っていた。無機質に眺めるトルコ石のような蒼の瞳に愉悦の光彩を宿そうとしていた。
『僕は君の欲望を信じている。助けたい欲望、救いたい欲望、愛ゆえの欲望。全ては愛のために』
ブルーの瞳は恍惚の色を強める。高鳴ろうとする感情の欠片を宮殿に飾られた宝石細工達が輝き讃えていた。




