堕天使の契約
大礼拝堂の空気は冷た緊張感に満たされている。芸術家が細部にまで気を配ったような、豪華絢爛な室内装飾の様式美は常人の想像を遥かに越えていた。
『シジルゲートを抜けて来た割にどうでもよい些細な事が気になる。それも人間の性なのだろう』
「なに勝手に悟ってんだよ。少しは会話を成立させろ」
ベリアルの前髪のヘアピンには、可愛らしいピンクトパーズが飾り付けられている。耳にも同じ宝石のイヤリングが装着されてあり、それをチャラチャラと満足気に弄っている。
━━封印が解かれたばかりだから、はしゃいでいるのは分かるが、全然俺の話を聞いてねえな。━━もう帰りたい。
胸にアルファベットで『BELIAL』とプリントされているのを見て神流は呆れていた。
「カッコ悪い、せめて筆記体だろ。どっちにしてもドン引きだけどな」
変わらずベリアルは、神流を見る事もなく指を遊ばせ妖しく流動するマニキュアを見ながら愉悦に浸っている。そして、艶かしい表情のまま口を言葉を紡ぐ。
『見た目が美しければ何でもいい』
べリアルは、ミニスカートから見える艶かしい長い脚を魅せるように組み替える。
━━なんなんだ、映画の観すぎだろ。
『その稚拙なオモチャを僕に向けないで欲しい』
神流は無意識に鉈の刃先をベリアルに向けていた。
「えっ!? ああ、これは弱者の防衛本能だろ。もう俺は用済みみたいだし、何をされるか分からないからな。……なぁ、ひかりを知ってるか?」
ベリアルはつまらなそうに視線を神流の下半身に落とす。
『その腰の汚い袋を見せてみるといい』
「へっ貸せって事か? 取るなよ。ちゃんと返せよ」
戸惑いつつ言われた通り袋を差し出す。その袋には青山羊悪魔を倒した際の戦利品である宝石類が入っていた。
ベリアルは袋に指先を入れる。
紫のゼブラ柄のマニキュアが幾重にも施された妖しい爪先を持ち上げると、その先に、真っ黒なロザリオとそれに引っ掛かっている黒く変色した金と銀細工の指輪が2つ現れた。
「何だよ。それが欲しいのか?」
『これは魔装具だ。3つ共に調度良い程度に呪いが施され浸透している』
「やっぱりか!? 手がピリピリしたもんな。俺はどこか呪われたのか?」
神流は顔をウーと顰める。
『素手で触れたなら誰でも呪われる。装着すれば外せなくなる呪いの拘束も兼ねている。君は呪いを回避しているんだよ。君が呪いを受けないのは、僕が指環から張り巡らしている極薄の魔力網によって直接触れていないからに過ぎない。それだけでも僕の靴の裏に口づけする位の感謝を示して欲しいものだ』
「そんな感謝を示せるか! ……呪われると外せなくなるだけか? それならお前か着けたこの親指の指輪の呪いと一緒か?」
『君が嵌めてるリングは呪いでもないし、僕が装着させた物ではない。だが、こちらのアクセサリーに施されてる呪いは本物だ。人族が素肌で触れたならば、瘴気が身体に不具合を及ぼす。ロザリオの呪いは筋力が8割程出せなくなる。攻撃力減退の呪いだ。2つの指輪の呪いは、外す事が出来なくなり瘴気が身体に侵食していく』
━━マジか!? よかったぁ、ミホマさんに安易に渡さなくて。
心で納得し少し安堵した神流が、ベリアルの爪先を注視すると爪のゼブラ柄が黒く変色していく。それに合わすように黒いロザリオは白金に指輪は金色と銀色に戻り本来の輝きを取り戻す。
『解呪した。というより呪いを吸い取った。本来有るべき効力を取り戻したようだ』
「そんな事が可能なのか。効力って何だよ?」
『ロザリオの効力は筋力が3割程出せなくなる代わりに体の回復能力が2倍に増える特殊アイテムだ。礼がしたいなら僕の座る椅子を舌の先で舐める事を許そう』
「舐めねえよ! 悪魔で変質者だなんてとんでもないな」
『僕は堕天使だと言っている。うむ、少し脳内を改造しないと記憶出来ないようなら喜んで手を貸し脳を弄ろう。脳の容量が足りなくても四肢に脳の一部を移して増殖させて戻す事も可能だ。人格が増えてしまうかも知れないが僕を正確に覚える事に比べれば些細な事だよ』
「普通に嫌だよ。もう全ての発想が怖えよ」
神流は魔装具説明を受け宝石が入る袋を返してもらう事が出来た。
「一応、閉所恐怖症の場所から助けてやったんだからな。後出しの条件とか無しだぞ。この指輪とかならやっても良いけど命とか寿命はやらないからな」
返事もせず神流を一瞥する事もなくベリアルは呪いを吸収した爪のマニキュアを唇につけて感触を堪能している。
━━もう何なんだよ。倍に疲れてくる。
ベリアルは爪の延長上に神流の顔を乗せると、息を漏らしながら艶めいた唇を開いた。
『そんな事より、何か望みはあるかい?』
ベリアルが耳を傾げる素振りを見せると、
神流は御返しとばかりに無言で広間の一角にある部屋に歩いていき屋根付きの豪華なベッドに寝転がる。
「外が朝になったら、起こせ」
そう言って堕ちるように深い眠りについた。
~~~*
『外界の日が登った』『朝という事象だ』 『拙い脳を覚醒し瞼を開けるべきだ』
━━耳元で声がする。終始、人を小馬鹿にした口調で喋る気に入らない悪魔の声だ。
目を開けるとベリアル顔が真正面にあり、横で寝ながら神流を起こしていた。
━━!?
「何で、お前が一緒に寝てんるだよ?」
『此所は僕の宮殿だ。何処でも寝れる自由がある』
会話するだけで神流は消耗する気分になる。
「くっつき過ぎなんだよ! 離れろ悪魔」
『僕は堕天使だ。それにまだ契約が済んでない』
━━……ん? 顔が目の前に……
唇を奪われた。
「……んっ……ふぉっ……んっ」
溶岩を思わせる程の熱を持つ力の塊が奔流となって、神流の喉に急激に流れ込んでいく。
「……んっ……お……あああ舌を入れんじゃねぇ!」
神流はジタバタ振りほどき口を袖でゴシゴシと擦るように拭く。
『その態度、僕の乙女心に傷がついてしまう。自重して欲しい』
「熱っ何しやがる! 一体、何を入れた? まさか……ここにきて殺す呪いとかじゃないだろうな?......」
ーー
瞬きの刹那、意識が抜けるように光が消える。
神流は朱と漆黒二色の闇に1人で佇んで居ることに気付いた。目線だけ下に降ろすと何処までも見渡す限りの溶岩に膝上まで焼かれながら立っている状態であった。
――っ何が?
ふっふっと短い呼吸音が自分の鼓膜に伝わる。痛みがせり上がる前に鼻腔に流れた肉の焼ける匂い。ブスブス溶けながら焦げる脚と熱で焼かれる咽喉が逆剥けて爛れていき溢れ出ようとする恐怖を掻き乱した。
「ぐあああああーーーーーーっ」
胸を衝く神流の絶叫が木霊すると泡立つ溶岩の表面が一斉に燃え上がり神流を中心に渦を巻き始め神流を何処までも沈めていくのだった………………。
――!
「はっ!?」
『僕を前に呆けるなど、危機感が皆無なのは好ましい限りだ』
ベッドに座り直すベリアルが無表情のまま、人指し指を咥えているのが視界に映る。
「……くっ、はぁはぁ今のは幻覚? お前、俺に一体何したんだよっ本当の事を吐け!」
『何もしてはいない。君と約束していた契約を完了させただけだ。僕と繋がった事を喜び、存分に滑稽な踊りを披露して喜びを表すといい』
「はぁはぁ、何を言って……まさか俺を悪魔にしたのか?」
『僕は下等な吸血鬼の真似事などしない』
――イラつくなもう。
「……………………もしかしてだかパワーアップして超人的に強くなったりしてるのか?」
唇から抜いた鋭く毒々しいゼブラ柄の爪先で顎の輪郭をなぞっていき胸元に垂れ微細に輝く髪を梳いた。
『さぁ? してるようには見えない』
━━徹底的に馬鹿にしやがって。
「くっ……とりあえず外に出る。帰り道どこだよ? おっ教えろ!」
『召喚』
後ろに暗い陽炎のように顕現したのは、神流が散々苦悩した魔紋章の扉。
神流はベッドに横になるベリアルに少しだけ首を向ける。
「……悪魔にアレだが、退治されないように悪さしないでヒッソリと慎ましく生きていけよ。約束は守れよ身内に危害を加えるなよ」
そう言いながら手を伸ばし指先が扉に触れると一瞬で水面に糸で引き込まれていく。波紋も起こさず呑まれていく神流の首の後ろ微光を放っているのが僅かに見える。
神流の喉の奥深くには燦然と妖しく光るべリアルの刻印がされていた。それはシジルマークと同じ紋様であった。消えずに佇む扉から視線を空中へ外したべリアルは神流へ向けて呟く。
『君はまた訪れる。僕を求めて』
紅いレーザーのように瞳を輝かせると瞳の片方を閉じて牙の見える唇を舐めた。
一章終了です。
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【《ベリアル》】
神流を呼び寄せ契約を果たした高位の堕天使
インドラの結界を神流に壊させ力を解放した。チアガールのコスプレを好む。
(言い伝え)
穏やかな口調で語り人間の心の中に罪を芽生えさせ、いたずらを助長し人が怒るのを見て楽しむとされる。
元は『知識』を司る熾天使であり天使長であった。地獄の一領域であるシオウルを支配するデーモンロードとして知られる。
燃え上がる戦車に乗り、美しい天使の姿で現れ、召喚者が生贄を捧げないと要求に対して真実を答えようとしない。美しく優雅で権威に満ちているが、堕天使の中でも彼ほど淫らで醜悪、不埒な者はいないと酷評される。
天から失われた者で、これほど端麗な天使はいなかった。
全ての者を欺くとされ、生贄を捧げないと望みは叶えてもらえません。人に地位や寵愛をもたらし友情を長続きさせ有能な使い魔を世話してくれる。自分に服従する者の危機は必ず救ってくれるとされています。
美しい天子の姿で2人でいるとも、2つの首があるともされる場合があり、炎の戦車に乗って現れます。
『生まれつき威厳に満ち高慢。しかしそれはすべて偽りの虚飾に過ぎなかった』
『天から堕ちた天使のうち、彼ほど淫らで、また悪徳のために悪徳を愛する不埒な者も、他にはいなかった』
絵画では強大なる魔力を秘めるベリアルは、腐った魂に反する美しき外見、かつ優雅で威厳に富む姿で描かれる。
名前の意味は「無価値」「邪悪」そして「反逆者」
ベリアルの存在理由の1つが「欺く事」であるという。エピソードの中でも有名なのは、幾多の人を堕落させ「ソドムとゴモラ」を滅びの道へと導いた挙げ句キリストを告発したこと。さらにはその力を生かしたのか天使の反乱に加わった者達の大半をベリアルが引き込んだ。ベリアルは自身の正統性をバルトロマイの福音書の中で、このように述べている。
『余は「サタネル=神の使い」と呼ばれていたが、神の偶像を拒否するや「サタナス=地獄を維持する天使」と呼ばれるようになった』
ベリアルは自らが最初の天使であるといって憚らない。神はまず天使の中でベリアルを造り出し、次にミカエル、ついでガブリエル、ウリエル、ラファエルを創造したというのである。
確かにこの大天使たちは「復讐の天使」「死の天使」など、暗き名で呼ばれることが多々あるにしても、何とも大胆不敵な物言いであろう。
この不埒な自尊心と言動の塊であるべリアルが神流をシジルゲートに誘導し、封印の破壊と契約を求めた。




