闇を越えて
神流は空中に浮く扉に触れ垂直の水面に一瞬で引き込まれてしまった。
ーー通り抜けた先は一寸の光も無い純粋な闇の世界だった。その空間の空気は匂いも無く清涼で、闇への来訪者を歓迎してるかに思えた。
神流は投げつけられたように前転して不様に平面の床に尻餅を付いて顔を歪めている。
「いぐぁ! 超ビックリした。扉に喰われたかと思った。巧妙な罠だった、誰でも引っ掛かってしまう…………………………」
すぐに後ろを振り向いて確認するが入って来た紋章の扉は既に消失していた。
「マジかよ。どうやって戻るんだよ! 完全に真っ暗じゃんか」
━━俺はただのエサだよ。アホアホですよ。大体、客を呼ぶとして、あんな不気味な扉に自分から入る奴が何処に居るんだよ。サービス業を舐めんなよ!
「マジで俺の小さな体の大きな勇気を称賛するわ」
━━とうとう……俺の頭は頭痛と疲労と疲れで本当におかしくなってきたんだろうな。
「…………」
不意に視力を失ったかの錯覚に陥る。不安が膨らむ前にジッポライターを取り出して火をつけ明かりを灯した。手元は明るいが周囲を必死に凝視しても、漆黒の闇以外目に入らない。
少し時間が経過するとジッポライター本体が高温の熱を持ち火を消した。
「あぢっ、火だるまは勘弁」
神流は暗闇の熱を感じさせない床に手をついて立ち上がると首を曲げてコキコキと鳴らして耳を澄ませる。
「まぁ声は向こうから聞こえてる感じがする」
━━狼の気配や遠吠えなどは聞こえない。戦ってる音も叫び声もしていない。青山羊悪魔メンとか居たりするなよ絶対に。
「この先に待ってる幻聴耳鳴り野郎に一言ガツンと言って成敗してやる」
━━
━━
ーー神流は腰に手を当てて暗闇に立ち尽くしていた。
「それにしても暗過ぎる。足の小指とかぶつけたらどうすんだよ? 中には最先端のLED表示灯とかつけとけよ!腹立つわ!」
━━美人のツアーコンダクターは居ないのか。案内窓口を置いとくべきだろ。
「んんっ、五月蝿いな。ちゃんと聞こえてんだよ! とりあえず出口出せ!」
(……ッチに……) (け………して) (………て)
陰鬱に呼ぶような声が絶え絶えに続き、頭の内周に沿って反響し続けている。
「気持ち悪い声だな。新手のサダコさんかよ。いつもの俺だったら、無言放置で帰って酒飲んでホロ酔いになったとこでグッスリ寝てるよ」
絶えることなく囁くように聞こてくる声に疑問が生まれる。
━━それにしても幻聴にしては聞こえ方がおかしいし近過ぎる。まさか!?
耳をいくら塞いでも聴こえてくる呟きに神流は、ハッとした。音源は神流の頭の中に存在していた。不気味な声が頭蓋骨の中でピンポン玉が跳ねるように反響している。
「やられたよ、無断で頭の中にスピーカーを置いたのか?」
━━そんなの許されないだろ不法侵入だ。……ただの拷問だよ。
「……………………」
その場に留まって居ても無駄な事を悟り頭に響く声を頼りに歩きだした。何度振り返っても入って来た扉は消失していて戻ることは既に出来ない。
━━この世界にくるまで、幽霊や呪いの類いは信じて無かったんだけどな……。実体の無い幽霊という中途半端な存在が襲ってきても、生身の俺の方が強いだろうと思うが。
「はぁぁ、不幸を切に実感している。暗闇の中心で不幸と叫びたい」
目を閉じても開いても目に映るのは漆黒の景色。自分の居る正確な場所も知る術がない。進めども拡がる虚無の闇。頼りに出来るのは床だけであった。嫌気の差した神流は徐に地べたに腰を降ろす。
「この選択…………ミスったかな」
胡座をかいて座っていると、闇が自分に伸し掛かる錯覚に襲われ始めた。首を振って立ち上がる。
「……ダメだダメだ。行くか」
神流は乗り気ではない足を踏み出して歩くが、約束も確約も自身に対しての保険も存在しない事実が靴を重く感じさせた。それでも、負の感情に支配されて狂わないように目的意識を強く持ち続け、頭に響く声の方向に蛇行しないように歩いて行く。
「声の主はどんだけ遠くにいんだよ」
━━なにか辿り着く為の資格や条件があるのか、暗号とか?
「…………扉に入ったら、サクッと自分の部屋に戻れるかもとチョッとだけ期待してたんだよなぁ」
怒りの息遣いが自分の存在証明になっていた。若干、闇に慣れてきた自分に危機感を覚えてすらいた。
「視界0センチメートル……」
━━それても歩くこの恐怖、点字ブロックが如何に優れたアイテムなのか身をもって知ることが出来たよ。
闇を抜けなければならない。闇を越えて辿り着かねば神流が必要とする答えに到達する事が出来ない。ミホマ達の元に戻る為にも歩き続けなくてはならない。それを分かっていてもボヤきは止まらない。
「ああ、疲れた、眠い、スマホ片手に堕落していた、あの頃に帰りたい」
━━もしかして、ここが地獄ではないのか? 俺は本当は死んでいて、このまま進めば閻魔がいて地獄の鬼に苛められるかもしれない。
「いや、俺はそこまで悪い事をした覚えがない」
息絶えたとしても死んだ事さえ伝わらない鬼哭啾々の闇の空間。存在さえ漆黒に飲まれ最初から、この場に居なかったと闇が主張してくる。静寂な闇に抗うように心臓が力強く収縮と拡大し激しくなった鼓動が鼓膜に届いた。
額に汗が浮かんでも歩く。頭の声に疑念が浮かんでも進む。辿り着く先に葛藤が生じても足を止めない。心の動揺が絶望の予測に結びついてもひたすら…………。
やがて、恐怖の感覚を焦らしながら堆積する苛立ちと不安が臨界点を越えて神流の中で爆発した。
自分から声を荒げ虚空の闇に問い質す。
「オイ何故俺を呼ぶんだ! 俺で良いのか? 俺は死んだのか? お前はお化けか地縛霊なのか? 俺はまだ全部信じてないけど本当に幽霊やゴーストが存在してるのか?……ワアアア━━━━ッ」
大声で叫ぶが、予想通り返事はなく。神流を呼ぶ声だけが頭の中で繰り返される。喉を枯らすほど大声を上げ息を切らした神流は、立ち止まり進むのを拒否する。
「結局は化け物扉は攻撃すらして来なかったのに、自ら触って扉の中に誘拐された。ネットに上げれば自業自得と叩かれるだけだな」
━━俺は……ただ山小屋の皆を守りたいと思っていただけなのに。出口すら無く幻聴に向かい歩く……ロジックなど粉々、まともな行動じゃない!
「おい指輪! 光ってないでなんとかしろよ……」
━━!
するとの指輪の光が方位磁石のように変形していき静かに明滅を始める。矢印の方向へ思わず身構えるが、深い闇が佇むだけだ。
「それだよ……遅えよ! もっと早く出してくれ。遠回りしてたらどうすんだよ。……まぁまぁ有りがたいのは否めない」
指輪の灯りがあっても闇の醸す深みは変わらず、依然として足元すら覚束ない。神流には途中で死を迎えるか、先に進むしか選択肢が存在しなかった。闇の中を憤りと不安と恐怖を混ぜた抑圧感を背負いながら光の矢印方向を見据え声のする方へ大きく進んでいく。
「物理的におかしいだろ。あんな薄い納屋の壁を越えたら林の木とか岩にぶつかる筈だろ?」
━━マジで「クッ殺せ」とかいつか言ってやる。
狂わないよう負の感情に支配されないよう理性の端にしがみついて歩を進めて行く。暗闇の中の小さく光る歩み進みきっと真実の扉を開けると信じるしかない。か弱い理性の背中には絶えず疑念が付きまとっていた。
━━矢印通り声の方向に行けば、ゴールや終わりはあるのだろうか。声の主は存在しているのだろうか……以前の自分なら呼ばれた位で此処に入れただろうか?
「うん、泥酔してても絶対に入らない」
頭に浮かぶ疑問は尽きない。以前のサラリーマン神流なら、誰に危険が及んでも、こんな胡散臭い所に絶対に入らない自信がある。
「ただの遭難者サラリーマンだよ……」
既にどれだけの距離を進んだか知れない。目印の無い闇の中では皆目見当もつかない。闇に抵抗する意志は朧気になり、大きく叫んだ喉は水分を失い酸素を通す管と化していた。自分を励まし進んでいるのに光明は見えない。
五感が鈍り役目を放棄し始めてすらいた。それでも神流は足を止めない。
「……」
━━。
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「ーーやっとかよ!」
歩くという原始的な単調行動をひたすら繰り返した結果、永遠にも感じた暗闇の奥に、ようやく仄かな明かりの点が見えてきた。
神流は身体を締め付ける緊張と疑念の鎖が解け緩んでいく錯覚を覚えていた。闇の終わりが在りさえすれば良かった。それが破滅へと導く灯火でも命の終わりを告げる葬送曲に添える送り火だとしても…………。




