魔紋章の扉
賑やかな団欒の夕食は続いていた。
皿が空になっても笑顔の神流がどんどん装っていく。まるで遠慮をさせないように次から次へと小さな皿に装われる。お皿にスープが注がれる都度マホとマウの瞳や口元に喜びの綺羅めきが浮かぶ。
━━これが本来の姿だろ。お腹一杯になるまで遠慮はさせない。ミホマさんにも残して今後に等という心配すらもさせない。
無事に和やかな食事が終わるとマホとマウの要望で、恒例になりそうな枕バトル・ロワイヤルが宣言と共に開催された。予想通り1人大負けをした神流は部屋を出る。出る時の神流の脇には然り気無くワイシャツが挟まっていた。
「おやすみカンナ!」 「カンナさんお休みなさい」
「御馳走様です。神流さんお休みなさい」
「ワイシャツ有り難う御座います。おやすみなさい」
神流は部屋を出ると暖炉の在る部屋に戻った。神流は隅に置いてある布袋を覗く。中には青山羊悪魔からの戦利品である宝石の宝飾品が詰まっていた。その中でも異質なのは不気味な漆黒のロザリオだ。
「ミホマさんにあげたいけど……絶対呪われてるよな。入念に洗ったけど毒とか平気か?」
━━子供達に触らせる訳にはいかないな。何重かに布でくるんで平気そうなのをミホマさんに渡そう。焼いて消毒とかした方が、良かったのかなぁ。……寝よっ。
上着を脱いで床に敷いた。そして、今日1日を思い出した神流は呟いた
「化け物退治は勇者とか光の戦士とか仮面のヒーローが率先してやって欲しい……」
神流は疲労感と眠気がピークに達していた。
「ふぁーーっ、やっと寝れる」
欠伸をしながらワイシャツを着ると洗われ畳まれているシーツを手に取りゆっくりと寝転がった。
━━板の間でも心地好い。
このまま目を瞑れば深い眠りにつける。だが
ーー背筋がざわつく。
見ると親指に嵌められた黄金の指環がはっきりとした光で明滅を始めている。変化は既に起きていた。耳の中にざわつく音が煙のように入り込んで来ていた。
「もう、何なんだよ?」
ーーそれは神流が知っている声と音であった。
落ち着かない神流は、嫌々立ち上がり室内を見渡した後に外に出る。外に出ても耳鳴りのような音は止まらない。
「何か危険が迫っているのか? 明日に回せないのかよ!」
━━クソッ場所が悪い。何かあってからじゃ遅い。
山小屋の周囲を見廻りした後に納屋の山賊を確認しにいく。ピリついた神流が納屋の中に入ると
━━!
「何で此処にまで、まさか俺を追って来ているのか?」
壁際の暗がりに悪魔の谷でも見た不気味な紋章の扉が妖しい光を放ち出現していた。
壁際の暗がりの中空に浮かぶ扉。その扉は冷たく刺すような紫の光を骸骨と天秤が掛け合わされた紋様に這わせ発光している。
神流は忘れていた。いや、無理矢理にでも忘れようとしていた不気味な扉。それが悪魔の谷で再び現れ、今、目の前にハッキリとした形で出現した。
「……とうとう此処にまで」
妖しく発光し透ける紋章の扉は、海面に漂う海月のように揺らめき浮かび続けている。
恐怖に毒された記憶がフラッシュバックしていた。異質な光を見ているだけで、背筋に冷気の混じる緊張が張り付いていく。血管が脈打ち心拍数が急激に上がっていくのが、鼓膜にまで鮮明に伝わり身が竦る。
精神の負荷が限界に近付く度に明滅し神流の呼吸や心臓の鼓動を落ち着かせていた黄金の指環は光の予兆すら見せない。
━━何故、俺なんだ? どうしても俺をどうにかしたいのか?
不安が煽られて炎のように拡散されていく。しかし、神流は意識を保っている。凄惨な戦場と人の死を目にした。そして、心の底から震撼させた青い山羊悪魔を直接撃破した事により、未知の恐怖に対する耐性が生まれていたのだ。
人は恐怖にも慣れ順応するのだ。身体の冷や汗も悪寒も止まらないが、頭の一部は冷静で思考する猶予が確かに存在していた。
「くっ……」
━━攻撃はしてこない。それとも、もう攻撃されてるのか?
神流は、冷や汗が流れる首を袖で拭き血流の増加した心臓の上を押さえて鼓動を鎮めていく。扉の様子を無言で窺っていると、耳鳴りが大きくなり何かが言葉の片鱗となり幽かに聴こえてくる。
(コッチ……フ……) (……コッ……チ)
「この扉の悪魔か? コイツは俺をロックオンストーカーしてるのか? 恨まれる覚えは一ミリも無いぞ……多分」
━━毎度の事だが嫌な予感がしてくる。俺の予感はよく当ってしまう悪い方に。いっそ毎回外れてくれ。恋の予感と宝くじだけ当たれ。
「…………」
神流は後ろを向いてスッと納屋を飛び出る。山小屋の扉の前で足を止め呼吸を整えると、そーっと皆を起こさないように忍び足で中に入る。
「……これしか無いか」
神流は逃げた訳でも寝る為に戻った訳でも無かった。台所から塩の小袋を、しっかりと掴みポケットに入れ暖炉の前で荷物を弄ってから納屋に舞い戻った。
「葬式でお清めの塩ってあったからな、お祓い的に魔除けとかに使えるかも知れない」
━━十字架やニンニクは元から見当たら無かったので探してない。絶賛活躍中の錆びた山刀はしっかりと腰に差してある。こういう時には準備しろと孫子が兵法の書に記していた筈だ。というか俺はいつも用意してる。孫子よ遠慮なく誉めてくれ。
「別に消えるなら消えててもいい。消滅してても俺は構わない。文句も絶対言わない」
時間を置いてに戻って来た神流が躊躇いを見せた後に扉を開ける。
「……だろうな」
形態の変わらぬ不気味な扉は未だに健在していた。扉は沈黙する事で逆にその姿を禍々しく映し存在を主張し続けている。山刀を構えた神流は息を巻いて扉に向かって挑発をかけた。
「出るなら出てこいって!……………………」
妖しく煌めいて浮かぶ紋章の扉は沈黙し挙動を見せない。
「恩人のミホマさん達にまで万が一の危険が及ぶのを防ぎたいんだよ」
━━それに頭の中に響くキモい声も消えないと結局自分が困るしな。大体「助けて~」とか「誰か~」じゃなくて「コッチ」て俺は子犬か?
納屋の中の換気状況は悪い。農具や家畜、穀物、干し草の匂い等の入り混じった独特の匂いが漂う。その暗がりの中で神流の息遣いと頭に響くような声だけが聞こえていた。
「何でなにも反応しないんだ? 一番面倒なパターンだな」
納屋の暗闇に差す薄い月明かりを頼りに横目で山賊達を確認するが神流の声に反応することも無く寝ている。
━━うん、興味ない。
神流の神経を圧迫する警戒の細糸は破断寸前の状態で張り続けていたが、不意に吐息が掛かる程身体を寄せた。目の前まで近寄るなりパラパラと塩を振り掛ける。ぼんやりと揺らめく紋様の扉の枠を素通りして地面に落ちていく。
「……」
それを見て山刀の刃先で扉を軽く触ってみる。空気のように感触が無く何も反応を示さない。力を込めて斬っても空を切っただけであった。
「……何だよ。もしかして虚仮威しか?」
━━ただの幻でも、ホログラムでも、プロジェクションマッピングでも、錯覚でもいいや。無害なら此所で放置して置けるし無視して戻るか? このムカつく幻聴だけ我慢すればいいんだろ。
「全く……迷惑な」
訝しげに神流は人指し指で衝いて扉に軽く触れた。
「ーーうぇぃ!?」
指先が僅かに触れた刹那、第一間接、第二間接と瞬く間に呑まれ水面に落ちるようにトプンと引きずり込まれていく。最後に残った左足の爪先が綺麗に入っていく。
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神流が消えさった納屋の内部には暗鬱の静寂だけが漂っている。魔紋章を描かれた扉は痕跡も光の残滓すらも残さず存在という概念ごと消失していた。




