裏メニューは心
憂愁を秘める茜雲が刻々と色を濃くしていく夕焼けを優雅に浴びては、悪魔の谷に残照を落としていた。
神流は崖の中腹まで上がって夕焼けを一身に受けている。崖下から10メートル程の地点で休憩し給水している所だ。
「はぁはぁ、まだこんな高さかよ、若さって何だよ? 若い時こんなに疲れたっけ? 突風も出てきたな。下では風も吹かなくなってたのにメカニズムが解らん」
上を見上げれば、40メートル近くある赤茶色の岩壁が、夕陽を受けて更に紅く染まっていた。
神流は屏風のような崖の岩肌に背中を預けて休む。のし掛かる疲れを全身に感じながら、下に流れる煌めく清流を眺めて呟く。
「全く、とんでもなかったな……」
━━縄張りに入ったら命の取り立てとかマフィアかよ。出会い頭に青悪魔山羊メンと出会ってたら即アウトだったんだろうな。運良く籠を被せられて倒したが、それ以外殆ど何もしてない気がする…………。
神流は徐に谷に顔を向けたまま手を合わせて黙祷を済ませた。
「何で川に来てなかったのかは痛いほど良く解った。学んだよ俺」
━━あんな化け物に出合う可能性がコンマ一ミリでも有ったら誰もバーベキューしに来ねぇよ。アウトドアも命懸けとかシャレにならねぇ。はぁ、見てしまった死体は流石にトラウマになるな。……青山羊悪魔メンのトラウマも相当な悪夢だな。一人でトイレ行くの嫌になる。……女性騎士と生き残りの兵隊達は、もう帰ったのかなぁ?
━━?
指環が急に親指をゆっくりと絞めていく。
「出番多くね? 流石にウザいぞ。もうお腹一杯だよ。どうした呪いのリスクマネージャー?」
━━!?
背中の壁に仄かな熱を感じて振り向くと微かに見覚えのあるマークの扉が静かに、そして鮮明に妖しい存在を誇示して夕陽に反射している。
「何だ……これ?」
神流は、冷や汗が流れる首元を袖で拭き血流の増加した心臓の上を押さえて鼓動を鎮めた。
━━うん、心の決議は下された。
「逃げよう」
少ない体力を振り絞ってセカセカと崖の段差を全速力でよじ登っていく。
~**
「あああああぁぁぁ重かった重すぎる。……もう無理、もう体力ゼロだよマイナスだよ。栄養ドリンクカモン!」
何とか崖を上がり切った神流は崖下を覗き追ってくる者が居ない事を確認した。
「はぁはぁ、アレも何も居ないな」
よろけると苔の木に手を着き撓垂れ掛かった。暫く動けずに居たが狼の遠吠えが聞こえると過敏に直ぐに立ち上がり帰路に向かった。
「もう死ぬほど疲れた。辛いし眠いし怖いし自律神経は限界だよ……狼バトルはもっと嫌だ」
日はとうに暮れて夜の闇が林を支配している。
狼の気配を気にしながら進む神流の目に見覚えのある赤い薮と帰るべき山小屋が見えてきた。
「……あった」
━━何とか、何とか戻ってこれた。うん、ゲロ吐きそう。
フラフラの神流は戻る前に納屋に余分な荷物を降ろす。山刀だけ腰に差して籠を背負い直すと、山小屋の前に繋がれて佇む2頭の馬の所に向かう。傍に寄りそっと鬣を撫で下ろした。柔らかく力強い手触りは、長毛の絨毯を連想させた。
背中の籠からパンパンに張った水筒を取り出して、柄杓に水を注いで飲ませる。馬達は勢いよく飲んでいき水筒は瞬く間に空になった。
「ごめんな、これしか無くて。重そうな荷物は貰って行くから少しは負担が減るだろ」
山賊の荷物袋を降ろして肩に引っ掛けた神流は馬達の元を離れ山小屋に向かうと扉をノックする。しかし、返事がない。……が少しすると中で走る音が聞こえ窓からマホが顔を覗かせた。
「カンナさんだぁ。カンナさん帰って来たよ~!」
部屋に明かりが灯り扉が開くと中に招き入れられる。
「今日から誰か来たら窓で見る事になったの」
山賊の一件から、扉を開ける前に窓から確認していると神流に教えた。
「防犯か……そうだよな」
━━山賊野郎達に暴力振るわれて強盗されたら誰でも警戒するよ。もっと柵とか壁とか監視カメラとかあ有っても良いと思うけどな。そういえばミホマさん達の近所事情を何も知らない。何も聞かずに勝手に動いてたし……そんな暇すら無かった気がする。
「おっ!」
元気なマウが走ってきて神流の足にぶつかる勢いでしがみついた。
「カンナ~!」
「神流さん……お帰りなさい。姿が見えなかったので、今度こそ旅立たれたのかと」
━━そりゃそうだ。そう思うよな。なんか照れてミホマさんの顔を直視出来ないよ。
「もう、ほんとに言い訳出来ませんスイマセン。あの、これを見て下さい」
背中を向けて籠を降ろす。籠の半分以上に魚と沢蟹が入っているのを見せた。
「あっお魚だ!?」
「カニカニ~!」
「神流さん、まさか悪魔の谷に……」
神流は照れたように笑った。
「いやぁ大変でしたよ。変な奴に絡まれてハハハ……ハハ」
神流は籠を持ち上げて台所に運ぶ。
「ミホマさん今日は俺が夕食作りますよ。部屋に持っていきますから、部屋で休んで待っていて下さい」
「戻って来られたばかりで御疲れでしょうに。いいんですか? 私も手伝いますよ」
「何回も心配させてしまってるんで謝罪も含めて俺が作りますよ。子供達とのんびり待っていて下さい」
ミホマ達が寝室に戻って行くと神流は整理体操しながら台所で気合いを入れる。
「んんっ、疲れてるぅ俺。精力剤も栄養ドリンクも無い。まぁ俺が疲れるのは仕方ない。優先するのはミホマさん達の腹を満たし食料の心配をさせない事だし」
━━料理が出来ると言っても包丁が少し使える程度だけどな。まぁ後は真心や手心や水心や魚心でなんとかしよう。
「今日最後の仕事だ。達成感の為にも乗り切ろう。ヘロヘロクッキング行きますか、そう言えば確かこの辺に」
神流は棚の上を確認していくと塩と葡萄酒を見つける。ヨモギとタンポポは十分残っており、金蓮花に手を着けた様子が無かった。
━━色が濃いから敬遠されたかな? 食べてもクレソンやルッコラのネギバージョンだしな。
「それよりヤツの味見味見、何年ものワインの予感だ。ふふっ」
神流はスプーンに葡萄酒を垂らすと喉に垂らした。
━━!?
「ムグッ!? おほっ! 駄目だ、直で飲めない。バルサミコ酢だろ! えほっおへっ!」
神流は咽せながら、台所を一時撤退し暖炉の部屋に向かうと置いておいた山賊の荷物を漁り始めた。
━━ろくな物が無いな。俺が泥棒してる構図だよな……そんなのは全然気にならない。
「んっ?」
動物の皮と布に包まれた固い黒パンと干し肉そしてチーズの塊を見つけ、もう1つの荷物袋を探る。奥にナイフと火打ち石と綺麗な石そして、葡萄酒の入った皮革の水筒が入っていた。
「何だよ使えそうなの持ってんじゃないか。どうせ盗品だろうな。衛生面が心配だから加熱は必須だな」
見つけた食材を台所に運び再び調理に取り掛かる。魚の内蔵を取り出して塩を揉み込んで、半分に切った沢蟹と一緒に鍋で煮込み始める。途中でヨモギを散らして煮たったら、葡萄酒をかけて匂い付けして臭みを取る。チーズを削って振りかけて辛味附けと彩りに金連花の花弁を、ひらりひらりと添えて完成。
「まっこんなもんか。てか、これが限界」
神流が湯気の立つ大鍋ごと部屋に運んでテーブルに置いた。その横には洗われたワイシャツが畳んで置いてあった。
━━!?
「いい匂いする~食べる~」
「もしかしてチーズかな!? なんか美味しそう」
「まあ! なんて良い薫りがするのかしら」
「味は解りませんが心を込めて作りました。どうぞ皆さま食べてみて下さい。とても熱いので、ゆっくり冷ましながらどうぞ」
シェフの真似をした神流が御辞儀をして取り皿に料理を取り分けていく。木のスプーンがトロリとしたチーズごと魚のを掬い上げ取り皿に降ろされる。
「さぁどうぞ召し上がれお客様」
待ち兼ねていた子供達はバクンと音が聞こえてきそうに口に一気に入れる。
「アチアチ、ウマウマ」
「熱っつぅカニ美味しい」
━━だからゆっくりと言ったのにチーズが飛び散ってる。ああ、まぁいっか。
鍋から立ち上る湯気を神流が満足気に和やかな黒い瞳で眺めると家庭の暖かい匂いが優しく漂っていく。
「とても柔らかくて身が簡単にほぐれます。この赤色の花の辛味が、とても魚のスープと合うと思えます」
「ほんとですか。良かった」
鍋から装われる都度、笑顔が咲く。まるで煮込まれた魚が跳ね上がるように団欒を賑やかしていく。
━━何度も戻って来れないかと思ったよ。死ぬ目に遭っても……此所に居れるだけで嬉しいんだ。
空気にそっと混じる金連花の匂いは神流にとって久しぶりで甘かった。
━━
ーーーー親指に嵌まる指輪が妖しい黄金色に明滅を初めている事に神流が気付く事は無かった。




