魂の記憶
透けた両開きの扉の向こうから、胸の隙間に差し込むように声が聴こえてきた。
「……コ……」 「…………チ……」
━━!
声に驚き目を剥いた。その扉を注視すると幸か不幸か月明かりの加減で、認識することが出来てしまう。透けた両開きの扉には、骸骨と天秤をくっ付けた家紋のようなマークが描かれている。
全身に汗が伝うように痺れが走ると濡れた掌を素肌につけられたように冷やりとした恐ろしさが込み上げてくる。恐怖を感じる神経に毛穴から入って針を突き刺さしてくるように感じた。
「何なんだよ、幽霊なんかいるわけ無いんだよ」
━━絶対ホログラムか何かだ! 若しくは幻覚と幻聴と幻何とかだよ。俺は疲れてるんだ。やっぱ過労だったかな? 客に気を効かせ過ぎたかな?
「よし、今日の帰りに総合病院に行こう。有給も消化してなかったから申請しよう」
後退り車のキーを強く握り息を吸う。
「とっておいた五千円の栄養ドリンクを使う時がついに来たな」
恐怖を誤魔化すように呟いた神流は、泡のように立つ鳥肌や震えを否定し、自分を無理矢理納得させ思考に蓋をしっかりする。ドアをバタンと引いてしっかりと締め鍵とドアチェーンを慌てて掛ける。
「ハァハァハァッ………夢だ」
身体は正直だった。浅く繰り返される呼吸は止まらない。スーツとクラッチバッグをソッと玄関の棚に置いた。おたつきながらスマホの明かりで冷蔵庫を探し出した。中から取って置きの栄養ドリンクと冷たい缶ビールを取り出し乱れた呼吸を直してから一息で飲み干した。
「そっそうだ! 夢なんだ、それでいいんだ」
ゴクリッ
放心を通り過ぎた恐怖を誤魔化すように酒気を含んだ唾を飲み込む。
徐にベッドに舞い戻った神流は、暑いのも忘れタオルケットを頭に強く被ると小さな暗闇で現実を遮断する。超常現象を否定していた神流の心は、未知の恐怖に凍る感覚を覚え身に纏わせるタオルケットを千切れそうな程引いていた。
夢だ、夢であって欲しいと心の底から願い、汗だくのまま湿った呼吸を繰り返し歯を噛み締めながら、いつしか眠りの泥に沈む。
……
━━━━
「━━━━━━」
意識だけが朧気に覚醒してくる。身体を動かす事も瞼を開ける事も出来ない。
━━これは!? またも夢なのか?
横になったまま、空中に浮いた裸の神流の意識のみが鮮明化される。驚きと動揺はあるが畏怖や恐怖の類いは含まれていない。
━━!?
瞼を閉じているのに真上から翼の生やし光を放つ裸の美女に視られている事を感じとった。
━━何、ていうか誰!? 危機感は感じない。それどころか懐かしい光だ。身体の奥底に届く癒し系の温もりのある輝きだ。
神流は瞼を閉じたまま、その幻出された光を全身で受け続ける。そのまま意識ぐぐっと向けてみる。その美女の顔をどうにか鮮明に感じようとしても不可能。何もない何も存在しない空間に、2人だけで浮かんで佇む。身体を透過していく淡く彩られた光が、身体の表層に触れては通り過ぎていく。
━━天……天使!?
その最中、ふと光達に押された気がした。反応し声を発しようとしても喉の気道が、熱くなり赤子の悲鳴を上げ沈黙してしまう。瞼を閉じたままで、眼球を動かす事も無く光を直視している。
━━自分も、このまま光に沈み溶けていき何かの1部になっていくのだろうか。
意識が四肢に届かず抵抗も出来ない。思考が曖昧で何も解らない。
自我を保つ術すら消失していく。思考が覚束無い俺であろう存在が、吸い寄せられるように手を伸ばし光の中の翼に触れようとした刹那。
細胞の奥に封されたように眠る記憶の欠片や断片が鮮明に映像化され浮かび上がった。
幼年のあの日、終わりの見えない苦しく辛い治療に笑顔を忘れ。寂しく孤独な病室で夜の闇に依存し吹けば消え入りそうな蝋燭の灯火のように小さい命。その病に蝕まれた白い籠の中の脆弱な魂に差し込んだ高純度の一条の光。
『つまらない世界から救い出してあげるよ』
言葉が光の奔流となり神流を包み込んだ。
揺さぶられた魂に灯された淡い白炎に映し出される記憶の欠片は心の深層に封じられていても消えぬまま残っていた。
その存在その輝きに焼かれるが如く心惹かれ、憧れ羨望し続けた無垢の感情。それが魂に灯る白炎に光を与え消え行こうとしていた身体を輝かせた。
愛という言葉さえ知らなかった幼年の日の未熟な恋心。それと同調するように重なる憧憬の念に仄かな熱が宿り胸を焦がすようにくすぐった。すると高級な金管楽器のような振動が脳に響いた。
――――
愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい、愛おしい
強烈な感情の波に飲まれる。安らかに包み込む慈愛と蕩けるような甘い優しさを過剰に含む波紋が身体に浸透していく。
神流の心に動揺の色が浮かぶと音の質が変化する。
━━!?
愛おしく悩ましい、愛おしく狂おしい、愛おしく苦しい、愛おしく疎ましい、愛おしく凌辱したい。愛おしく脳を撫でたい、愛おしく心臓を舐めたい、愛おしく血の温もりを浴びたい、愛おしく味わいたい、愛おしく魂を…………愛おしい愛おしい愛おしい愛おしい愛おしい愛おしい……………………。
━━えっ!?
神流が一瞬の恐怖を覚えると一枚の翼がゆるりと羽ばたいた。刹那、光量が爆発的に増殖し瞼の上から網膜を焼くように輝いて神流を動揺させる波紋を一瞬で弾き飛ばした。
光の塊である美女が翼を僅かに動かす度に安心していく。光で造形された幻のような翼の美女が誰か朧気に解りかけてきた。鼓膜の奥で光の音響が優しくそっと響く。
『契約は約束よ』
「ひかりだよな?ひかりでいいのか!? えっ何が?」
神流は時を越えて手繰り寄せた淡い記憶の存在に語りかけるが言葉にすらなっていなかった。翼の生えた裸体の美女の光体は、透き通るように神流に重なり始めた。
『闇の果てのように遠く、子宮の胎内よりも近く感じていたわ。ずっと逢いたかった。因果を超えて間に合ったの、新しく結ぶわ』
光の彩りを増やす艶やかな口元、しなやかな光体は神流の下唇へ近付き愛撫するように深淵の口付けをあてた。
━━!?
繋がった穏やかな光と丁寧な唇の感触には覚えがあり安堵と罪を思い出す。儚い音色のような囁きが神流の意識を包むと世界が光と共に霧散していく。
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** * *
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*
「ーーひかりは!?」
朧気だった意識が瞬時に覚醒する。
「えっ?」
━━光の中で身体がどんどん加速している。方向は下だ。と言う事は…………自由落下!?
大きな光を突き抜けると空気の湖に飛び込んだかのような衝撃に見舞われる。
「バホッ!」
落下する神流を迎えたのは大きな月と星が瞬く満天の夜空だった。