騎士の誉
風の止んだ谷の下で神流は消滅した青い山羊悪魔の残滓を眺めていた。
━━本当に何これ? 何この状況だもんな。
周囲では石や岩に着いた炎がまだ燃えていた。炎が流木や草木を焼き大量の煙を上げている。
「煙いな、おほっぐほほっ!」
魔法への理解力が無い神流に山羊悪魔の魔法で、何故自分自身が死な無かったのか?という疑問までは生まれなかった。
そして、無理をして急激に動かした手足と転がった時にぶつけた背中の筋肉と尾てい骨がキンッと痛む。すると悪魔と戦った実感に奥歯と太股が震えている事に気付いた。
「はぁ、マジで怖かったな。頑張ったよな俺」
吐息をこぼす神流は自分の手のひらを見詰める。悪魔が実在して襲ってきた事実と悪魔とはいえ刃物を振るった余韻は克明に残っていた。
「これが噂の勇気ってやつか?……それはそうと」
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神流は散らばった荷物から革製の水筒を取り出して水を汲むと、山刀を腰に差して走ってきた方向に戻っていく。
━━ギリギリ生きてる人がまだ居るかも知れないな。望みは薄いが。アレを食らって生き残るのってミラクルが無いと難しいよな。
青山羊悪魔が暴虐を尽くした大岩の先に辿り着いた。改めて見るその光景は戦争を彷彿させる物だった。焼け落ちたテントや衣服そして旗がまだ燻っていた。激戦の末、虚しく命を奪われた無残な亡骸が、あちらこちらに見える。
辛うじて生き残り移動してる者も見えた。しかし、逃げる前に神流が見ていた壊滅状態には変わりは無い。神流は拳を握り甲を口元に持っていった。自身の胸中にある気持ちや状態を言語にして出す術が無かった。
そのまま力無くその場で屈む。
「これはミホマさんに返さないとな」
青山羊悪魔に投げつけて弾かれた錆びた手斧を足元に見つけて拾うと改めて周囲を見渡す。
一番苛烈な主戦場だった遠くの河原では、跪く兵士が死んだ仲間を抱きかかえ嗚咽を漏らして泣いている。川に沈んだ騎士を引き上げ膝から崩れ落ちる者も見える。健常な騎士や兵士は殆んど居らず負傷者が負傷者を助けている状態だ。
「少数だけど生きてた。全員死んだように見えて心の底からビビってたよ。さてと」
神流の頭に浮かんだのは車両事故の応急処置だった。迷う事なく名も知らぬ美青年騎士の遺体の側に駆け寄り膝をついた。
他の死体に重なるように倒れていた騎士の顔は血に濡れていたが眠ったように穏やかな表情をしていた。
━━この人は自分の危機にも関わらず怯える俺を逃がそうとしてくれたな。崇高な騎士の精神なのだろうか。
神流は万が一の可能性を考慮し本当に死亡してるのか確認しようと試みた。
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「……」
軽く触れるだけで感じる低すぎる体温、そして身体は丸太のように硬くなっている。心臓の辺りに置いた掌には何の鼓動も返って来ない。肺は収縮活動を沈黙させてから時が経過していた。
「異世界ならもしかして?」と何処かで思っていた神流に身体の持ち主が生命活動を永遠に停止した事実を深く突き付ける。
端正な顔立ちは生きて動き出す錯覚を促す。死体への精神的な免疫などは持ち合わせていない神流だったが、少し開いていた瞼を優しく下ろし、少し引っ張って地面に降ろし仰向けに寝かせて手を合わせる。
「名も知らぬ騎士さん安らかに……ただそれだけです」
━━悪魔が魂とか言ってたよな。咄嗟に言い返したけど魂なんて本当に有るのか? この人の魂は俺の居た世界と……俺と同じ魂ののだろうか?
その横でうつ伏せに倒れる女性の騎士の遺体。美青年騎士の下敷きになっていたせいで血塗れになっていた。彼女の胸当てには華やかなドラゴンが彫金されている。その豪華な装備すら青山羊悪魔の攻撃を遮るに至らなかった。
ひっくり返して仰向けにしようとすると
「━━! 死体じゃない。気を失ってるだけなのか?」
血の気を失った蒼白な顔色だったが触ると柔らかく少し温かい。耳を澄ますと微かな浅い息使いが聞こえて来た。生きている事を確認するとそのまま仰向けに寝かせた。
━━全く、こんなに人が死ぬ場所に女性かよ。軍人ってのは男女平等過ぎる。
「取り敢えず生きてて良かった」
━━この女騎士を護ろうとしてたんだよな、命を懸けて……これでこの青年も浮かばれるかな。医者じゃないから寝かせる位しか出来ないのが情けない。……まだ沢山被害者がいるしな他の場所も人道的支援に回るとするかな。
神流が他の負傷者を手助けに行く為、立ち上がろうとすると後ろから鷹揚な声が掛けられた。
「オイ、少年こんな所で何してるんだ?」
声を掛けてきたのは青山羊悪魔に弾き飛ばされ崖に激突して死んだと思われた騎士だった。極楽鳥の翼が刺繍されたマントは裂けて無惨に破れていた。
年齢は元の世界の神流と同じ位で、体重は軽く100キロ以上有りそうな偉丈夫の男であった。その男が装着していた頑強な黒い鎧はベコベコに凹み損壊していた。
「あっ生きてた」
神流は反射的に浮かんだ率直な気持ちが言葉として出てしまう。
━━あれで生きてたのか? 小魚食べまくって鍛えたのか? 心に引っ掛かる子供扱いは、見た目の問題をクリアしない限り続くだろう。かといって老けたいかと聞かれたらノーと答える。
「んー? まるで戦闘を見てたみたいだな。肋と肋骨の骨がバキバキに何本か折れちゃいるが、生きてる事に変わり無い。それより少年は何をしてたんだ?」
神流は素直に説明をする。
「この人に逃げるように言われたんだ。それで、この人は隣の女の騎士の人を庇うようにして倒れた。俺は逃げ出した……だけど一応、みんなの手助けしようと思って戻って来たんだ」
「……そうか……悪かった悪かった。危険を侵して戻って来てくれたのに、不粋なことを聞いてしまったな。俺はローレス。王都で騎士をやって飯を食ってる者だ。ここで眠りについたこの男は、王都でモテモテだったスチュワールト、別嬪な恋人も居るのに此所で死んじまった」
「……人がこんなに死んでるのに、この人は他人を護って立派に……。何故、平気でそんな事を言えんだよ。悪魔にやられて頭がおかしくなったのか?」
神流は自分を逃がそうとした美青年騎士に感情移入していた。死を軽んじ軽薄に映る騎士の仕草に苛ついてしまう。騎士ローレスの顔は少し険しくなったが、神流に笑顔を向けた。
「未熟な少年には、まだ解らねえよ。コイツは騎士としての使命をちゃんと果たしたんだ。此所で休むキャナリアス様を見事に護り、少年のお前を逃がして救ったじゃねえか。それで十分なんだよ」
「何を言ってるんだ。大体、こんなに大勢死んでるのに無謀な悪魔狩りをしてたのか?」
軽い男の態度が気に入らず神流の口調に荒さが混じる。
「解ってるなら……早く帰れ。あの高位の悪魔がいつ戻ってくるか解らねえ。今の俺じゃ少年を守ってやれねぇからよ。それにコイツは俺の弟だ。俺が連れて帰らなきゃいけないんだよ」
「ーー!」
━━兄弟だったのか……身内が死んで悲しくない訳あるか。くっ俺はアホだアホたれだ…………。ここで隠しても仕方ない。
「…………心配は要らないと思う。あんたらが戦ってた青い山羊の悪魔だったら、俺が倒したからもう居ない。時間は余り無いけど、何か手伝うよ」
「ーーくっ!」
神流の言葉にローレスは怒りの色を見せて反応する。
「こんな時に嘘なんか言ってると、いつまでも笑っていないぞ。殴られる前に早く帰れ!」
神流は無言でローレスの青い瞳を見つめていた。
「あんたが肩に斬りつけた剣の傷のお陰もあるかも知れない……」
「何だと!? ……嘘じゃないのか?」
「生きてるのが信じられ無い程のラッキーとミラクルの連続で倒せただけだなんだ……」
神流を凝視し驚きの顔のまま固まるローレスの足下から、白銀の光彩を思わせる澄んだ高貴な声が聞こえてきた。