死の魔方陣
全力で戦場から惨めに逃げ出した神流の瞳に映るのは、命の終焉を連想させる青い山羊の悪魔が水面に佇立する姿であった。
━━━━なんで居るの……?。
神経に凍り付く刃物を差し込まれたような不快な感覚が襲った。
「ぇ……回り込まれたって事……」
絶望の端まで押し出されたように心の底からの恐怖が、這いずり地の底にひきずり込もうとする。自分の心臓を云い知れぬ戦慄が握り込み、痺れの波長を孕む緊張が全身の皮膚を暴風のように這いまわった。
「ぎっ逆に逃げるか……」
━━さっきの戦場にか? もうあそこまで走る体力も無いだろ。戻っても先回りされて兵士や騎士の軍隊を紙屑のように虐殺したように………………殺される。
味わった事のない恐怖が、ブレンドされ過ぎて口元に嗤いが生まれていた。神流は、踏んだ地雷の余りの大きさに心を保つ術を失っていた。心の中で自分の不幸を何度も呪い続けていた。
━━俺は何故、衝動に駆られて斧を投げてしまったんだ。死体の尊厳に対して命を懸ける必要が有ったのか? 自己満の代価が惨殺刑かよ。
神流を睥睨する青い山羊の悪魔は、もの足らず飽きたようにすら見えた。しかし、惨めに狼狽する神流を眼光で縫い止めたまま逃がすつもりは微塵も無い。弱い生き物は恐怖を与えると足を動かす事が出来なくなり逃げれなくなる事を熟知していた。
生態系の上位に君臨する青い山羊の悪魔は怯える神流を見て嗜好を凝らそうと思案を始めた。皮を剥いで血管を穿り出して甚振ろうか?解体して内蔵を嬲ろうか?潰して頭から貪ってもよい等々の選択肢を拡げていた。
「うぅっ……絶望だ……」
睨まれているだけの神流だが心臓を素手で握られたような恐怖が舞い身体が竦む。冷や汗と全力疾走の汗が混ざりワイシャツと下着は既にビショビショに濡れている。神流の恐怖メーターの数値は既にカンストしたように上がらない所まで来ていた。意識も緊張と不安が限界に近付き朦朧とし始めていた。
━━
黄金の指環が心臓の鼓動に呼応するように明滅を強める。
淡い光を受けると恐怖で窒息しかけていた神流の恐怖が、和らいで精神の崩壊を寸前で防いだ。じわりと沸いてくる恐怖に手先や足先に震えは残り浅い呼吸を繰り返していた。
「はぁはぁっ」
━━この精神にくる波は何なんだ? 頭の中を弄られてるのか? ん、?でも悪魔を見慣れてきたぞ。考えれば考えるほど嫌な予感を跳び越えて高確率の死の予感がする。隠れる所も逃げ込む場所も何も無い。狼も悪魔も嫌いなんだよ。最初に戦うモンスターは小さいスライムかファンタジーカワウソみたいなモンスターじゃないのか? セオリーはどうした!
恐怖が和らいだ分、混乱した思考が錯綜をしていた。更なる変化の兆しが起こる。黄金の指環が異様な震動と脈動を始め、臨戦態勢あるかのように一段と強い光を放ち始めた。
神流の窮地に呼応したかのように震動して発した強烈な光は神流を鼓舞するように輝いていた。指環から放たれた光を身体に受けた神流は、まるで脳に冷水を流し込まれたように意識がハッキリとしていき混乱を鎮め自我を取り戻した。
━━こんな時なのに不思議な気持ちだ。
頭の上から下まで痺れる震えを奥歯を噛み締め耐えていた数秒前が、嘘のように自然の呼吸は楽になっていた。神流は鼻孔から、ゆっくりと息を吸い込み下を向きながら状況分析に頭を巡らせる。暴れようとする心臓の拍動も恐怖に呑み込まれようとする精神も冷静に感じ取っている。そして、この危機的状況に立ち向かう明確な意志が沸き上がって来たのだった。
━━勝てないどころか簡単に逃げれないのも解っている。青山羊悪魔メンが此方をガン見しているが、視線で刺激してはいけない。猛獣と同じように、このまま絶対に目は合わせてはいけないのが鉄則だ。間違っても関わりたくなかった。太陽で灰にならないとかズルいだろ悪魔。
数舜で思考を終わらせた神流は悪魔から見えないように後ろに手を回して腰に差した山刀の柄を握り締める。
戦況は動いた。青山羊悪魔が狼狽しなくなった神流の処遇を決めて動き出した。青い舌を出した悪魔の口から放たれ拡散する低濁音が川面に響く。
『下等ナ人間ヨ、膝マヅイテ魂液ヲ差シ出セξξξξ』
青い山羊の悪魔の口内に小さな魔方陣が出現する。
「えっ普通に喋った?って魂渡したら普通死ぬでしょ?」
━━なんか少し慣れて来たな、どうせ死ぬからか? それより手斧攻撃の事がバレてないようだ。言葉が通じるなら培った社畜の営業トークで華麗に切り抜けてやる。
「オホン、あっ悪魔様御覧下さい。沢山の新鮮な鯛と焼きズワイガニの生け贄を全部無料で差し上げるので……」
━━!!!
「おふっ!」
神流に向かい見えない何かが飛んで来て直撃する。胸の辺りで光の火花が弾け光を散らした。胸に鑢で何重にも擦られたような痛みが走りよろけた神流は咄嗟に掌を胸に当てるが出血はしていなかった。背筋に悪寒が流れ走り出した恐怖が再加速していく。
「ぐっ……」
『ヴォェ何故、魂ガ引キ出セナイノダ? ξξξξξ∫∫∫……』
魔法を当てた神流から魂が抜き出せないと苛立つ青山羊悪魔は、口内に別の魔方陣を形成し吹き出すように詠唱する。
『石化!』
━━何か超痛かった。もしかして殺す気だったのかよ? さっきの溶ける殺人魔法みたいのをやられたのか? 口からも大量の血が……出てないし。今ので奥歯がカチカチ鳴り出したぞ。もうイヤだ帰りたい。もう魂は要らないのかよ? ほんの一部なら交渉の余地が……。
「うごっ!」
恐怖で動きの鈍る神流の胸の前に小さな光の輪が一瞬で浮かび上がる。放たれた魔法の衝撃波は、その光に当たり弾かれて光の華を咲かせて散る。
「ぐふっ!」
神流は衝撃で大きく吹き飛ばされ河原の石の上に尻餅を着いていた。尾てい骨の発する痛覚を忘れて恐怖を宿した瞳で悪魔を凝視して声を上げる。
「胸痛っ尻っっ! ケツ骨がっ割れる! ………聞いてくれ実は今日は俺の誕生日なんだよ。何とかならない?」
青い山羊の悪魔が、ゆっくりと浮かびながら音もなく神流に向かって進んで行く。それが神流の恐怖を更に倍増させ膨らませる。青山羊の悪魔は川面を渡りきり目前まで迫ろうとしていた。
━━話が一切通じてねえ。マジで怖いよ青悪魔山羊メンは短気過ぎる。何しても逆鱗タッチか? キレる大人キレる悪魔、直接対決しか道は無いのかナビよ?……嫌過ぎる!
挙動不審で支離滅裂な愚痴を心の中でダムの放流のように流し動揺する神流とは、対照的に青山羊の悪魔は僅かなイラつきで眼光を歪曲させていた。
屈強な騎士達や勇猛な兵士達を思うがまま虐殺し命を弄ぶように蹂躙し、目当ての物は容易く魂から引き摺り出した。しかし、目の前の小虫のような人間1匹に己の魔法が防がれている事実。その事実は絶対に看過出来ない怒りへと昇華した。邪悪に蠢く漆黒の心臓に流れる血流が沸騰しゴボゴボと煮え繰り返る。
『ヴェォ何故ェ効カン? 何故ェ死ナヌゥ無力デ無知無能のムシケラ人形ガァ! 細胞マデ千切レテバラバラニナルガイイ!』
「えっ、十分効いてるよ」
━━何もしてないのに怒り出した!? 情緒不安定?
「もう……勘弁してよっ」
神流の2メートル程手前で青山羊悪魔は静止をした。それは死にそうな表情を見せる神流に情を覚えたからでは無い。
面長の顔面を空に向け口を縦に開き小さい竜巻を起こしながら息を吸い込み始めた。上半身が風船のようにパンパンになった青い山羊悪魔は、それを止め顔をゆっくりと下げ魅入るように視線を合わせる。
肉々しい歯茎から生える牙を向けながらクァァと上下に開き切った顎から空気砲のような濁流を吐き出した。