裂けた心
貫かれ串刺しにされ絶命した若き騎士達は、まるで彫像のように動かない。
空を渡る鳥達が樹木に集まってくるように流れてくる極限の情報に神流の思考は追い付けず整理し切れていない。全容が何も解らなくても恐怖を感じる器官は熱心に仕事を続けていた。目の前で起こり続ける惨劇に絶望し背骨が凍りついていく感覚に陥る。
━━魔法なのか? 火の玉が光が、人が……次々と死んでいく。怖い息が出来ない位怖い。大声を上げて泣いて仕舞いたい。穴を掘って隠れたい。このまま此所に居たら確実に殺されてしまう。生きる為、死なない為には逃げるしかない。
背筋が急激な寒さを感じる神流は息を小さく吐くように呟いていた。
「駄目だ、無理だ、気を抜いたら恐怖で膀胱が破裂して漏らしてしまう位、精神が限界だ。頭がおかしくなりそうだ」
河原では何人もの兵士が血塗れで倒れピクリとも動かない。騎士の死体が幾つも棄てられたように転がっている。夜営のテントや仮設の休憩所は全壊しており、悲鳴のような叫び声や咆哮が谷の壁に当たり反響し続ける。奥の主戦場にある崖の一部には、巨大な雷のような亀裂が入り崩壊して土煙を上げ続けている。
━━生きてる次元が違い過ぎる。俺がどうこう関わるレベルなんかじゃない。何で逃げないんだよ。何で死ぬんだよ。あんなのに向かって行くとか自殺行為だ……。
同時に影から覗く自分が死ぬほど矮小で情けなく感じていた。
━━知識も経験も何も無いがが己の力量位は解る。多少ジムで鍛えた位でなんとかなる悪魔などいない。
彼等が居なければ、自分が直に遭遇していたかもと想像を巡らすと悪寒が踵から背中に流れていく。目にした事柄のスケールが大き過ぎて立ち上がる事も出来ずにいる。
鋼鉄製の頑丈な弓矢も矢継ぎ早に放たれていたが、青山羊悪魔の肌に少し刺さるだけで手で埃を払うように落とされていく。
━━
ふと神流は誰かの視線に気付いた。
「━━気付かれた」
近くに倒れている蒼い目をした美青年騎士が、岩陰の神流に気付き目線を送っている。神流は、自分の存在が悪魔にバレる恐怖に身体が凍りついていき硬直する。
━━たっ助けろという事か? 俺だって助けたい。だけど、ここから出た瞬間に山羊の化物に滅殺されて……。
手を地面についた美青年騎士が口を動かし何か言っている。
「逃……げろ……少年」
遠くで暴虐を尽くす青山羊悪魔が、起き上がろうとする美青年騎士の男に掌を向ける。すると、目の前で立ち上がろうとした美青年騎士の身体はビクンと跳ね血をゴボリと喉から大量に吹き出して息絶えた。
神流は何も出来ず息を止めるように口を塞いで嗚咽する。
「うぐぅぅぉぉぉ!」
━━この世界で俺は無力だ。何も出来ない助ける為に声も上げられないヘタレだ。それでも死にたくない。殺されたくないんだよ。
神流の胸は恐怖と悲痛で、鉄の荊で締め上げるように苦しくなっていく。視線の遥か先では依然として、青山羊悪魔との熾烈な戦いが続いていた。矢と魔法の集中砲火を受けて、やっと青山羊悪魔は煩わしそうに僅かに顔を歪めていく。
それを勝機と見た騎士や兵士が躍りかかった。仲間の名前を叫び逆巻く怒号を反響させながら、大剣や長剣を振りかぶって刃先を青山羊悪魔に降り下ろす。
それを見た神流は祈るように手を強く組み勝利を祈った。スポーツや格闘技で熱く応援などした経験が無い神流が、生まれて始めて誰かの勝利の為に祈りを捧げた瞬間だった。
━━頑張れ、頼む頑張ってくれ! その肉食動物より凶悪な外来種生物、いやっ悪魔生物を倒してくれ!
「━━?」
その攻撃が青山羊悪魔の逆鱗に触れてしまった。
悪魔が口の前に妖しく赤紫に輝く魔方陣を形成していく。大きく息を吸い込むとその魔方陣に向かい強酸の液体を吐き出した。魔方陣を通過した液体は、赤紫に濁り放射状に拡がり兵士達に平等に降り注ぐ。
悪魔の液体が素肌に触れるとジュウッと爛れ肉までズグズグに溶かしていく。兵士達は勢いよく吐血して喉から血液を大量に吹き出し、目と耳からも流れるように出血して息絶えた。
その凶悪な液体は衣服や革製の鎧すら溶かした。鉄の鎧や盾で受けた騎士達は表面を溶かしただけで持ち堪える。しかし、その凶悪な液体を衣服や革製の鎧で受けてしまった者には、絶望の悲劇が……。
ジュワッという音と共に衣服も革の鎧も溶け落ちた。素肌に強酸が触れると肉が表明から爛れ始める。強酸が血液に混ざり血管を通して体内を巡ると、血管も内蔵も爛れ吐血し血の涙を流して誇り高い命の終わりを向かえた。
「うぐぅううう!」
━━そこまでしたら、もういいだろ止めてくれよ! お願いしますから!
残酷な殺戮劇場を瞳に収め、怯えるだけの神流は袖と腕を噛んで息を圧し殺す。
━━もう駄目だ。もう嫌だ。もう嫌なんだよ消えて仕舞いたい。このまま消滅したい。
余りに凄惨過ぎて耐えられない神流は腕で目をきつく覆った。悲しみが、苦しみが、全て我が身に宿ったように爪を立てて自分を抱き涙を流していた。
━━決着は着いた。青山羊悪魔の圧倒的な虐殺で終わった。
もう動ける者は誰も居ない。無傷で動ける者は岩陰に隠れ息を殺してる虫ケラのような己だけであった。青山羊悪魔が倒れる騎士や兵士に無慈悲なトドメを刺して命を蹂躙していく。
すぐにでも逃げ出したい神流は、音を立てて逃げる事が危険過ぎると躊躇っている。
「ーー!?」
神流に「逃げろ」と言って死んだ美青年騎士は、手前に倒れる細身の騎士を庇うように倒れているのに気付いた。涙と鼻水と涎を袖で拭って注視すると、それは銀の装備を装着する女性の騎士だった。兜で隠れているが髪型と口元が女性のそれであった。
━━女性なのか? ここからじゃ生きてるか死んでるかも解らない。
死んだ美青年騎士に青山羊悪魔が近付いていき女性騎士に気付くとうっすら生物的な笑みを浮かべた。そうするのが当たり前のように胸の真ん中に黒い凶爪を突き入れようと邪悪な色をした獣腕を伸ばしていく。
ーードッ!
勢いよく飛来してきた錆びた手斧が青山羊悪魔の首筋に刃を立て浅い斬撃を刻むと弾け飛んだ。
青山羊悪魔は眼光をギラリと光らせる。
ゆっくりと飛んできた方向にグゥゥと顔を向け睥睨するが、そこには誰も居なかった。
~***
神流は危険な戦場を離脱し川辺を全力疾走している。
━━やってしまった。投げてしまった。俺に逃げろと言ってくれた騎士が、守ろうとしていた女性が目の前で殺されるのを黙って見て居られなかった。既に死亡していた可能性もあったが体が動いてしまった。焼け石に水的な事をした自分に後悔すらあるけど走れ地平線の彼方まで。
その躍動する足が止まる事は無い。涙も鼻水も涎も拭わず走る事だけに全てを注いでいた。
━━ただの自己満なのは解ってる。いつかあの人達のお墓に拝みに行くから、逃げる事を許して欲しい。生存本能が頭をぶん殴るように警告してきて悪魔と対面や対戦なんて、とても出来なかったんだよ。俺が食べ物を持って帰らないとミホマさんやマホとマウが飢え死にするかも知れない。
「命を賭して走れ成長期よ! 今を頑張らないでいつ頑張るんだ?」
心で懺悔しながら爆走する神流に異変が起きる。
「━━!!」
指環がこれ迄感じた事が無い位、強烈に絞まり千切れそうな痛みを与えた。
「うぎっ!? イテテッ血が止まるっ。何だよ緊急脱出中なのに!」
「━━」
死神に頬を触られた気がした。
親指を押さえながら見開いた瞳に映るのは川面に浮かび立つ青い山羊の悪魔の姿であった。
清涼で濃厚な絶望を含んだ谷間風が神流へと吹き降ろしていく。