悪魔の谷
メインの食材となる獲物の予感に足取り軽く川縁に移動した神流は上着を脱いで肌着のシャツ1枚になった。
「よし、華麗にゲットしてやる」
流れの早い川面に持ってきた柄杓を突っ込むと鮎に似た小さめの魚を追い始めた。
「ハンターから逃げるとは小癪な……そっちかよ」
小魚目掛け力を入れて柄杓の先を持って行くが、あしらうかのように魚影がすり抜けていく。
「…………くっまたかっ!」
しかし、急な川の流れに力を持っていかれ俊敏に動き回る魚の動きに全く付いていけず話にならなかった。30分程格闘するも水や藻以外掬う事が出来ない。
「はぁぁぁっ無理なものは無理ですっ!」
━━自然の驚異、そして野生のアイツ達は金魚とは次元の違う自然の生命体だった……。
自分の甘い考えに落胆した神流はマホやマウを思い出す。何とか魚を食わせて喜ばせてやりたいと熟考し始めた。
「……そうだ! 山刀も使ってみよう。二刀流で柄杓から逃げた瞬間的に山刀を刺す、サッサという感じで……もしかして名案じゃないか」
神流は浅はかな閃きを武器にして決意新たに流れを緩めない川に挑む。意気込んで裸足になり本気バージョンで、冷たい川に入ると、石の苔で滑り川の流れに足を取られ転びそうになる。
何とかバランスをとりつつ柄杓を魚の近くまで寄せると不思議な現象が起きた。
「ーー!?」
さっきと違い何故か魚が静止したように動かない。
━━何故だろう、死んでいるわけでは無さそうだ。何が違うのか解らないが、山刀を使わなくても野生の魚を難なく捕まえる事が出来るぞ。
神流が柄杓を寄せていくと麻痺したように魚が動かなくなる不思議な現象が起きる。梨の時と同じく取りたい放題となり苦労する事なく大漁となった。
━━理解不能の現象が起きるなんて、やはり異世界は違うな。
指環が抗議するかのように微光を点滅させているが興奮する神流が気付く事はまず無い。魚を捕まえる事に夢中で気にも止めていなかった。
~*~*
崖下にまで届く純度の高い陽光が清流のうねりに当たり、何条もの銀線が煌めいては消えていく。
漁を中断し既に川辺に上がった神流は食事休憩の準備を黙々としている。大きめの石を集めて釜戸を造ると、近くに落ちてる枯れ葉や流木を集めジッポのライターで着火した。パチパチと心地良い音で火が燻り燃えだした。神流はジッポのライターを眺める。
「何でコレだけがポケットに入っていたんだろう?」
━━山賊退治にも役に立ったな。……火を眺めてるとアウトドアをしてる気分になる。実際にしているんだけど。
食欲を唆る赤茶色の沢蟹を、丁寧に石に並べて遠火で炙り魚の何匹かに流木を刺して焼き魚にする。
「もう既に匂いが美味しい」
━━魚が焼けてくる匂いにビールが欲しくなる。
今度は柄杓に川の水を汲むと、焼いた沢蟹を何匹か入れて茹で上げる。暫くすると食欲をそそる赤い色に変わっていく。
神流の口の中の唾液が、汲み上げられたかのように沸いてくる。茹で上がった沢蟹を1匹を口に含んでみる。
「━━!」
沢蟹の出す自然の風味が、鼻腔に抜けて食欲を刺激した。噛み締めて舌に乗せると瞬時に味蕾の感覚細胞全てに沢蟹という素材の旨味が拡がっていった。
「アチッ、うん………ウメックス! 意外どころか、かなり超絶イケるぞ。自然の風味が爆発してる。米と醤油が有ったら旨すぎて心臓が止まったかも? ビールやサワーがあれば軽く死んでもいいんだけどな」
空腹の神流には至福の時となった。
━━コンクリートジャングルで味わう事の無かった大自然の恵みを異世界で感じる。何となくややこしいが、綺麗な空気と清流の流れる水の音に癒され腹も満たされると自然にリラックスして落ち着いてくる。音楽が欲しいところだ。
「担げるだけ積んで持ち帰ったらメッチャ喜んでくれると思う。暫くヒーローと呼んでもらうかな」
食事を終えた神流は、殆んど寝ておらず仮眠を取ろうと少し横になり姿勢を変えようとした。
すると指環が明滅を始めゆっくりと絞まり出した。
「へっ何だ?」
指環を摘まんで周囲を見渡し耳を澄ますと遠くから、幽かに大声のようなものが聞こえてくるのに気付いた。
「何だよ寝ようとしてたのに呪いすんなよ。……向こうに誰か居るのか? なんだよ、ミホマさん達以外にも人が居たんじゃん。釣りとかしてて何か大物でも釣り上げたパターンか? 山賊の宴とかだったら、かなり面倒くさいけど……一応見に行くか」
興味が湧いた神流は、火を消して籠を置いて弧を描くように曲がる川の上流に歩き出した。
歩き始めると直ぐにそれが悲鳴や叫び声だと気付いた。
「何か嫌な予感がするな。巨大スズメバチの大群とかだったらヤバイな」
危険を予感したが神流の足は止まらず、先を見渡せる大きい岩の陰まで辿り着いた。興味が湧いても理性はしっかり働いていた。隙間から息を潜めて少しづつ覗きこむと、
「ーー!?」
そこでは苛烈な戦闘が繰り広げられている真っ只中であった。戦っている相手を見た神流の脳は考える前に結論を出していた。
━━あっ駄目過ぎる。無理、終わったかも。
瞳孔が極限まで開く視線の先に存在していたのは死を寄せ集めて具象化した存在。
ーー「悪魔」であった。
瞳に映り込み精神の根源にある恐怖を揺さぶるのは悪魔と呼ばれる存在だ。神流が居た世界で誰もが恐れる恐怖の象徴と言っても過言では無い。
体長は3メートルを超え、生物から隔離されたような肌は青黒く宝石や装飾品で身体中を着飾っている。強烈な黄色い眼光は邪悪を孕み具現化した殺意を漲らせていた。
一見人間のように見えるが首から上は邪悪な山羊そのものであった。
「でっ出会ったら駄目な奴だろ…………」
吐息より小さな声で呟くと神経を剃刀で撫でるような悪寒がサーッと背筋を通り抜けていく。まるで、川の流れる音が危険な死の序曲を緩やかに奏でているようだった。
━━チラッと見えた背中には、デビルな羽と2本の尻尾まで生えてるし脚も山羊じゃないか。……どうか頼む最新のCGであってくれ。こういう意味の悪魔の谷だって普通思わないよ。ストレート過ぎるだろ。
神流は、その異質な異形を見て背筋が凍りついていく感覚に陥っていた。未知の恐怖に胃の内容物が逆流してくる。手で胸を押さえ胃液が喉に競り上がってくるの防いでいた。浅く早くなった呼吸が肺に負担をかけ息苦しくなっていく。
「気持ち悪い、見てるだけでホントに吐きそう」
視線の先では100人近い騎士や兵士達が、青い山羊の悪魔と壮絶な戦闘を繰り広げていた。その最中、マントに極楽鳥の翼が刺繍された1人の屈強な騎士が、空中に跳躍し剣を斜めに構え勇猛に悪魔に斬りかかった。
「レイジソード! 極!」
谷に怒号を響かせた騎士の剣は輝き、青い山羊悪魔の肩に渾身の光る斬撃が入った。空気に轟く震動が迸り紅い輝きの閃光が弾ける。
……が、斬撃を入れた直後に物理法則を無視したかのように剣と共に弾き飛ばされていき崖の壁面に激突しめり込んだ。
悪魔の肩から黒い血の雫が垂れるがすぐに止まっていく。騎士が弾かれると同時に轟音を上げて巨大な炎の柱が何本も伸び上がる。炎の柱を凝縮し巨大な火球を構築した瞬間、鉄の弓を弾いたように撃ち出され次々と青山羊悪魔を火だるまして直撃していく。次々と密集集中する豪火球、その様は危険な溶鉱炉のように空気を赤く染め放った術者さえ火力の危険に曝された。
狂ったように続いた炎の攻撃が落ち着く。青い山羊の悪魔は表面の皮膚を焦がしていたがダメージを受けた様子も無く健在していた。
「うあああああ!!」
隙をついて攻撃した兵士2人が尻尾の一振りで上空に打ち上げられる。空中で身動きの取れない兵士は尻尾の先が腹部に突き刺さると一瞬呻いて物言わぬ死体となった。もう1人の兵士は首を親指と人差し指で捕まれると血が抜かれるように干からびていき骨と皮となり果て息絶える。
━━
「うぶっ」
口を塞ぎ小さく息を漏らした神流は、後ろの首筋がひきつるのを奥歯を噛み堪える。胃袋の胃酸が乱回転し咽まで逆流して来ると酸っぱい臭いが口から鼻に抜けていく。
━━気持ち悪い、こんなの知らないよ。俺はどうすればいいんだ。
人が死ぬ場面、それも無惨に殺される瞬間を目の当たりにしてしまった神流の恐怖と動揺は留まる所を知らない。心臓の鼓動が警告音のように昂り鼓膜を揺らす。
「ーー!」
青山羊悪魔に空中を埋める程の炎や光の矢が豪雨のように降り注いだ。全てが直撃するが瞼すら微動だにせず、効いてる感じもダメージを受けた様子も見受けられない。
倒れていた騎士の1人が動いた。ここぞとばかりに拾い上げた剣を握り締めて立ち上がると雄叫びを上げながら青山羊悪魔に向かい長剣を掲げ走っていく。 ……が青山羊の悪魔が前に掌を翳すと走る途中で倒れ呼吸を止めて身動きをしなくなった。
━━死んっ……。
悪魔は首を傾げて捻ると次の獲物を見つけた。掌をグラスを持つように上に向けた。すると、瘴気で出来た黒いおたまじゃくしのような光が無数に現れて黒い槍のような武器を構成していく。
青山羊の悪魔は獣の目をギョロリと廻し歪んで狭まる瞳孔を合わせたのは、10メートル程離れた場所で5人の密集陣形を作り必死に盾を構える若騎士達だった。邪悪と好奇を孕む面持ちを見せ、指の背で弾くように盾へ向け凶々しい瘴気の槍を投擲した。
黒いおたまじゃくしを纏わる禍々しい瘴気の槍は糸で引かれるように真っ直ぐ鉄の盾を突き抜け、後ろで構える2人の若騎士の鎧までも貫いて抜ける。
「なおっ!? げぼっ!?」
鎧の鳩尾に孔が空いてドロリと大量の血液が零れ出す。勢いの収まらぬ瘴気の槍はUターンし混乱し叫びを上げる他の若騎士達を襲う。
ーーズグッ!
盾を後ろ側から突き抜けた所で瘴気の槍は止まった。
身構えようとした残りの3人の騎士達は動く前に串刺しにされ苦しみに呻き同様にゴボリと血を吐き出す。訪れる死を認識した若き騎士達は家族や愛する人の名や別れを口にする。その苦悶の表情や断末魔に至る様子を細部に渡るまで舐るよう眺め観察する趣向を持つのは瘴気の槍の主だ。
青い山羊の悪魔の愉悦に看取られる若き騎士達は、苦悶の表情を止め人形のように沈黙を傍に死の淵を越えて旅立った。