駆け引きは悪魔の調べ
━━雨に潤された絨毯のような草原が月に映える。
伯爵邸の一室で白い髭を満足そうに撫でる伯爵は、光沢のある金細工の壺を磨いていた。遠くから聴こえる優雅な音楽と華やかな雰囲気の中で、ワインの匂いを嗅ぐとゆっくり空気を含みながら喉に流し込んだ。1階のホールからは、賑わった喧騒が絶え間なく聞こえてくる。
「そろそろ、行こうかのう」
南方のロストクルテゥールから、わざわざ取り寄せた漆塗りの壺を丁寧に磨いていたオーリライト伯爵は、窓の外を遠く眺めた。そろそろパーティに登場しようと透き通るシルクの布を窓辺に置き、濃厚な厚みのある葡萄の淡い光を反射するワインを喉に滑らせ飲み干した。
金彩で施されガラスの青と模様から、高級感が放たれるクリスタルのワイングラスを、優美で繊細な装飾と猫のように曲線を描いた細い脚が特徴の大理石と純金で表面を仕上げられたテーブルににソッと置く。
すると、階段を駆け上がるけたたましい音が聞こえてきた。ノックして入って来たのは、召し抱えている私兵達の参謀長であった。
「また疫病が……今度はオルドネイの村がやられました。更に悪霊に取り憑かれたものが、領内の村々で暴れております」
「何と! まだ治まらないのか? 疫病に悪霊憑き……何故こんなことになったのだ?……」
「範囲が広く、分散して任務に当たっております。全く手が足りませぬ。何処かの村は見捨てる事に…………」
「何とかしよう、近くの諸侯たちに通達と応援要請を出す。引き続き任務に当たるのだ!」
「はっ、了解致しました」
オーリライト伯爵は正装してから、階下で優雅に行われているパーティを直ちに中止し危険が迫っていると包み隠さず事情を説明した。
更に手腕を発揮し直ぐに部隊を追加編成すると各村に派遣した。悪魔に憑かれ暴れる者を兵が確保し浮遊し行き交う使い魔を、魔術士と神官に次々と退治させていった。
それだけに留まらず、私財を惜しみ無く使い村々に医師を手配し疫病感染者と悪魔憑きに負傷させられた患者の治療に当たらせた。放置された農地を維持する為に外からは、一時金で農夫を集め手の回らない田畑の復旧に配置を行った。
しかし、領内のアチコチで起こる疫病と悪魔憑きの騒動に後手に回ってしまい被害が、収まるまでに2ヶ月を費やす事となり崩壊は防げたが元の豊穣豊かな領地には戻ることは叶わなかった。殆んど不眠不休で領地の復旧に努め奔走した伯爵の人相は変わっていた。眼窩は窪み頬が痩けて一回り老けてしまった高齢のオーリライト伯爵の心労は計り知れなかった。
領地の近いルーゲイズ子爵にも避難警告と医師の援助要請が有ったが、自分の領内でも疫病が発生したと偽りの報告書を持たせ使者を追い返していた。
そんな最中、2人にクワトロ永久要塞のエルネスキュンメル城伯から貴族会議への招集通知が届いていた。
ルーゲイズは、いち早くクワトロ永久要塞の別荘に赴き野鳩の悪魔と共にオーリライト伯爵を待ち構える事にした。貴族会議で余計な事を発言しないように、出席する前に殺害しようと企てていた。
しかし、オーリライト伯爵は、クワトロ永久要塞に向かう道中で、心臓発作を起こし帰らぬ人となった。
***** *
ーー私はオーリライト伯爵の葬儀に何食わぬ顔で、参列し故人を悔やむ素振りを見せた。心では横領が明るみに出ず、平穏な暮らしに戻れるとホッと胸を撫でおろした。
ーー穏やかな安寧の生活。そんな物は何処にも存在しなかった。待っていたのは、野鳩の悪魔ハルファスのカン高い請求の言葉だった。
「クルゥゥ!お前の望み通り伯爵は、貴族会議に出る前に失脚させた。最初の約束通り対価には契約したお前の子供を頂こう」
「解った。だが私に子は居ないのだ。少しだけ待ってくれ」
ーーその時は私に子供は居なかった。今日明日中に貧民街で子供を買ってどうにかしようと思慮していた。しかし、その夜に我が妻シトレーヌから、妊娠している事を手紙で知らされた。それから250日後に可愛い双子の赤子が誕生する事になる。
ーー切羽詰まっていた私は、悪魔を呼び出す時には我が子であろうと差し出すつもりだった。いざ生まれてみれば……私も所詮、人の子であった。枯れ果てていた情が己が子達に沸き上がり命に代えても護らねばという想いに駆られた。
ーー私の苦悩の日々が始まりを告げたのだった。貧民街から子供を集め悪魔に渡そうとしたが、一言で断られてしまった。悪魔が要求したのは、あくまでも私の子供の命であった。それからも私は、それを隠し続け回避する為に様々な条件を提示したが、断られ続けた。
ーーある日、悪魔から別邸の地下に神殿を築いて神を降ろす協力をしろと頼まれる。国への背信行為であり考えるまでもなく破滅への入り口であったが、我が子を救いたい一心で言われるがまま地下を掘る奴隷と人夫を集めた。私の財を莫大に使い地下神殿を作り上げる事に成功する。未知の掘削技術と建築技術は、野鳩の悪魔ハルファスからの技術供与であった。
ーー掘った土や石は、無償で要塞の外壁補修や町全体の道路の改修工事に使用し何も知らない民衆から称賛を受けた。そして、悪魔の要求通り裏金で魔術師達を金で雇い地下を覆う結界を張らせると奴は、地下神殿に巨大な像を設置した。私が、ここまでしたのだから、代替え出来るよう契約の対価を軽くしてくれと訴えると
「クルッ半分にしてやる」
ーー此方を見透かすかのような、ぬるりと光る黒目は微動だにせず嘴をカタカタと鳴らし高笑いを繰り返した。それを見た私は、首筋に凍った剣を刺されたような震えが走り、悪い前兆が急激に膨張し現実になっていく鐘の音が聞こえた。
ーー奴は、悪魔の活動を本格的に始めた。夜な夜な人間を拐ってきては、奇怪な儀式を行って邪教徒を少しづつ増やしていった。私は精神を追い詰められうたたねをするだけで、嫌なねあせが背中をびっしょりと濡らす日々を送る事となる。歯止めの聴かないハルファスを咎めれば家族に矛先が向いて子供の事を察知されるかも知れない。私は怖くなり地下に近付かず地上の屋敷で政務に励んだ。
ーー子供の事がバレて狙われたら堪らない私は、密かに悪魔退治の計画を練る為に本邸に戻る事にした。使用人達に準備をさせていると執務室に音もなく野鳩の悪魔が現れた。どうしても見せたい物があると地下神殿に連れて行かれた。
ーー何も無い大広間の地面に転移魔方陣を構築し埋め込んだと言う。嫌な予感がして何処と繋げたか尋ねると北のウォンバルディア平原の領地にある私の本邸の地下にある転移魔方陣と繋いだと聞かされた。魔力の無い私には1人で使用する事が出来ないので、私を送ってくれるのか尋ねると神殿で、見せたいものが有ると嘴を振って話を逸らされた。
━━嫌な焦燥感を覚え頭は付いていくのを拒否していた。足が止まる私に対してハルファスが、怒るように嘴をカタカタ鳴らし続けるので、仕方無く付いて行くと紅く染まる神殿の床が見えてきた。心底怖気づいた私は思い出していた。以前、悪魔召喚に使った魔方陣に酷似したマークが紅い液体で描かれていた。その廻りに邪教徒が座りブツブツと何か呟いている。
「わっ私は忙しいのだ。こんな所で余興を見てる暇は無い」
ーー私は1秒でも早く邪気の気配が漂う陰鬱な悪魔の占有空間から、立ち去りたかった。背中に恐怖を具現化したような粒々の汗が伝いズボンを湿らせる。私は隠し事をしているのがバレないよう毅然として平静を装っていた。
「クルゥゥ少し見ていろ」
ーーハルファスが血で描かれたマークに手を翳し呪文を唱えると不気味な鳥の頭が、浮かび上がってくる。その尋常では無い大きさに取り繕っていた平静の仮面が、剥がれて恐怖の泡が心臓の裏側で蠕動する 。巨大なカラスの悪魔が吸い上げられるように出現した。
「クカカカカ、我を呼ぶ程の混沌が有るのだろうな?」
「クルルル、マルファスよ。とうとうアエーシュマ様の神像を創ったのだ。復活に手を貸してもらうぞ。お前の知識と兵が必要なのだ」
「それは重畳たる話だ。承諾しよう。クカカッ」
ーーマルファスと言われる高位の悪魔が、徐に近くの邪教徒を鷲掴みにした。掴まれた者は反応を示さず呟いている。そのまま貪り喰われる残酷ショーを見せつけられた。
「ううっ……何という事を!」
ーー吐き気を覚えた私は、恐怖の虜となっていた。無限に近い崖下へ落ちるような激しい恐怖が、神経を硬直させた。あまりの恐ろしさに瞼を閉じる事が出来ない。もしかしたらと思うだけで、氷を擦り付けるような震えが全身に荒い脈拍を伝えていく。地下の温度は、生暖かく湿度があるのに悪寒が止まらず震えた歯がガチガチ噛み合って耳に響いた。
ーーそんな様子を知ってか知らずか、野鳩の悪魔ハルファスが、私に顔をグーッと向けた。
「私の顔!!」
ーーそこには私の顔が在った。野鳩の悪魔マルファスが私の顔で嗤う。
「クルルル、似ているだろう。 出来たのだ。人族に長く変身出来る人造魔皮がな。そんな事より本邸に子供を隠しているのは既に解っている。よくも我を欺いてくれたな」
「何故それを!?」
「バカめ、向こうに居る使い魔から情報が入っているのだ」
「まっ待ってくれ、協力を沢山しただろ! 子供なら沢山買ってくる。それで納めてくれ」
「クルルルならん! 契約を破る者には相応の罰を与えるのだ」
ーー私は地下の部屋に軟禁された。
「契約を守らないお前と一族には破滅と死を与えるべきだが、今までの我への協力を考慮してやろう。屋敷は貰うぞ。お前には此処で我に出来ぬ書類の仕事をやって貰う」
「私がそんな事をすると思うのか?」
ーー悪魔は嘴を震わせて嗤った。
「クルルルッ人形が笑わせる。地下の転移魔方陣の先には使い魔が居るのだと言ったのを忘れたか。我が指示を出せば向こうに居るお前の妻と子供など簡単に骨と化すであろう。時が来れば解放もしてやる。…………それでも断ると言うなら、契約通り子供を半分頂こう。2人の身体の半分をお前の目の前でな、クッルルル」
「何という外道だ卑劣にも程がある」
「クルル随分と心地の好い言葉だ。なあマルファスよ」
「言葉など興味ない、絶望が足らぬのだ。 愚かで無力な人形よ歯向かうのであれば、お前の命運は此処までになるであろう。魂液 を抜いて家族も死ぬ。希望と絶望を与えたぞ。これでお前は更に苦しむ事となる。カカッお前が協力しようがしまいが、我等が求めるのは先にある混沌だ。さあ選ぶがよい、苦しんで死ぬか苦しんで生きるかをクカカカカァ」
ーー私の心が粉々に砕け散り膝をついた。私には最初から救われる道は残されていなかった。
━━━***
「…………」
神流は黙って話を聞いていた。ルーゲイズは手を組み吐くように呟いた。
「これが悪魔に加担した私の全ての経緯だ」
「…………」
━━告白した内容に嘘と思える要素が無いな。真偽は調べればすぐ解るが面倒だ。
神流の瞳に同情の色は浮かばない。やり取りの為だけに冷たい口調で答える。
「大方予想通りだ。お前が悪者で原因だと解った。お前の身勝手な行いのせいで、沢山の罪のない人が死んだ。数え切れない子供の親を奪ったんだ!」
ルーゲイズは、頭を押さえ震わせると嗚咽を漏らした。
「わっ解っている。そんな事はずっと解っていたんだ。うううっ」
神流は自業自得で苦しむ愚かな男に続けてトドメのような一言を投げ付ける。
「家族は助けてやるが、お前は殺すと言ったらどうする?」
「……私は此処で死ぬのか? ……それでも家族が助かるならば」
ルーゲイズは、しばし神流を見上げた後に手紙を渡した。
「……こっこれを最期の手紙を家族に渡して欲しい。家族を助けて貰えるなら、此処で人生に終止符を打とう……怨みを晴らすなり殺すなりしてくれ。受け入れよう」
「良いのか?」
神流は音もなくダマスカスルージュを引き抜いた。
それを見てルーゲイズは驚いたが、すぐに諦めた表情に変わり下を向くとそっと首を差し出した。
「いいんだな?」
「家族に……妻と子供達に愛していたと伝えて欲しい……」
「……伝えてやる」
ヴェネチアンマスクから見える神流の冷たい瞳がルーゲイズの首筋に狙いを定め、精霊紅魔鉱剣の刃を躊躇うことなく降り下ろした。




