危難招き易し
空は徐々に林に落とす斜陽の光を弱め、藍色を滲ませていき夕闇が刻一刻と迫っている事を神流に伝えていた。
腕時計を確認し茫然とした表情を見せる。
「もう6時過ぎてるよ。サービス残業になっちゃう。……熱中し過ぎたな食に対する欲望とは恐ろしい」
採れたタンポポとヨモギがカゴの半分を埋めていた。直ぐに終了して帰る事を決めたが。
━━くっ迷ってしまったみたいだ。山小屋から少し離れ過ぎた。大体の位置や道は覚えてきたから、そこにさえ出れれば。
「まぁ危ない所に登らねば熟柿は喰えぬ、と言うからな。落ち着いて……」
「ウオォォーーーーン!」
「ーー!?」
遠くで獣の遠吠えが反響した。神流の警戒心を針で突くように刺激する。
「マズイな……散歩して彷徨いてるかもな」
━━この場合は狼野郎の可能性がかなり高い。……不運に不運が重なってしまいそうなディスティニィ。
「もう行こう」
~~***
依然として神流は彷徨い続けていた。
インクを溶かした海底のように空は闇を広げていた。まるで氷の月が夜空に鎮座してるかのように気温を徐々に下げていく。
「こんなとこ通ったっけ? やべぇ、わかんねぇ寒い! なんで看板も道路標識も無いんだよ。せめて街灯だけでも在って良くね?」
理不尽な文句を口にしながらも、一定間隔で地面に十字の矢印を雑に書きながら帰り道を模索していた。
「スマホのGPSが無いと自分が何処に居るかさえ解んないんだよ。マジで座標大事、来る前からやれば良かった……」
見覚えのある場所を探し懸命に歩き回るが、同じ所をグルグルしている錯覚に囚われ疲労感だけが募っていく。地面に書いた矢印は百を越えていた。疲労感と寒さで意識が朦朧とし始め諦めが
浮かびかける。その時、月明かりに照らされた大岩を見つけた。
「あれは!? やっと見つかった。コイツだよ、この変な大岩覚えてるよ。うおっ9時かよ!? 究極的に時間と労力の無駄だった」
━━もう嫌だ此所、富士の樹海と変わらない。絶対死体とか埋まってるに違いない。
「ーーぐっ!」
突然、親指の指環がきつく締まり出す。
「痛て、指輪め! 調子に乗って呪いやがってマジで捨てるぞ。俺はマゾじゃねぇ。締め付けプレイとか要らねえ。帰る邪魔すんな!」
その指輪に向ける大きな声に反応する者達が現れていた。
「━━!」
視線の10メートル先にある倒れた巨木の脇から現れたのは、涎を垂らして唸り口角から牙のはみ出した2頭の巨大な野獣だった。神流が倒した灰色狼と同種の大きい狼であった。
「はっ? やっぱり居た……」
彷徨い歩いたせいで口の中は渇き、上手く唾液を飲み込むことが出来ない。
━━2対1は反則だろ。こんなに簡単に絶望と終わりってやってくるものなのか?
心は潰れそうにキューっと萎縮し心臓の鼓動は急速に回転率を高めた。しかし、後ろに下がる足取りは音を立てないように慎重に擦るように距離をとっていく。しかし、神流が下がるその分だけ2頭の肉食獣はゆっくりと距離を詰める。
━━パニクるなよ。一匹だけでも、どうにかしないと。
緊張感が背筋を這い回り呼吸も浅くなっていく。灰色狼と対峙した経験が活き手に持つ鉈が理性をしっかりと繋いでいた。恐れはあるが、そのまま食い殺される選択を選ぶ弱気は毛頭無かった。
「はぁはぁ、俺は一応は一匹倒してるからな…………ちゃんとした武器だって持ってるんだぞ。……でもバッチリ怖いな、どうするよ」
山刀を両手で構え鋒を2頭の灰色狼に向けて、ただでは殺られないという闘志を振り絞って見せる。睨み付けながら乱れた呼吸を整えていく。
「気合いだ。間合いとか気迫とか……」
━━
神流の後ろの木の上部にスゥッと影が現れる。
(……アララ、あれじゃエサ確定っすね)
神流は威嚇するように絶叫した。
「来るなら、やってやんぞっ!」
林に響く怒鳴り声に呼応するように2頭の灰色狼は走り出して跳躍すると二対の放物線を描きながら神流に襲い掛かった。
「うおおおおっ!」
神流は心に決めていた通り逃げ出した。
ーー走る、走る、走る。
形振り構わず全力で逃げる。それも虚しく数歩で追い付かれて仕舞い2匹の逞しい狼に飛び掛かられてしまった。
「くらっ!」
振り向き様、手に持った鉈を水平に持ち頭部に迫る鋭い牙を防ぐ。だが、耐える事も出来ずそのまま勢いよく後ろに倒れてしまう。
「いぐっ! ううぅっ!」
灰色狼は噛みついた鉈の鋼に牙を立てガチガチと鳴らして噛み砕こうと獰猛な唸りを上げて牙に更なる力を込める。しかし、山刀の刃は指輪に同調するかのように微弱な燐光を放ち出した。灰色狼の強靭な顎の力に刀身が砕けることなく強度を保っている。
するともう1匹の灰色狼が神流の頭の側にサンッと回り込むと研いだように鋭い牙の生える顎をくぁぁと開いていく。
「そっちは反則だろっ!」
命を食い千切ろうとする絶望の牙に無慈悲な月明かりが冷たく白く反射して神流の横顔を照らした。
━━ヤバっ死んだっ!!
限界まで開いた顎が確実に胃袋に納める獲物の頭上で涎を滴らせる。横顔を喰い千切ろうと張りきった糸が切れたように一気にかぶりついた刹那。
「━━!」
上部から黒塗りの太い木の串が斜めに飛来し神流を襲う灰色の狼達の目に次々と突き刺さった。続けざまに血管の流れる首筋にも突き刺さり傷口から血飛沫を大きく上げた。
「ギャン!」 「ギャイン!」
2頭の灰色狼は、たまらず甲高く吠えると神流を置いて走って逃げ出して行く。放置され倒れたままの神流はむくりと起き上がり周囲を見渡す。
「……えっどうなった?」
━━狼達が居ない!? 悲鳴を上げて逃げてったのは知ってる。助けられたのか?
「だっ誰か? 誰か助けてくれたんですか? あっありがとう御座いますーー。何か、何かお礼をしましょうかーー?」
(………………)
夜の暗がりに声高に問い掛けるが闇からの反応はなく静寂が続く。
「返事は無いか……」
━━誰かが俺を助けてくれたんだよな? 誰なんだ? 本当にマジで感謝、紙一重でリアル遺体になる所だった。
「調子に乗って彷徨き過ぎたな、旅行先でもあるまいし。少しでも行動を間違えたら死ぬって完全に実感したよ」
木の上に居た影は既に姿を消していた。
(アッチが無料で人助けをするなんて…………)
━━
「…………」
周囲を何度も見回した神流は指環を見つめた。
「オイ指輪、もしかしてお前が呪いで何かしたのか? 売らないでやるから何か喋れ。……んな訳ないか。相当頭が疲れてんのかなぁ?」
━━拾った命と時間を無駄にしないで加速して逃げよう。
「はぐれカンナの足は思ってたより遅かった……」
散らばってしまったヨモギやタンポポをザザッと拾い集めて籠に入れ直す。まだ鬱蒼としている闇の中、冷たい月明かりを頼りにしながら小走りで帰途に就いた。
~~~**
「疲れたぁーー疲労困憊HP減少、ミラクル生還。山菜を見せて命掛けで頑張った俺をミホマさん達に優しく労って貰いたい」
ようやく奥の赤い薮の先に山小屋の屋根が見えてきた。よく見ると明かりが灯されていて小屋の前に擦り切れた馬具の装着された馬が2頭繋がれていた。
━━ん?いつの間に何か居る。もしかするとミホマさんの旦那さんが、兵役から帰って来たのかも知れないな。でも2頭って兵の仕事仲間かな。もしかして助けてくれたのって……。
ーードガシャン!!
室内で何かの割れる音が林に響いた。穏便ではない鳴り方に連想された不安と疑念が交差する。
「トラブル発生か? こんなに疲れてるのに嫌な予感センサー発動したぞ。多分、生活音では無いよな。家庭内暴力でも許せないんだが」
━━この世界は想定外が死に直結すると今さっき認識した。根拠の無い楽観視や思慮の浅さを露呈してしまう「想定外」という言葉は嫌いだ。ここでは命を棄てる行為の助長他ならない。
「キャーーーー!」 「止めてよーー!」
━━!
再び背筋に生まれた緊張の波が疲弊に窶れた少年の顔から精悍な大人の顔付きに変化させていく。悲痛な叫びが予感と疑念だったものを真実味を帯びた確信へと変えていた。
━━俺の敵になったのは確定だな。まだ出会って1日経って無いけど俺の中では
「人生最大の命の恩人達だ」
神流は籠を静かに地面に降ろした。山刀の刃先を拭いて装着し直すと山小屋を見つめ静かに駆けて行った。
「ひとまず悪い予感は封印だ。俺がみんなを護って見せるさ」
すごく遠くまで続く黒い氷塊のような夜の闇と同化するように静かに疾走する学生服の影が靡く。そして、どこからともなく流れてくる冷たい夜風が神流の汗を浚っていった。