記憶の欠片
咲き誇る夜桜が城のように巨大な大学病院が醸し出す白い威厳を尚更に誇張していた。附属病棟の中は既に消灯されていて薄暗く非常灯や保安灯だけが廊下を静かに照らしていた。ナースセンターから遠く隔離された暗い病室では、幽かに響く白皙の少年の声が真っ白な天井と佇む闇に木霊していた。
「早く学校に行きたいよ」
「外に出れたら何でも出来るのに」
「もう眠りたくない。眠くなんか無い」
「友達と沢山遊びたいの」
「いつまで此処に居ればいいの?」
「治してくれたら何でもあげるよ」
「苦しいよ寂しいよ」
「……なんで僕だけ此所に居るんだろう」
掠れるような声で返事の無い闇に訴える。白い箱から逃げれない無力な自分に泣き、誰も存在しない虚空に何度も何度も語りかけ続ける。葛藤という言葉すら知らない脆く儚すぎる己という存在を否定する事も肯定することも出来ない不安の日々を与えられた幼い少年。
入学式に出席する事もなく小学1年生になった少年の脚には、複数の針が刺されチューブによって点滴の瓶と鎖のように繋がれていた。身動きを制限される真っ白なベッドの上で血管から送り込まれる薬液の冷たい流れを無言で感じ取る。昨日、脊髄に刺された注射針の痺れに比べれば何て事は無い。
担当医師や看護師に何の病気か尋ねても、いつ治るのか質問しても「頑張れば治るから」と濁されていた。いくら見つめ続けても変わる事の無い天井を毎夜眺めて語りかけた。
手首、手の甲、足首、太股、背中、脊髄、何十ヵ所射たれたか分からない注射針の痕、青く変色し浮き出る血管。自分の体積を越える何百リットルもの低温で冷蔵保存されていた点滴薬が身体の中を流れていった。副作用も甘くなく胃が空になるまで何度も嘔吐した。その胃酸が焼き尽くした喉と食道。
終わりすら見えない治療という苦しみ。作業工程のような決められた治療の日々が不安の波を荒くし息苦しく溺れさせ絶望を繰り返させる。………求めていた……救いを。終わりを強く渇望することで魂の奥でひび割れ崩れゆく心を繋ぎとめようとしていた。
━━
それは胸に微かな幻痛の残滓を感じさせた色褪せぬ記憶の欠片だった。
「昔の話だ」
━━今の俺が無意識に拒否する思い出と言うには苦い記憶達。寧ろ意識的に思い出す事をしないよう努めていたのは、幼年時代の辛く苦しく寂しい雰囲気とベッドで絶望に泣き伏せている弱く小さな少年の姿が写る場面だ。やるせない、ただ何か……記憶に埋もれた大事な何かを思い出せない気はしていた。
*** *** *** *** *** **
時はうつろう
葉月の夜は色づく木の葉の落ちる音もなく夜の闇と静寂に包まれていた。
それは異常な事だ。
生活していれば、風の音、車の音、人の足音、犬の鳴き声、虫の鳴く音、何かしらの音が外部から聞こえてくる。
それが無い状態になっていた。
自分がだらしないとして、その理由を真面目に考える事が有るだろうか、日常という甘い果実に流され怠惰に暮らす。それも1つの人生だ。だが、それすら赦されない者も存在した。
「あぁ、もう3時か。後3時間しか寝れないな」
真っ白な天井クロスに気の抜けきった男の呟きが消えていった。デスクの上には書きかけの請求書などの書類が乱雑に置かれている。運動不足の解消用に買った鉄アレイは諦めたように大人しく綺麗に並んでいる。
━━冷蔵庫にビールを取りに行くのが意外に面倒臭いんだよな。
「数メートル歩くだけなのに遠く感じる俺の心の葛藤と苦悩を表現する術を人類はまだ知らない。うんうん哲学に酔しれたい夜だ」
エアコンの涼風を一身に受け、ベッドに横たわり部屋着でゴロゴロしながら自分に携帯電話の液晶画面を向けている。時折、触れれば切れそうな精悍な表情を見せ黒い瞳に力を入れながら首を傾げたりしていた。空いているもう片方の手には空にしたビールの缶を大事に握り締めてバランスを保とうとする。
この光景が毎夜繰り返される。
「ふぅぅ、ちゃんとしなきゃな。明日から」
男は天井のクロスのうっすらとした模様を眺めた。
━━知らない人が見たら「アルコール中毒でスマホ中毒の方ですか?」と聞かれるかもな。彼女と別れて半年か……人恋しいと言えば人恋しい。たまに夢に出てくる理想的なスタイルの女性が遠くから俺に微笑む雰囲気が好みなんだが、同僚や女優やアイドルでも見た記憶もないんだよなあ。
「妄想の精度が上昇して暴走か? 色々と溜まってきたのか?」
自覚している体たらくの自分へ向けていたスマホを持ちながらだらっと腕を横に垂らして続ける。
「はんっ、運動不足? それがどうした? 俺の人生の使い方は自分で決める! …………てな感じで同僚にバシッと言えたら部長の椅子に座れたかも知れないなハハハ」
日々、究極の不摂生を謳歌する。そんな男が、今度は手入れした自慢の顎髭をネットにもう一度上げようと笑顔の練習を始めた。
この人物の名は天原神流29歳オス♂である。永遠に感じる程長い眠れない病室の夜を、澄んだ心と瞳で天井を見上げて過ごし続けた少年と同一人物であった。
年少の日に病室から切望し続けた自由という翼は時を超えて、くだらないと自覚する時間で損耗し日々を浪費していた。
その時は唐突に訪れた。
…………
━━━━━━突然、照明が消えた。
「━━んっ? ブレーカー落ちたか?」
停電だろうか、人間が闇に恐怖を感じるのは生物としての正しさだろう。
直前に何か得体の知れないものが、身体の中を駆け巡って行った。幽霊など信じていない神流は、気のせいだろうと思うしかなかった。
「うぇ、もう暑くなってきた。いつ復旧するか解らないし電車の始発まで結構あるんだよな。そうだ。時間までエアコン効かして車のシートで寝るか」
汗ばむ神流は出社時間まで車で快適に過ごそうという考えに至る。
持っているスマホのライトを頼りにして、クローゼットを無造作に開いた。神流は、溜め息混じりに雑に置いてあるスーツを脇に抱える。リビングで黒いクラッチバッグと車のキーを無造作に持つと、いつものように玄関のドアノブを握りガチャリと押し開けた。
「━━━━うっ!?」
神流は思わず声を漏らす扉をすぐに閉めた。
身体の芯がビクンと跳ね、声と共に抜けるように漏れ出た息が喉を撫でる。それも仕方の無い話であった。見慣れた朧気に車道を照らす街灯と砂利が敷かれた駐車場の風景が一変し眼前に果てのない暗がりの森が拡がっていたからだ。
━━何かの見間違いだろ。
再度扉をそおっと開くか変わらなかった。
森林が出現したまま玄関を境に草木が行く手を阻むように佇んでいる。このマンションをくり貫いて森に捨て置いたという表現の方が近い。
━━ドッキリなんてレベルでは無かった。当然のように、街灯も俺の車も駐車場も見当たらない。殆んど暗闇に見える。
恐怖に触られたように心臓の鼓動が早まり、何処からか寒気が流れてくる。未知の恐怖という代物に居てもたってもいられないで居た。
混乱していて頭すら付いていかないのに目の前に何かが存在している事に気付いてしまった。
それは何かの扉であった。暗闇に透けて向こう側の風景が見える。今にも消えそうな不気味な扉が、慟哭をあげようと静止している。
「……コ……」 「…………チ……」
透けた両開きの扉の向こうから微か響く何かの声が聴こえてきた。