フェンシング×スポ根×微ファンタジー
黒網のマスクには掛けられた白のグローブがよく映える。傍らのベンチに深く腰掛けペットボトルの最後の一滴を煽った少年は、剣帯の中から一冊のノートと筆記用具を取り出した。表紙には何も書かれていない。少年は右手でグローブをはめてから何かを書き始めた。
「こん。さっき3点目、あれは何ですか。足を警戒していたのが丸分かりだったではないですか。君は相手の呼吸が見えてなさすぎます。第一……」
くろと呼ばれた、いや書かれた少年は左手で強引にノートを閉じた。天井の高い体育館に乾いた音が響く。少年は勢いそのままに立ち上がり、片手で器用にマスクを被った。右往左往していた右手に剣を噛ませてやり、既に銀張りされた舞台に立っている相手を仰ぎ見ると、白い拳で胸の辺りを二度強く叩く。傍目には決闘に臨む誇り高き騎士の仕草にも似ていただろう。内実、それはただの醜い内輪揉めに過ぎないのだが……。
―――遡ること1か月と数日前。場所は五十川いそがわ高校体育館2階、卓球場。
「れ、礼!」
「ありがとうございました」
締まらない挨拶に右手を軽く上げて応え、彼は帰っていった。こんは今後の予定と練習の再開を告げてから、すがるようにその偉大な背中を追いかけた。
「君島先輩」
「ん、紺野。どうした」
君島は体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下を歩いていた。開け放たれた窓から秋の風が吹き込んできて、カッターシャツの袖を揺らす。
「…の前に、閉めるか。夏はいいんだがこれからは地獄だな」
君島はぶるっと身震いして小さく笑うと窓を閉めていった。弱小のフェンシング部には固有の練習場などない。先人たちの政争のおかげで、週に2回は体育館のフロア、3回は卓球場を使えるようになったが、それ以外の日はちょっとしたスペースを探してフットワークなどの練習をするしかない。君島は見晴らしがよく、そばを流れる川から澄んだ風が流れてくるこの渡り廊下がお気に入りだった。
「で?」
「それが、ちょっと聞きたいことがありまして」
「おお、やる気に満ち溢れているねえ新キャプテン。なんでも聞いてくれた給え」
待ってましたと言わんばかりの嬉しそうな様子を、薄焼けた二枚目の顔に浮かべる君島。こんはその様子を見て目を泳がせた。
「その、なんで、俺なんですか?」
すぐに意味を察したのか、途端に君島の顔は険しくなった。
「じゃあ逆に聞くが……」
君島はオンとオフの切り替えが激しい人で、日頃は冗談ばかり言っているが、真剣な時、怒っている時は別人のようになる。特に分かりやすいのがしゃべり方で、いつものからからと回る風車のような笑い声が、地を這うような低く、ゆっくりとしたものになるのだ。そのことを痛いほどよく知っていたこんは、大きく唾を飲み込んだ。
「他に誰がいるんだ?」
「しゃああああああ! ってええ! いやいや俺やろ! 剣弾いたやん? ちゃんと見てた? な! お前らもそう思うやろ!」
間髪を入れずに、卓球場の方から甲高い声が散弾のように届いてきて、君島は拍子抜けを食らったように頭を掻きながら苦笑いした。二人を繋ぐ緊張の糸は幾らか緩んだものの、君島は依然としてゆっくりとした口調で続けた。
「四宮は、うん、悪い奴じゃないことは分かっているんだが、一言で言うと何やらかすかわからん。神田はちょっと天然すぎるし、水澤はヒステリック起こして憤死しかねない。大人しい宇野と森には部長は荷が重すぎるだろう。ほら、もうお前しかいないじゃないか」
「でも……」
「確かにインハイに行ったのは四宮だ。実際、あいつの方がお前より強い。だったら猶更、うじうじしている暇はないんじゃないのか。指を怪我していたって、いくらでも出来ることはあるだろう」
こんが暫く俯いていると、爽やかな風が頬を撫でた。見れば、君島がまた窓を全開にしている。
「はい。淀んだ空気入れ替え。厳しいことばかり言ってしまったみたいだが、俺はお前に期待してるんだ。お前のファント、部内で一番きれいだし。今のうちに足腰鍛えておけば絶対誰にも負けなくなる。てことで帰りはうさぎ跳びで帰ること」
かんらかんらと君島は笑ってこんの左肩を優しく叩くと、「あ、そうだ。頑張るお前に餞別。部室に置いてる道具、全部お前にやるから。自由に使ってくれ」と言って風のように去っていった。こんは不器用な右手で窓を閉めると、小さくため息をついた。立つ鳥後を濁さず。それは偉大なものの証。だが残された者は本当にそれを望んでいるのだろうか。汚れた羽を持つものなら猶更である。
「あ、こん。おかえり。早く審判してくれや。って何してん?」
マスクを脱いだ四宮が振り返った先には、汗だくになったまだ飛べないうさぎが一羽。
「いや、ちょっとな。で、審判?」
「そうそう。やっぱ一年にはまだ審判無理や。俺の点を相手のもんにされたらたまらんで。オタ、部長の名審判を良ーく見とくんやで」
四宮がそういうとオタと呼ばれた赤ら顔の少年は「へーい」と慣れたように答えた。小田切優斗でオタ。四宮が勝手につけた名前だが、実際ゲームオタクなのことが発覚してからはみんなにそう呼ばれるようになった。部員のニックネームは大体が四宮がノリでつけたものである。
「えーと、四対二からやったな。ほなウド、再開しよか」
四宮が頭の上に乗っけていた防具のマスクをスポンと被り、手刀を切るように剣を顔の前で振ると、マスクを被ったまま四宮の数歩前で突っ立っていた男は何も言わずにゆっくり頷いた。宇野茂、ウドと呼ばれる彼は身の丈180はあり、肩幅もしっかりしているのでまさに大木のように見える。四宮との身長差は30㎝。まるで大人と子供である。
「プレ?」
こんが「用意がいいか?」とカタカナ丸出しのフランス語で尋ねると、二人はそれぞれの構えを作った。四宮は前に出した右手を直角90度に折り畳み、さらに腰を低く下す。一方ウドは、腕を四宮より少し前に伸ばしてゆったりと構えた。1秒ほど、沈黙の時が流れる。
「アレ!」
こんの合図で堰が溢れたように四宮は前足の右足を蹴り出した。そのまま流れるように前進する。重心が安定していて淀みがない。まるでネズミのようなすばしっこさに押されて、ウドの後退は少しぎこちなく見えた。
「カンッ」という金属音を立てて初めての剣の接触。こんが腕を伸ばしてウドの右肩を突こうとしたのをウドは寸出の所で受け止める。そこからの展開は早かった。「カッ」という先ほどよりも短い音がしたかと思うと、ブザー音がして四宮が吠えた。光ったランプは緑色。四宮の得点を表す色である。
「ラッサンブレ、サリュ……」
「やはははは、引っかかったなウド! あんな遅いファント、俺が何も考えずに打つわけないやろ」
挨拶もそこそこにマスクを放りなげて、四宮はウドに歩み寄る。顔には子供のような無邪気な笑みが湛えられていた。
「ちょっと! ちゃんとしてよ!」
割って入ったのはこれまた小さいハムスターのような少女、水澤有紀。普段は団子頭だが、マスクが入らなくなるので今は髪を下ろしている。
「へいへい。これでええんでしょ」
四宮が「へい、へい」と二回、ふて腐れた様子で剣を振ると、水澤はその態度が気に食わなかったのかさらに噛みついた。神経質な性格が幸いしてか四宮とは相性最悪で、しょっちゅう衝突を起こしている。端からは小動物どうしの小競り合いのようで微笑ましく見えることもあるが、本人たちにとっては死活問題なのだろう。
「部長、部長。さっきのどういう意味ですか?」
隣で言われた通りに試合を見ていたオタは、こんに尋ねた。
「ああ、多分逆カウンター狙いだったってことだろ。ウドはもう後がない。パレして攻撃権取ったら必死に突き返してくる。それを見越してわざと剣を弾かせて、単純にカウンターに来たところを逆カウンター。あいつ、ああいう駆け引き得意だからな」
「なるほど、やっぱ四宮先輩強いっすね。後でやり方聞いとこ……あ、次俺っす」
四宮はこんの代で一人だけ、先週行われた全国総体に参加している。また、気さくで面倒見もよく、強くて身近な先輩として後輩達からは慕われていた。
「それはいいけど」
「え? なんですか?」
「……いや、なんでもない」
こんは、剣とマスクを取りに行こうとしたオタに「エペのことはウドに聞けよ」と言いかけてやめた。自分が同じ立場だったとして、そんなお節介はして欲しくないはずだ。
「ほれほれ次々! 誰か頼むから俺を休ませてくれや」
五十高のフェンシング部は代々、試合に勝った方がピストに残る、つまり次の試合もすることになっている。四宮は現在5連勝。小さな王者が片田舎のアリーナに君臨していた。
「ラーメン食いに行くヤツー」
練習後の熱気と汗の匂いでむせ返る狭い部室、制服に着替え終わった四宮はそう切り出した。ばらばらと挙がる手。
「あれ? こん来ーへんの?」
「悪い、今日は遠慮しとくわ。金欠だし」
「えーつまらん。ちゃんと金貯めとけやー。ラーメンのためだけに貯めとけやー」
「分かった分かった。じゃあまたな」
こんが笑って手を振ると、四宮たちは夕方の闇の中に消えて行った。最近は日が暮れるのが早く、グラウンドの照明が届かないところは真っ暗になるのだ。
一人になったこんは、ちらかった部室に1冊のノートを広げて日記を書き出した。これは君島が広めた習慣で、こんは一年前から欠かさず練習の記録をつけている。練習のメニューから試合の結果、感想や反省点などを雑多に書き付けるのだ。
今日のこなしたメニューを、慣れない左手でやっと書き終えたこんの筆ははたと止まった。ぱらぱらと前のページに遡ってどんなことが書いてあったのかを見かえしてみる。フットワークの練習が嫌になったこと、四宮と練習中に喧嘩したこと、初めて君島に勝ったこと。喜怒哀楽の違いはあれど、刻まれた字は躍っていた。熱があった。こんはだんだんと、自分の日記が自分のものではないような気がしてきて、パタンと閉じた。こんなにもノートが重く、冷たいものに感じるのは、指を怪我しているせいなのか、試合ができないからなのか、それとも君島がいないからなのか。
こんは思い出したように部屋の隅に立てかけられていた赤い兼帯に手を掛けた。ファスナーをゆっくりと開くと、中にはフルーレ剣が3本とサーブル剣2本、そして右利き用の白い手袋が入っている。フルーレ剣を一本取り出してガードの裏側をめくってみると、荘厳な書式で書かれた「全国総体」という文字とかわいい鳥のマスコットキャラクターが入ったシールが一枚貼られていた。それは熱い夏を戦ったものの証。こんは怪我をしていない右手にグローブを嵌め、剣を握らせて見た。部室の薄汚れた蛍光灯に剣をかざして、手首でくるくると時計の方向に回してみる。剣先は、この手袋の主のような美しい軌道を描く訳もなく、ぎこなちない……ものであったのがどういう訳か夏の夜空の星座を指さすように複雑な動きを始めた。
「ん、ん、ん? っておおおおお!?」
頭を空っぽにして天井を見つめていたこんも流石に異常に気づく。今度は暴雨を凌ぐワイパーのように激しい動きを始めた自分の右手に半ば狂乱の状態に陥ったこんは、折れた左手で右手を何度も叩く。それでも止まらない右手を捕まえて、こんは無理やり剣を取り上げた。親と逸れた小鹿のように空をさまよう白手袋。こんはとどめに手袋をひっぺ返し、部室の壁に叩きつけた。何事もなかったかと嘯くかのように、だらりと脱力する右手。
「えーと、こん君。お疲れさま」
はっとして振り返るとドアの前に立っていたのは同級生の森薫。こんはふっと流れ込んで来た夜風で、額に滲んだ脂汗が急激に冷えていくのを感じていた。
「あ、ああ。お疲れ。遅かったね」
「うん、ちょっとやることがあったから」
なぜか昔から男子部室のカギはダイアルロック、二階の女子部室のカギは南京錠になっていて、女子部室で最後の人はカギを男子部室の入口に置くことになっている。
「じゃあまたね」
「あ、ちょっと待って」
帰ろうとする森を、こんは必死にひきとめた。
「どうしたの?」
「えーと、そうそう。これ、君島先輩からもらったんだ。サーブル剣は四宮と森さんで使いなよ」
「ほんと? でもこん君もサーブルすればいいのに」
「俺はいいよ。四宮に勝てる気しないし」
こんが引きつったように笑うと、森も同じように笑って応えた。数秒、沈黙が流れる。
「じゃあまた明日ね」
「うん、また」
部室の重々しいドアが閉まりかけたとこで止まり、少ししてから細くて白い顔がひょこりと覗かせた。
「こん君。部長大変だったら言ってね。出来ることはみんなで協力するから……」
こんが返事をする前に、ドアは丁寧にぱたりと閉じられた。
また一人部室に残されたこんは、冷えた汗をハンドタオルで拭ってから、水稲に残っていたお茶を煽った。森が言っていたように、部長になってからというものの物憂げなことがあまりにも多すぎて少し参っていたのかもしれない。落ち着け。こんは一度深呼吸してから、壁に叩きつけられたまま丸まっていた手袋をもう一度ゆっくりと嵌めた。
右手の感覚がすうっと遠のいていくのが分かる。指の先から始まって、だんだんと右肩のあたりまで。それは金縛りにあった時に、意志に反して存在している四肢のようだった。自分のものでなくなった右手は、胸に向かってゆっくりと大きく指を広げた。それは敵意がないことを表すサインであろうか。今度はこんも狼狽えることなく、ただただ自分の前で繰り広げられている奇々怪々な現象をまじまじと見つめていた。
じばらくするとこんの右手は、親指、人差し指、中指をくっ付けて小刻みに揺れる動作を始めた。それが何か筆記用具を求める仕草であると気づいたこんは、エナメルバックから適当に数学のノートとシャープペンシルを取り出して、右手に渡してみた。罫線が引かれたページに、角ばった文字が丁寧に刻まれていく。
「先ほどは申し訳ない。久しぶりに剣を握って気持ちが高ぶってしまったものですから。ところで、あなたはどなたなのでしょうか?」
こんは手袋を一度外してから、その下に汚い文字で書きつけた。
「紺野貴志、高校2年生です」
もう一度手袋を嵌める。少ししてから手袋はまた動きだした。
「あの、お願いなのですが、手袋を外す時は何か合図を戴けませんか。こちらとしては眠りにおちる感覚なので、急に外されると失神したように気分が悪い。あと、あなたは普通に喋っていただいても結構ですよ」
こんは窓から顔を出して辺りに誰もいないことを確認すると、窓を閉めてからぶつぶつとなるたけ小さな声でしゃべりはじめた。
「さっきはすみませんでした。で、あなたは?」
「分かりません」
長文を覚悟していたこんは、すぐに返ってきた返事に肩透かしを食らって何も言葉が出ない。それでは、と手袋はさらさらと続きを綴った。
「分からないのです。今、あなたが見ている物、聞いている音。私は、あなたを通して世界を見ています。でも体は動かない。私の精神は、あなたに勝手に運ばれていく。ちょうど金縛りにあって、意識ははっきりしているのにそれに体がついていかない、そんな感じでしょうか」
理解できるはずもない。ただただこんは、黙って字を追っていた。
「でも、右手は動く。どうしてでしょうね。それに先ほど剣を握った時、私は得もしれぬ高揚と懐かしさを感じました。もしかしたら、もう一度剣を握れば何か思い出せるかもしれません。そうだ、せっかくだから何か突かせて戴けませんか」
こんは辺りを見回して、ハンガーにかけてあった黒いプロテクターに目をつけた。これはレッスン、つまり型の稽古をする時に先生の側がつけるビブスのようなもので、力いっぱい突いても大丈夫なほどの弾力性がある。ちょうど良い高さになるように、下に段ボールなどを置いて、その上に壁により掛かるようにプロテクターを配置する。こんはその正面に立って、不格好な構えを作った。
まず一回、手袋はゆっくりと手を伸ばして左肩のあたりを突いた。美しい曲線を描いたまま静止した剣身は蛍光灯の光を照り返して、銀の輝きを見せる。しばらくして元のポジションに戻った右手は、物凄いスピードで突きを繰り返し始めた。寸分の狂いもなく同じ場所を突くため、プロテクターにちょうど剣先の形をした溝ができた。
5分ほどしても飽きずに続ける手袋に、さすがにもういいだろうと思ったこんは、一歩後ろに下がって剣が届かない距離にたった。もうご褒美の時間がおしまいだということを悟った右手は急に大人しくなる。こんはプロテクターを片付けてから、もう一度ノートの前にストンと座った。
「ありがとうございます。私は今、猛烈に幸せです。でも、わがままを許してくれるならばもう一つ。どうしても剣と剣が奏でる音色を聞きたい。私の魂は血が躍る戦いを欲している。お願いです。試合をさせてくれませんか」
「でも……」
罫線を無視して右肩上がりに刻まれた文字を見て、こんは躊躇った。
「何か問題でも? あなたは剣を持っている。フェンシングを嗜む方なんでしょう?」
「俺……左利きなんです」
「そう、ですか」
急に小さくなる文字。
「あなたにはあなたの戦いがある。人の剣に生きる道を奪ってまで自分の望みを叶えることは騎士道に背くことでしょう。ありがとう、私は今日楽しかった」
字は体を表すとはよく言ったものだ。今にも泣き入りそうな声が聞こえた気がして、こんは思わず口からこぼれた。
「でも、今なら……」
「え?」
「今、僕左手を怪我しているんです。まだ剣を持つことができるようになるまではしばらくかかる。それまでの間なら……」
数秒間固まる右手。刹那、大きなフォントで書き殴られる文字。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう。君に出会えたことは、闇を彷徨う魂に神が授け給うた祝福です」
「でもさっきみたいに、構えからしてぎこちないですよ。右と左じゃ全然ちがうし」
こんは鼻を掻きながら苦笑いした。
「そんなことはささいなことです。剣を握ってピストに立てる。それだけで、それだけでいいんです。あなたもそうでしょう? そうだ。これからパートナーになるあなたのこと、なんとお呼び、いやお書きすればよいですか?」
「うーん、みんなに呼ばれているように、こん、で」
「では、私のことは、そうですね、白い手袋なのでシロとかどうでしょう。これから宜しくお願いしますね、こん君」
こうして、手袋は投げられた。