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無名画家の絵 

作者: 聖 さくま

  

 岩本和夫は、ふとした気まぐれから、百貨店のイベント会場で開いている絵画展をひやかしてみる気になった。

 絵画なぞにはまったく興味はなかったが、このまま帰ったところですることもない。

 それに――。

 和夫はごそごそとズボンのポケットをさぐった。

 手にふれる紙片の感触は、たしかに先ほど街頭でもらった無料チケットのものだ。

 無料ならば、日ごろ縁のない芸術に触れてみるのも悪くはあるまい。どうせ時間を持て余している身だ。とはいえ、美術展など和夫にとっては敷居が高く、ためらう気持ちがなくもない。

 さて、どうしたものか――。

 銀縁の眼鏡をかけなおす。考えるときの和夫のクセだ。

 結局、しばらくの逡巡のあと、和夫は意を決してスクランブルをわたり、かどにそびえる百貨店に足を踏み入れると、正面のエレベーターに乗って最上階のボタンを押した。




 和夫はその日、見合いの帰りだった。

 年が明ければもう51才、これまでまともに女性と付き合った経験がほとんどないまま、この年齢になってしまった。

 老いた母のすすめで、数年前に結婚相談所に登録したが、紹介の話はあるものの、相手に気に入ってもらえたためしはほとんどなかった。

 自分のどこが女性の気に入らないのだろう、断られるたびにいつもそう考える。そこそこの大学を卒業し、中堅商社に勤め、収入も人並みにある。ずんぐりとした背の低い容姿は、けっして見目良いとはいえないだろうが、嫌悪されるほどでもないと自分では思う。昔からとくに個性の強いタイプでもないし、良くも悪くも変わった趣味はない。つまり、ごくごく平凡な普通の男だ。

 なのに、なぜ――。

 相談所の担当者に幾度となく訊ねてみもした。

 だが、彼らの答えは決まっている。


 ――性格の不一致でしょう。


 不一致と言われてしまえばどうしようもない。最初の人も不一致、2番目も3番目も4番目も、みんな不一致だ。いったい、いつになったら一致する人がでてくるのだろう。世の夫婦とはみな、性格が合う者ばかりがいっしょになったといえるのか。

 はたして、自分に一致する人などこの世にいるのだろうか。


 そういえば――。

 和夫はふと、4年ほど前に紹介された女性のことを思い出した。川辺(かわべ)知子(ともこ)というその女性とは、その後も数度か逢ったことがあった。物静かなひとで口数が少なく、会話が続かずに少々苦労したが、その穏やかな性格にはなかなか好感がもてた。今にして思えば、彼女ならばよい伴侶になったかもしれなかった、だが。

 その話をことわったのは、和夫のほうだった。

 川辺知子は不美人ではなかったが、大柄でとても太っていた。少しの距離を歩くのにも息を切らし、二人で出かけたときなども、わずかな町歩きでいちいち休みたがった。暑くもないのにいつも汗をかいていて、すぐに貧血を起こす。それをとなりで見ている和夫も、つられて気分が悪くなった。

 ――痩せなくちゃ――とたびたび口にしていたが、そのわりには真剣に悩んでいる様子もなく、食事は3人前、ひどいときは5人前くらいまで食べてしまうこともあった。無論、それが悪いとは言わない。美味しく食べられるのは良いことだ、良いことだが、体のことを考えれば、太り過ぎは不健康だ。やむにやまれぬ事情で太ってしまうひともいるだろうが、知子の場合、努力不足であろうと和夫には感じられた。

 なにも太っている人がいやだ、というわけではない。しかし、ともに長い人生を過ごすのなら、お互い健康でいるためにも、ある程度は足並みがそろえられる人がいい。

 知子は性格は申し分ないのだが、この先、旅行やウォーキングをいっしょに楽しむことはできそうになかった。


 いい人でもあり、さんざん迷った末の判断だった。あの時は和夫も今より若く、もっと合う人がいるだろうと軽く考えていたのだが、その結果がいまのありさまだ。

今日会った女性とも、あまり良い雰囲気にはならなかった。おそらくいまごろは相談所に断りの連絡を入れているにちがいない。毎回こんなことばかりだ。次に紹介されるひとも、その次もまた同じことの繰り返し。そしてこの先もずっと、まるで無限ループのようにこんなことが続いていくのだろう。

 きっと本当に合う人など、どこにもいはしないのだ。

 和夫は疲れ果て、結婚を半ばあきらめかけていた。



 エレベーターは和夫のほかには誰も乗っていなかった。

 ドア上の、階をしめす表示灯がゆっくりと右方向へ移動していく。最後の9階のところまでいくと、チンと音が鳴り、エレベーターは静かに制止した。

 ゆっくりと開いたドアの先は、グレーの冷たそうな床がのびていて、突き当りに古臭い装飾のドアが観音開きに開いていた。

 ドア横の壁にポスターが貼ってある。『知られざる名画の世界』と銘打った、人物画のポスターだ。そのわきには受付の小さな机があり、そこに年老いた男がひとり座っていた。ざっとみたところ、見学者はほとんどおらず、暇をもてあましていたのだろう、男は和夫を見ると、ぱっと愛想のいい笑顔を浮かべた。

「いらっしゃいませ、どうぞこちらへ」

 老紳士がたちあがり、和夫をいざなうが、その上品な身のこなしになんとなく気おくれして、和夫はすぐに自分の出来心を後悔した。

 とんだ場違いなところに来てしまった、引き返せるならそうしたい。だが、いまさらやめますとも言いにくかった。

 気が進まないまま、ふたたび眼鏡をかけなおすと、和夫は重い足を受付へとむけた。


「いらっしゃいませ。チケットはお持ちですか」

言われて、老人の手におずおずとポケットからだしたチケットをわたす。街頭で配布していた無料のチケットなんぞで大丈夫だろうかと訝しんでいると、老人はしげしげとその紙片を確認し、半券を破いてパンフレットとともに「ごゆっくりどうぞ」と和夫に返した。


 入り口のところから、矢印でルートをしめす立札がある。その立札のとおりに歩きはじめると、ほの暗い入り口から見える内部は、黄色味をおびたやわらかな照明につつまれていた。

 和夫はその光に誘い込まれるように、展示室のなかへと進んでいった。


 最初の絵は、入ってすぐ右にあった。50センチ幅ほどの四角のなかに、いくつかの果物が描かれている。下のプレートに、――静物画、ネフ――と書かれてある。

 和夫の聞いたことのない作者名だった。マイナーな画家なのだろうか、あるいは和夫が無知なだけかもしれない。もらったパンフレットをみると、ネフは、近世ヨーロッパの画家と書いてあるだけで、詳しいことはよくわからなかった。『知られざる名画の世界』というテーマなのだから、ネフに限らずあまり有名な画家の絵は展示していないのだろう。

 いずれにしろ、素人の和夫には、無名の画家であろうとピカソやゴッホなどの有名画家であろうと、その良し悪しなどわからない。

 それでも、目に映るネフの描いた暗い色彩のリンゴやバナナは、白っぽいテーブルの上にひっそりとどこからかの光を受けて鈍い輝きを放っている。

 和夫はそれを、美しいと思った。



 パーテーションの仕切りをこえて隣のブースにはいると、先ほどとはまったく異なった雰囲気になった。立ち止まって見渡すと、そのブースの展示されている絵の色合いがどれも暗い。あまりの暗さに空間全体がのしかかってくる錯覚をするほどだ。

 和夫はその重苦しさに思わず足を止め、軽く深呼吸した。汗の浮いた額を手で拭う。気分が悪くなりそうだった。

 ここではゆっくり見ることはせず、歩きながら通り過ぎざまに見るにとどめた。


 それからいくつかのブースを見学した。どれもネフと同様の無名画家の作品で、風景がもあれば、静物、人物など、さまざまな絵が展示されている。それらを見ているうちに和夫は、いつしか絵の世界にひきこまれていて、そのひとつひとつを念入りに眺めることに快感をおぼえていた。

 そうしてたどり着いた最後のブースには、やや大きめの絵が一枚だけ展示してあった。先にいた一人の男性が、絵の正面に立ち、じっと見入っている。その男性の肩越しから、暗色の背景に浮かぶ、ブロンドの巻き毛がわずかにのぞいていた。

 彼の後ろからでもところどころ見えないことはないが、やはり見にくい。できれば誰もいない状態で見学したい。ここにはほかに客もいないのだから、一人くらい待ったところで大した時間ではないだろう。

 和夫はあたりを見渡して、自分たちのほかに人影のないのをたしかめると、絵の手前の展示台で足を止めた。先の見学者が退くまでの間、展示物に目をおとして待つことにした。

 台には、関連作品の説明や、作者の生い立ちなどが書かれた書物などが置いてあった。他と違って、敢えて展示台をしつらえるあたり、たぶんこの絵がこの絵画展の目玉作品なのだろう。そういえば、チケットにもこの絵が印刷されていたことを、ふと思い出す。

 アングワース――というのが作者の名前らしい。19世紀後半のオランダの画家らしいが、残した作品は少ないようだ。そのわずかな作品の中の代表作は「邂逅」と呼ばれているもので、まさに今、和夫の目の前にある絵がそれだった。

『この無名の絵は、ある資産家の館に長年保管されていたものだが、1990年に資産家が亡くなったのち、無数の骨董品とともに数十年の間、倉庫に埋もれていた。あるとき遺族が倉庫整理をかね、古美術商に依頼して競売に出品したところ、それがコレクターであるスミス氏の目に止まって現在に至る。

タイトルの「邂逅」は、アングワース自身がつけたものではなく、資産家が保管していた時代にいつからかそう呼ばれるようになったようだ。その由来は、ある不可解な出来事に起因している。それは――』

 読んでいくうちにその解説が気になり、夢中になってその先を読もうとすると、

 ――コトリ。

 小さな音が耳に入り、我に返った。なんだろうと顔を上げて辺りをみると、数歩先に黒い手帳が落ちている。それは、ちょうど先の見学者が立っていた位置だった。

 彼が去り際に落としたのだろうか。すぐさまあたりを見まわしたが、男性のすがたはどこにも見あたらない。人影が動く気配などはなかったが、ずいぶんと早足なことだ。気づかぬうちに、それほどまでに展示資料に没頭してしまっていたのだろう、と和夫は日頃の自分にはおよそ似つかわしくない行動に苦笑しつつ、手帳をひろいあげた。

 念のため、表紙をぱらりとめくってみると、その裏には写真がはさまっていた。男の人の顔写真である。ずいぶんと古いもので、白黒写真の四隅はだいぶ傷んですりきれ、ぼろぼろになっていた。

 先の見学者は後ろ姿しか見ていないが、この古さからして彼の写真ではないだろう。持ち主の祖父か、曾祖父あたりの年代か。

 まあいい。これは帰りに受付にあずければいいだろう。和夫は手帳を胸のポケットにしまい、気を取り直して顔を上げた。

 ようやく無人となった絵が、目の前にあった。

 これが『邂逅』か――。

 先の男性見学者は、ずいぶんと長い間、この絵に見入っていた。よほど素晴らしい作品なのだろう。

おや、よく見ると、先ほどは気づかなかった背景に、灰色の何かが多数うごめいている様子が描かれている。どうやら人間のようだった。一人一人はかなり小さく、識別しにくいが、悶絶している人や、許しを乞うかのように手を伸ばしたり、あるいは泣いている人などがかろうじて見て取れる。それは正面に立つ女性のやわらかな表情とはあまりに不釣り合いで、何とも不思議な構図だ。

 遠目で見るのと近くで見るのとでは、ずいぶんと印象が違うものなのだな、と和夫はあらためて感心した。


 それにしても、絵の中の女性のなんと美しいことだろう。いや、ただ美しいだけではない。その整った小ぶりな顔立ちは、いわゆる美人というのとは違う、もっと神秘的で慈愛に満ちた、おだやかな光をたたえたまなざしで、女性は和夫に微笑みかける。

 ふと和夫の脳裏に川辺知子の顔が思い浮かんだ。

 彼女が痩せたらこんな感じになるだろうか、いや、似ているようであり、まったく似ていない気もする。むしろ今日見合いをした女性のほうが似ているか、いや、もっと前にあったひとか、あるいは……。

 和夫の脳内に、あらゆる女性の顔が次から次へと浮かんでは消える。いつしか和夫は、瞬きも忘れるほどに食い入るようにその絵に見入っていた。


 まろかやな曲線で描かれた絵の女性は、その肩も腰もみずみずしい少女のようでもあり、また気品に満ちている反面、どこかなまめかしい。

 まさに完璧な女性だ、と和夫は思った。

 ああ、こんな女性が現実にいたなら……。

 和夫は、そんな夢のような願望を胸に描きながら、恍惚とした表情でその絵を見上げていた。

 無機質な平面の中で女性は、どこまでもやさしくやわらかく、慈愛の笑みを和夫に向け続ける。そのまろい指先は、まるで和夫をいざなうかのようにこちらに差し伸べられている。


 和夫は絵の女性に魅入られたように、自らの手を絵のほうへと伸ばして、いつまでもいつまでも立ち尽くしていた。

 そう、先ほど和夫の前に絵を見ていた、あの男性のように。




 百貨店の閉店時間が近づいたころ、最上階の絵画展会場では、老紳士が片づけをしていた。あちらこちらに貼られたポスターをはがし、受付のデスクとイスをたたむ。

 その日が絵画展の最終日だった。展示してある絵は、じきに運搬業者が取りに来ることになっている。

古びた観音開きの扉を閉め、これで片付けはすべて終わったように見えたが、ふと老紳士は何かを思い出し、首をふりながら場内にもどっていった。


「おっと、これを忘れるところだった」

 老人は一人ごちて、大きな絵の前に落ちていた黒い手帳を拾い上げると、さっさと上着の内ポケットにしまい、目の前の絵を見上げてにたりと笑う。

 その見上げた先の額のなかで、輝くばかりに美しい女性が至福の笑みをなげかけていた。

「ジョゼフィーヌ、今日もきれいだね」

 老人はそう声をかけた直後、ふと何かに気づき、そのしわだらけの顔をぐいと絵に顔を近づけた。

その暗い背景のなかに、何かがきらりと光っていた。

それは、顔を苦悶にゆがませた一人の男の、銀縁の眼鏡だった。


「ほう……」

 薄い肩をすくめてくつくつと笑うと、老人は何事もなかったように、絵に背を向けてその場を後にした。



 終


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