ハンナVSヒデキ
「ふひひひひひ! どこを見ているんだい? ヒデキ様はそんな所にはいないよぉ~」
「無駄無駄無駄。人間如きがどれだけ気配を探っても、見つかりっこないよ」
魔族ヒデキの声が響く。それはどれだけ走っても同じ音で響いてくる。
まるで音が追いかけてくるように。何処まで逃げても魔族が見ていることを示すように。
『あかんで、テオぼん。完全に追尾されてるわ。ワシの足では逃げれそうもない』
『アイン』の思念が、テオに告げる。この声から逃げることはできない、と。
今テオと『アイン』は魔族の掌の上だった。魔族がその気になればいつでも襲撃をかけることができる。それはいつだろうか? 一秒後? 五秒後? 十秒後? 魔族の嗜虐心が満ちれば?
いつ襲い掛かってくるかわからない恐怖。それだけで精神は削られる。必死に足を動かしても、後ろから追いかけてくる破滅。捕まればどうなるかわからない恐怖。
見えないという事は、逃げることができたかどうかわからないという事だ。必死に走って声が聞こえなくなっても、まだ追ってきているのかもしれない。こちらを安心させて、その隙に襲い掛かってくるかもしれない。その恐怖から逃れたという確信を、得ることができないのだ。
『安心せえ、テオぼん。ユニコーンの足は健脚や。たとえこの大陸の端から端まで走れ、言われても走ったる。大陸横断レースなんざ、前の世界では三度経験しとるさかいな! 根性根性ど根性や!』
テオを励ます『アイン』の声。それはテオの心に直接響く。『アイン』が本当に大陸を駆け抜けることができるかは分からない。だが、その言葉にはそれを信用させるだけの自身があった。それに応えるように、テオは『アイン』の首筋をそっと撫でる。
「騎士レーナルト! 聞こえたら返事をして!」
テオは声の限りにハンナを呼ぶ。同時に五感を駆使して、人間の姿を探した。雨の中、視界も悪く雨音以外の音は入ってこない。それでも探す。神に祈りながら、必死に。
『ああ、そういえば仲間とはぐれたみたいだねぇ。ふひ! だったらこのヒデキ様が探してあげるね。ボロボロにして君の元に差し出してあげるよ!』
「何ですって!?」
『場所は…………ここかぁ? それともこっちかなぁ?』
聞こえてくる魔族の声。水の領から考えて、そう遠くには流されていないはず。方角と、距離さえわかればユニコーンの足ですぐに見つけることができるはず。
方角と、距離。それが分かれば。
『ふひ! 英雄レベルの槍使いでも、未来予知能力でも、今部下がどこに居るかはわからないみたいだねぇ。仲間をいたぶられて悔しがる顔が目に写るよ!
ああ、悪堕ちさせて君達を襲わせてもいいかぁ? 楽しみだなぁ』
「彼女に何をするつもりですか!?」
『何って、そりゃナニだよ。ふひひひひ!』
そして声は消える。ハンナの場所に転移したのだろう。
手綱を強く握り、テオは唇を噛む。声を張り上げ、ハンナを探し出した。
※ ※ ※
通信魔法を通じて、ハンナはテオの状況を聞いていた。声だけの状況だが、魔族と交信していたのはわかる。
そしてその魔族がこちらを探していることを。
逃げなきゃ、と思いながらも体は動いてくれない。満足に呼吸ができない状態では立ち上がるのがやっとだ。仮に動けたとしても、一瞬で移動してくる転移術師相手にどうやって逃げられようか?
「みぃつけたぁ」
声と同時に目の前に現れる魔族。ふとましい体、にやついた顔。自分をいたぶろうとすることを隠そうともしない下卑な存在。
魔族は人類の敵。魔族に捕まれば、どうなるかはわからない。殺されて魔族の手駒になったという例も聞く。それはまだましな方だ。消息が分かるだけ。
「ふひ! これであの騎士の動きを封じることができる。散々このヒデキ様を馬鹿にしたんだ。たっぷり楽しませてもらわないと、割に合わないからね」
「イリーネに……げほっ! 手を出させませ、うぐ……!」
「ふひひ。あまりしゃべらない方がいいよ。この世界の人間には、この空気はきついらしいからね。
キミみたいな非処女が死んでも正直どうでもいいんだけど、あの女騎士が来るまでは生きていてくれないと困るんだよ」
「……っ!」
「あれ? 怒った? ふひひ、ごめんねー。でも事実だもんねー。ステータス確認したし。処女じゃない女なんか価値無いから死んでもいいよね」
ハンナに突き刺さる魔族の言葉。下卑な男の思惑と同時に、ユニコーンに乗れない自分が足を引っ張っているという事実。
自分に価値はない。
魔法を使うこともできず、槍を振るうこともできず、ユニコーンに乗ることもできない。魔族に対抗する術はなく、ただこうしてうずくまる事しかできない。
このまま死ぬ。散々利用された挙句、モノのように破棄される。人としての尊厳を失い、皆の足を引っ張り、人知れず消えていく。
「イリーネは……来ません」
「ん?」
「こんな役立たずの私を助けに……イリーネが来るはずがありません……。
私に価値はないんでしょう? 価値のない私を助けに、イリーネが来るわけがありません……」
息絶え絶えに、ハンナはヒデキの目を見て言う。喋るたびに毒霧を吸い込んで体を痛め、自分自身の言葉自体に心を痛め。
それでも、このままうずくまって屈するのだけは御免だった。
このまま魔族に捕らわれて、圧倒的な力でいいようにされるのだとしても。
恐怖にだけは屈しない。最後まで抗ってみせる。その心で、ヒデキを睨んでいた。
ハンナの心を支えているのは、二つの思い出。
一つは圧倒的な力で貴族に弄ばれていた自分を助けてくれたイリーネの姿。
もう一つは、大雨という自然の牙の中で弱々しいながらも自分にできることを一生懸命やり、自分を守ってくれたテオフィルの姿。
たとえこの後魔族の手に落ちたとしても、あの姉弟に胸を張れるように。
「残念でしたね……魔族……あなたは、無駄骨を折った……だけ……」
立つこともできず、出来るのはただヒデキを見るだけ。
今にも手折れそうなハンナの姿に、魔族ヒデキは確かに気圧されていた。




