孤独のハンナ
「ねえ………たしか……たりに居た……!」
「……を教えなさい!」
通信魔法の『部屋』から聞こえる声。それがハンナを現実に戻した。
聞こえてくるのは同僚のシャーロットとノエミの声。
「こちら『テオフィル』……」
「よかった! 無事なの!?」
「ええ、なんとか……」
返答をしながら、混乱している記憶を整理する。
自分に何が起きたのか。
今どういう状況なのか。
あの時、魔族の反応を察知すると同時に響いた轟音。それと共に遠くで形成される土の山。それを見て、迂回しようとしたのだが……。
(ああ、そうか。洪水みたいな水に流されたんですわ)
雨を防ぐための防水のフードを被っていたのだが、そんなものはお構いなしとばかりの水の領に体が冷えていた。動くたびにジメジメした服がまとわりつく。
気を失っていたのは数秒程度だろうか。通信魔法の『部屋』を維持できたという事は、それほど長い間気を失っていたわけではなさそうだ。立ち上がり、怪我の具合を確認する。幸運なことに、体に支障はない――
(……え? なんで私は地面に倒れてたの?)
ついさっきまで、馬に乗っていたはずなのに。
慌てて振り向けば、遠くで倒れている『テオフィル』を見つけた。毒に汚染された水を飲み、流されながら地面に叩きつけられたのだろう。息がないのは明白だった。
拙い。ハンナは足を奪われたことを皆に報告しようと口を開き、
「けほっ」
澱んだ空気を吸い込んで、息を乱す。魔族の毒霧。まともに吸い込めば、魔族以外の生物は衰弱し、そして死後憑依型の魔族として人を襲うようになる。それがハンナの周りで漂っていた。
「まさか」
ハンナは周りを見回す。そこにユニコーンの姿はない。
濁流にのみ込まれた際、はぐれてしまったのだろう。少なくとも視界内にその姿は見られなかった。
(落ち着いて……。探査魔法でイリーネをトレースすれば……)
そうだ。ユニコーンと合流できれば問題はない。幸いにしてあの濁流は一度だけのようだ。そう遠くに流されてはいないだろう。心を落ち着けて、探査魔法を展開しようと――
「……あ、かはぁ……!」
魔法を展開しようとしただけで、肺が焼け付くように熱くなる。大地から発せられる『マナ』を得ることができず、代わりに毒霧を体内に吸収してしまったようだ。魔族に汚染された地域の生物の弱体化。知識として知っていたが、まさかここまでとは。
(すでに展開してある通信魔法の『部屋』の維持はできる……。だけど新たに魔法を展開しようとするのは無理……?)
ハンナは現状を把握するにつれて、少しずつ絶望を理解し始めていた。
毒霧の範囲内では自分は何もできず、ただ衰弱するのみ。それを打破するための魔法も行うことができず、助けを呼ぶこともできない。
唯一の希望はユニコーンがこちらを見つけてくれることだが……。
(『ツヴァイ』と『ドライ』は対岸。唯一の希望は『アイン」のみ。だけど、魔族が近くにいる状況では……)
希望は薄い。認めたくないけど、認めなければいけない状況。
ユニコーンに乗ることができれば、回避できたかもしれない危機。純潔を失わず、ユニコーンを宛がわれていれば、免れていたかもしれない状況。
毒の霧は濃く、そして雨は容赦なく視界を奪う。
体に纏わりつく穢れた水は冷たく纏わりつき、不快感と共に体温を奪っていく。
呼吸をするたびに失われていく体力。助けを呼ぶこともできずに、ただ孤独の中で恐怖に襲われる。
(ああ、ここで終わりなのかな……)
ハンナは諦めたように膝をつく。死した馬の傍らに座り込み、脱力した。
死ぬことは怖くない。それは覚悟していたことだ。騎士団に入団した時から。魔族と戦うと決めた時から。
こんな時代だ。寿命を全うできる人の方が少ない。魔族に殺される人間の方が多いのだ。自分もその中の一人になるだけ。
後悔はない。自分は戦った。その結果がこれならば、それも人生だ。
否、後悔はある。自分を慕ってくれた領民。こんな自分を助けてくれたイリーナ。彼らになんと言えばいいのか。願わくば、毒霧の中で死んだ自分が誰にも迷惑をかけずに朽ちていきますように。
(それだけ……後悔は、ただ、それだけ……)
自分の領内で過ごした日々を思い出す。ゲブハルト家の姉弟と過ごしたひと時を思い出す。騎士団での日々を思い出す。辛くもあったけど、楽しくもあった日々。それはもう、得ることができずに消えてしまうのだ。
気が付けば――
(後悔なんて……ないはずなのに……)
死にたくない。そう思う自分がいた。
涙は雨に濡れて消え、声は誰にも届かない。
動くことも、助けを呼ぶことも、それこそ呼吸すら満足にできない状況なのに。絶望しかない状況なのに。
覚悟は既に決めたはずなのに。
(死にたくない……。だれか、助けて……)
ハンナは強く助けを願っていた。




