一目散に背を向けて
「ふひひひひ……! 湖近くで浄化している反応がと思ってきてみたら。やっぱり君達だったね」
やや小太りの男の姿をした魔族。ヒデキと名乗ったその魔族は宙を浮かびながらゆっくりとテオとハンナの方に近づいてくる。
(逃がさない。逃がさないぞ。昨日の屈辱をここで晴らしてやる。ユニコーンは水の上を歩けないから、攻撃がこっちに来ることはない。遠距離からじわじわと嬲ってやる)
心の中で捕まえた女騎士たちをどのようにいたぶるかを想像し、ヒデキの心は満たされてゆく。どのような声で鳴くのか、どのような命乞いをするのか、それを想像しただけで溜飲が下る。
(先ずは『完璧触手』で動きを奪う。そのままじっくり何もできない体を蹂躙し、自分の身分を分からせる。そうだ、お前達はこのヒデキ様の玩具なんだ。この世界に在る者すべてはヒデキ様に逆らう事を許されてないんだよ!)
ユニコーンが湖から角を離し、二頭の馬に乗る女騎士たちが何やら話をしているのが分かる。何かの作戦を立てているのか。だが無意味だ。
(何かをする前に触手で絡めとる。喰らうがいい、この『完璧触手』を!)
「あの女騎士を捕まえ……なに!?」
ヒデキが号令を出すより早く、ユニコーンと馬の二頭は駆けだしていた。脱兎のごとく素早さにヒデキの命令が一瞬止まる。だが、その事がヒデキの心を満たしていく。弱々しく敗者のように逃げ出す女騎士。その姿に嗜虐心をそそられていた。
「ふひひひひ! 逃げても無駄だぁ! 触手よ、あの女騎士を捕まえろ!」
言葉と共に『アイン』と『テオフィル』の足元に触手が生まれ、真っ直ぐに伸びていく。しなやかに伸びる肉の鞭は、駆け行くユニコーンと馬に迫り――空を切った。
「何をやっている! 早く捕らえろ!」
叫ぶヒデキ。だが走る馬と女騎士を触手が捕らえることはない。馬鹿な、そんなことはありえない。今までだってこのヒデキ様の触手は完璧に僕の言うことを聞いてきた。なのにどうして?
「まさか、あのイリーネとかいう女騎士のチート能力か! そうでなくちゃ説明がつかない! コーロラ様とは違った女神によってこの世界に召喚された転生者か!」
――無論、そんなはずはない。テオもイリーネもこの世界の人間で、『完璧触手』を無効化する技など持っていない。
では何故魔族のチート能力である『完璧触手』を避けているかと言うと。
(よし……! あの肉の植物は予想通りの弱点を持っている!)
テオは全力でユニコーンを走らせながら、自分の予想が正しかったことを確認する。並走するハンナも、驚きの表情を浮かべながらも作戦の成功に声を躍らせていた。
「凄いですイリーネ……! ミーティングの予測通りでした!」
「ええ。これで確信しました。あの魔族は決して万能ではないと。侮っていい相手ではありませんが、最も恐ろしいのは『能力の底が見えなかった』事だという事です」
「底?」
「何ができて、何ができないか。どこまで強くて、どこまでができないか。それが分かれば、対応策は生み出せます」
馬を走らせながら通信魔法を通じて、青螺旋騎士団全員に聞こえるようにテオは言う。この逃亡は希望になる。魔族は強いけど、対抗できる相手なのだと。
「くそ! 何が『完璧』だ! 僕の言うことを聞かない駄目触手が!」
叫ぶヒデキ。魔王コーロラの説明では『言われたとおりの仕事をこなす触手の召喚』という能力だった。事実、触手はヒデキの言うことを忠実に守り、完璧にこなしてきた。故に過信していた。故に知ろうとしなかった。
触手に出来る事と、出来ない事。触手自身の能力そのものを知ろうとしなかった。
召喚された触手は、確かに主の命令通り動き、その任務を果たそうと最大限の働きをした。事実、テオたちが逃げ出すのが一秒遅れていれば、触手はその任務を『完璧』に果たしていただろう。
ヒデキの視界から消える女騎士達。残された魔族は苛立ちから触手を蹴っ飛ばす。物言わぬ触手は主の怒りを受けて、その体を抉られてしまう。そのまま力無く崩れて果てた。
だが、魔族の手から逃げられたわけではない。
「ふひ、ふひひひ……! 逃げられると、逃げられると思うなよ。この毒霧の中なら、どこまででも追いかけてやる……!」
その場から消えるヒデキ。空間を渡り、騎士達を追いかける。
自分はまだ優位だ。それは事実だろう。その状況が、ヒデキを安堵させていた。
そしてその優位こそがヒデキを慢心させ、隙を生んでいる事実に彼は気づかない。




