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パート3


一九


 慧人は無言のままゴーグルやリストCOMを外し、最後に残ったバックパックを静かに地面に降ろした。そして抵抗しないという印にぎこちなく両腕をあげる。

「そのまま動くんじゃないぞ」

 そのことばが終わるか終わらないかのうちにひとの近づく気配がし、慧人のこめかみになにかが突き付けられた。レーザーキャノンかなにかの銃口。砂漠の冷気に冷やされたそれが、強い力で慧人のこめかみを冷たく押す。そして逆方向から伸びて来た別の人間の手が、わざと捨てないでおいたステム・デストラクターを、かれの腰から引き抜く。

 あのときクーガーの言っていたことばが、フラッシュバックのように慧人の脳裏によみがえる。ザンボアの兵士たちの行軍スピードは恐ろしく速い。

 だが、それにしても、砂地をこんなにも速く歩行できるとは──慧人は、自分の両脇を固めたふたりの兵士を素早く見やって思った。例によって、ふたりの兵士はカモフラージュパターンをしていた。しかし、ふたりとも女兵士であることは確かだった。またしても《おんな》だ。それも二十歳になったかならないかの──。こんな子どものような女たちで、果たしてザンボア軍の正規の戦士となりえるのか……。

「さあ、その両手を頭の後ろに組むんだ」

 背後から男の声が言った。「これからおまえをわれわれの基地に連れて行く。だが、だからといって、手加減すると思うな。下手な動きを少しでもしたら、このふたりが即座におまえの手足をレーザーカットする」

 慧人は、闇のなかを男の言うがままになって歩いた……。

 気の所為か、眼の端にときおり青白く光るものを感じる。かれは、顔の向きをそのままに眼だけをその方向に向けてその光の正体を探ろうとした。と、およそ数百メートル先、やや小高くなった段丘の麓に月明かりとよく似た青白い光を放つものがあった。

 それが、まるで小動物が呼吸でもするかのように、およそ五秒ほどの間隔をおいて点滅している。ADVだ。慧人は思った──ひょっとしてアンヌたちは、すでにあそこにいて、自分の到着を待っていてくれるのだろうか……。

 さいわい慧人の後方でレーザーキャノンを構え、その姿を注視していた兵士たちはかれの挙動に気づかなかったようだった。しかし、そこにはかれの期待した人影はなく、弱々しい青白い光が明滅するだけだった。

 どのみち、われわれに与えられた使命は果しおえたのだ。かれは思った。行き着くところまで行く。たったそれだけの話だ。覚悟が決まると、慧人には楽観的な、いつもの気楽さがよみがえった気がした。

「なにをぐずぐずしている。さっさと歩くんだ」

 その声にわれに返った慧人が足を速めようとしたとき、後方からなにかが光り、そのあとに続いて大きな爆発音が地を這うようにして届いた。

「な、なんだ、いまのは──」

 轟音が地を伝って足元を震わせるなか、爆風と火の粉から身をかばいながら男が叫んだ。

 慧人が男の見やった方向へ眼を転じると、キュワナチの岸辺から、巨大な火柱が天に向かって噴き上がっていた。

 自分たちの仕掛けた二六〇本ものC56が、いま爆発しはじめたのだ。

慧人は、中空で勢いを失った火の粉が、アスナジャの眸にゆっくりと舞い落ちるのを見ながら思った。壊れているのはわかっているが、念のため、ダイバーウォッチにそっと眼をやってみる。と、ありがたいことにそれは動きを回復しており、クーガーに命じておいた、本来の時刻より四〇分以上が経過しているのがわかった。

予定どおりにセッティングされていたとしたら、あの水中戦の最中に、この爆発が起こっていたに違いない。あのフィクサロイド、用意周到なクーガーがわざと四〇分ほどの余裕をもってセッティングしておいたのに違いない……。

「あれを仕掛けたのは、おまえか」

 男が慧人から奪い取っておいたステム・デストラクターをかれの顔に向けて言った。

その声を合図にふたりの兵士がさっと左右に飛びのき、慧人の斜め数歩前から、その顔面と心臓に向けてレーザーキャノンを構えた。このフォーメーションは、クーガーが慧人とアンヌの身体に死ぬほどたたき込んでくれたものと同じだ。こうしておけば、同時に撃ったとしても、お互いを殺し合わないで済むと教えられた……。

「ああ」

「おまえのほかに──」

 唇の片方だけを歪ませたような、妙にくぐもった声で男が訊ねた。「何人の仲間がここに来ている」

 口が裂けても言わん──慧人が両手を後ろに組んだまま、そう答えようとしたとき、男の持ったステム・デストラクターの銃床が、その尖った先でかれの頬を削った。鈍い痛みが目尻から唇の手前に向かって走ったかと思うと、そのつぎの瞬間には血が噴き出し、顎の下へ伝い降りているのがわかった。

「貴様、ほんとうにキャベツになってしまいたいのか」

 男は、ステム・デストラクターをさらに上に向け、慧人のこめかみに突きつけんばかりにして言った。「それとも、二度と両手を組まなくてもいいように、その付け根ごともぎ取ってやったほうがいいのか──」

 慧人の両脇を固めた二人の兵士が、それぞれの方向から、彼の肩に向けてレーザーキャノンを構える。

「わかった、言う。言うから、この二人に銃を向けるのを止めさせてくれ」

 慧人が頬の痛みをこらえ、もがくようにして言った。「ふ、ふたりだ。だが、そのふたりとも、さっきの水中戦で殺られてしまった……」

「嘘を言え。その手には乗らんぞ」

「嘘じゃない」

「もっと大部隊だったはずだ。たった三人であれだけのことができる訳がない」

「嘘は言わない」

「まあいい。どのみち、サイキアナライザーにかければすむことだ」

 男は、慧人の顔をねめつけて言った。「だが、少しはおまえのことを信用していいかも知れん。これまでいろんなヘミ(北亜連合)の兵隊を見て来たが、おまえのようなのにはお目にかかったことがないからな……」

「どういう意味だ──」

「どうせおまえも、ヘミの連中がその辺から拾って来て、にわか仕込みに訓練した民間人かホームレスの類いだろう。本当にヘミの兵隊なら、頬っぺたのひとつやふたつが口を開けたところで本当のことを吐きはしない……」

 男は、狡猾そうな笑みを浮かべて続けた。「だいいち、そのもののいいようにしてからが素人だ。まるで軍人というものをわかっていない。ことのついでに教えておいてやるが、俺は《イシュタルに狼あり》として知られた、第二地中工作中隊のネフドス軍曹だ。この俺さまに発見されたのは、おまえにとって一種の幸運だったと思うがいい……」

「なにがいいたいのか、さっぱりわからん──」

 慧人が、持ち前の皮肉と嫌みを込めて言った。「ひょっとして、それはおタク流のお国自慢なのかね。それとも、負け惜しみなのかね」

「減らず口をたたけるのもいまのうちだ。さあ、さっさと歩け」

 男に命じられ、顔を上げた慧人は闇に沈んでいた丘陵が、ようやく朝の光を取り戻しつつあるのを知った。アスナジャ河に眼を転じると、陽の光を受けて一面に輝きはじめた水面には、ちょっとした異変が起こっていた。

あの爆発で起こった荒波が、ズハンガの岸辺に打ち寄せ、牙をむくように岸壁を叩いているのだった。ときおり霧状になったそれが風に舞い上げられ、岸壁の細く堅い通路を進む者たちの上へ降りかかる……。

「おまえは、あのパイプラインをやっつけたことで、俺たちの軍を潰滅したと思い込んでいるのだろうが……」

 男は、陽気さを装っているとも取れる、のどかな声で続けた。「俺たちの要塞は、そんなにヤワにできちゃいない。だいいち、敵地であるおまえたちの土地を、こうしてわれわれが平気で行進できているということ自体が、不思議なできごとだと思わんか」

「なにが言いたい……」

 流暢にヘミノージアンの共通語をあやつるこの男は、いったい何者なのだろう──と慧人は思った。

「わからんか」

「わからない……」

「では、特別に教えてやろう」

 男が、ゲームに勝った子供のように勝ち誇った声で言った。「実は、われわれはおまえたちの陣地内である、このズハンガの地とシュワレットの山岳地帯をすでに掌中に収めているのだ……」

「というと──」

「カンの鈍いやつだな。みなまで言わせるのか」

 問いとも非難ともつかないそのことばに、わざわざ応じてやる必要はない。本人は言いたくて仕方がないのだ。言いたいやつには言わせておけばいい。慧人は思った。

「まあ、いいだろう」

 男は、すこぶる上機嫌のように寛大めかして言った。その声が、のどかな歌声のように砂の海の上に流れて行く……。

「われわれは、地中工作では天才的な頭脳を発揮する。ズハンガの地下は、すでにわれわれによって占領され、そこに第二第三の橋頭堡を築いたということだ。現在、そこには、われわれの兵士が一万名待機している……」

「一万名だと──」慧人がわれに返って言った。

「ああ」

「ミシュアをやったのもその連中か──」

「そうだ。その作戦を指揮したのが、この『イシュタルの狼』とその部下たちだ」

「しかし、ここにいらっしゃるような──」

 慧人が、聞きようによってはそうも取れる、悔しさを滲ませた声に皮肉をまぶして言った。「みめうるわしき『お嬢様』ばかりの軍隊じゃ、お話にならんだろう」

「なあに、心配はご無用。この兵士たちは、おまえのように素人裸足のドジを踏んだりはしない。ホームレスあがりの素人兵士たちではないのだ。ザンボア軍兵士としての忠誠心に燃え、日々その肉体を鍛え、砂漠の熱砂にも極寒の地にも耐えられるようにできている。命じられれば、どんなことでも徹底的に、しかも完璧にやってのける。たとえ一カ月間、一滴の水も与えられずともな……」

「……………………」

 無言の慧人に、男が続ける。

「だが、そんなことは驚くにはあたらん。われわれの計画では、ここ一・二ケ月のうちに、さらに二万五千名の兵士をそこへ送り込むことになっている。かれらは、すべてわたしのようにおまえたちの言語を身につけ、情報戦におけるあらゆる特殊技能を体得している。そしていまも、地中探査や敵地偵察はもとより、地下建造物の破壊または隠蔽、情報受発信装置の操作、改竄、妨害、偽データの混入、暗殺、その他もろもろの撹乱戦術に従事しているのだ……」

 慧人には、いまようやく、男の言いたいことがわかった。

敵は、ある小さな要塞を、あたかも重要な前進基地かダイヤモンド製造工場のように思わせる噂を何週間にもわたって流し続けていた。密かに、しかし、いかにも本当らしく。そうしてあるとき、わざと戦略探査衛星に見つけさせ、それが事実だったことをわれわれに『発見』させた。

もちろん、それがツヴァイゼン博士の開発したM16によってウソだと知りはした。

しかし、それすらも敵側の想定の範囲内だったのだ。つまり、われわれが注意を惹きつけられ、それに向かって作戦を立てている間、やつらはとうに大量動員による地中からの上陸作戦を果し終えていたのだ──。

慧人は、すべてを悟り、ネフドスのことばをほとんど聞いていなかった。

おまえのように素人裸足のドジを踏んだりはしない。ホームレスあがりの素人兵士たちではないのだ──ネフドスの言ったことばが慧人の耳朶にエコーのように聴こえていた。

 確かに自分は素人で、まともな教育を受けた戦士ではない。経緯はどうあれ、慧人は敵兵に『素人裸足のドジ』をやらかしたと言われて当然の、もっとも致命的な間違いを犯した。そしてみんなに自分の作戦が最善のものであると信じ込ませすらしたのだ。

 明日の食いぶちや生命の危険もない、気楽な給与生活者だった頃の甘えや非難がましい言い訳が、辺りをうかがう蛇のように頭をもたげようとした。だが、戦争とは、こういうものなのだ。どんな失敗をしたところで、だれも慰めてくれるわけではない。

敵から同情や憐憫を期待するなど、極刑に価する甘えといっていい。かつて東洋の島国にあった古代兵士たちの心持ちで言うなら、その場でハラキリものだ。

 しかし、頭ではそうだとわかっていても、かれは自分が腹立たしくてならなかった。なによりも、アンヌやクーガーを死に追いやるためのシナリオを、自分自身が書いたということが悔しかった。その脳裏に、深い溜め息をつき、悲しみに沈むツヴァィゼン博士と指揮官ジョージ・フリードマンの姿が浮かんだ。ジョージ・フリードマンが、半ば諦め顔で博士に言うのが聞こえる。

──だから、わたしは素人のケイトには荷が勝ちすぎると言ったんだ。あのとき、わたしの意見を素直に聞き入れてくれさえすれば……。

 昇り来た陽の光を見ることで頭をもたげはじめていたそれまでの楽観的な気分は、一敵兵の自慢話によってふたたび最悪のものに戻っていた。乾いた砂の上に重い歩を運ばせるごとに、それは頬の傷よりもずきずきと痛んだ。くそっ。こんなことなら、ひと思いに自分を突き殺してくれていればよかったのだ。

 慧人には、ネフドスの問わず語りは、自分の母親が罵られたり嘲られたりするよりもこたえた。それまでに感じていた、さまざまの疑問を口にするという気持ちはすでに失せ、自分の非を打擲する後悔の念だけを胸に、かれは熱砂の上を歩いた……。


「われわれの誇る地下要塞のひとつが、ここにある」

 太陽の鋭い光線を照り返し、果てしなく眼下にうち広がる砂丘の頂きにたどり着いたとき、先頭に立っていたネフドスが慧人のたどり着くのを待って言った。

 が、慧人がその横に立っていくら周囲を見渡しても、太陽光のぎらつく砂の白さがあるばかりで、それらしいものの姿は見当たらなかった。

「とはいっても、きさまには見えんだろう。われわれの光線屈折装置は、生まれながらの砂漠民の眼をも欺くほど、精巧にできているのだ」

 男は、自分の肩から外した通信装置に向かって言った。「AP7。こちらは、イシュタルのネフドス軍曹だ。イシュタル将軍の名において、電磁バリヤーの解除と開門を緊急要請する。オーバー」

『こちら、AP7。先刻、キュワナチの発電ライン付近で、緊急事態が発生したという連絡が入った。被害は、かなり甚大な模様。現在のところ、事故によるものかどうかは不明。したがって、現在、厳戒体制と緊急配備体制が敷かれている。第二一条による人員配置と厳戒体制だ。オーバー』

 慧人の記憶中枢に一瞬の閃光が走った。

 あれは、この男一流のブラフだったのか。横をみると、ネフドスの顔が一瞬にして強ばり、みるみるうちに蒼くなったかと思うと、つぎの瞬間には真っ赤になっていた。こうなりゃ、破れかぶれだ。ことあるごとに、この男に楯突いてやる……。

「なにを、ばかなことを言ってるんだ。そんな寝言を言っている暇に、さっさと電磁バリヤーを解除し、このクソ掩蔽扉を開くんだ」

『電磁バリヤーの解除ならびに掩蔽扉の開閉については、本部司令長官の直接の許可なくして行なってはならないことになっている……』

 相手の声が、やや遠慮がちな間隙をおいて答えた。『貴君を疑う訳ではないが、われわれにはただちに貴君の要請を受け入れる権限がない。いま、われわれは本部へ緊急の連絡を取っている。本部より返答あるまで、どうかそのままで待機されたい。オーバー』

「イシュタル将軍の名において、再度要請する。ただちに電磁バリヤーを解除し、掩蔽扉を開門せよ。これは単なる要請ではない。メディクスレニアン全体の利益を代表する者としての命令だ」

 威嚇するようなネフドスの声に、さきほどよりも長い沈黙の後、戸惑いを隠せない声が震えながら答えた。

『イシュタルのネフドス軍曹、その名はわれわれもよく存じているが、緊急用の代替電力により辛うじて各種要塞機能を維持しているいま、その声の主が本人であるかどうかについて信頼できる確認方法を講ずることができない。メディクスレニアン全体の利益を代表する者として緊急開門を必要とする真の理由とはなにか。応答されたい。オーバー』

「いいか、キュワナチの大爆発は、事故なんかではない。ヘミノージアンの特殊工作部隊がやったものだ。俺は、それをやらかしたと称するやつを一名捕獲した。

 いまから、こいつをそこへ連れて行って尋問にかける。こうしている間にも、こいつの仲間がなにかをやらかす恐れがある。メドレーエフ大尉を呼べ。そしてこう言うんだ──腕利きのサイキアナライザーを二人ばかり用意されたい、とな。こいつの仲間は、全員死んじまったそうだが、本当かどうかは判りゃしない。こいつの面構えからすると、ほかにもなにかを企んでいる可能性がある、そう言うんだ」

『了解した。さっそく大尉にそう伝える。もうしばらく待ってくれ』

「けっ。なんてデクの坊な、クソばか野郎ばかりなんだ」

 ネフドスは、もっていた旧式の通信装置を砂の上に叩きつけて言った。「どいつもこいつも揃いも揃って機転が利きやがらねえ」

「どうやら、オツムのいいのはあんただけらしいな」

 慧人は、悪態をつくネフドスに眉ひとつ動かさずに言った。「一万人の兵がいるといっ

ても、『揃いも揃って』その手の連中が集まってるというだけじゃないのかね」

 ネフドスは、きっとなって慧人を睨めつけたが、その一瞬後には、例の傲岸な、とってつけたような余裕の表情を見せて応じた。

「ま、せいぜい言いたいことを言え。そのうち、吠え面をかくことになる」

 慧人は答えず、兵士たちの見遣る砂丘を眺めた。

 掩蔽扉が開くのを待つ間、かれはかつて本で読んだか父に聞かされたかした、東洋の軍人の話を憶い出していた。その軍人は、ある国に遣いで赴いたとき、その国の強者を相手に武術の腕を見せてくれと所望された。かれは返事をためらうことなく即座に喜んでそれを了承し、その者たちと闘ってすべてを打ち負かした。

 相手国の見物人一同が驚嘆と感動の溜め息をもらすなか、技の素晴らしさとその比類ない強さを称えられた軍人は、平然として答えた。これでも自分はまだ弱いほうに過ぎず、国に帰ればもっと強いのが五万といるのだ、と。これとまったく同じで、ネフドスは自国をその実力以上に見せるため、あんなことを言ったのではなかったか──そんなふうに思い始めると、暗欝な慧人の気分もいくらかは楽になった。

 女兵士のひとりが、ネフドスに歩み寄ってなにかを耳打ちした。

ネフドスが頷きを返し、慧人を見た。が、なにも言わず、視線を砂丘に転じた。数メートル離れた前方の砂山が少しずつ小さくなっていた。その山の両脇に縦の溝があり、そこへ周囲の砂が吸い込まれているのだった。

 山の姿が徐々に崩れて平面のそれになり、ひと粒の砂も両側の溝に滑り落ちなくなったとき、箱の形をした滑らかな材質の建物がゆっくりと頭をもたげ始めた。慧人たちの佇む前で、ちょうど人間の背よりやや高くなったところで、それは動きを停めた。

「なるほど。実にうまくできている。手作りの塹壕にしちゃ、上出来だ」

 慧人は、半ば皮肉、半ば感心して言った。

「ふざけるな。これは塹壕なんかではない」

 ネフドスは言った。女兵士が建物の前へ行って、右側にあるボタンを押した。滑らかな表面をもつ正面の扉がきいきいと音を立てて巻き上げられてゆく。

「さあ、入れ」

 扉が巻き終えられたとき、ネフドスがステム・デストラクターの先で慧人の背中を押して言った。「ただし、下手な真似はするな」

 なかは、二〇人ほどの兵士が、武器や弾薬を携帯して入れるほどの広さがあった。

一歩を踏みいれると、地面が宙に浮いたように揺らいだ。最後の女兵士が入り、もういっぽうの女兵士がボタンを押した。かれは急激なエアポケットに備えて息を止め、足を踏ん張った。だが、慧人の期待したそれではなく、化石燃料の豊富な南亜の施設らしく油圧式のエレベーターのようだった。

「いまどき、こんなものを使っているところを見ると、よほどおタクの軍は貧乏しているようだな。こいつは、俺の爺さんの代にもなかったような酷いシロモノだ」

「いいか、口の利き方に気をつけろ。それ以上の減らず口をたたくと承知せんぞ」

 ネフドスの顔には、明らかな苛立ちがあった。どうやら、さすがの鬼軍曹もこれ以上の侮辱には耐えられないらしいな。慧人は思った。

 基地内に戻れた安心感、いや、これから慧人が味わい、かれが見て楽しむことになるだろう拷問への期待がそうさせるのか──本来なら、落ち着き払っていいはずの鬼軍曹ネフドスの様子は、最初に出会ったときの印象とはがらり変わって、余裕や冷静さがきれいに失われてしまっていた。

 いくら『イシュタルの狼』だのなんだのとほざいたところで、所詮は、三十歳になるかならずかのガキのこと。そんな男の言うことに、どれほどの信憑性があるというのか──慧人は、あの閃光が脳裏を突っ切って以来、完全にタカをくくっていた。腕利きのサイキアナライザーだか馬のケツだか知らないが、なんでも来やがれ。これ以上、この俺から聞き出すことなどあるものか。


二〇


「あれから一時間以上も経っている……」

 キュワナチ丘陵の上に噴煙が上がり、それを感知した衛星がザンボアの地下要塞のひとつが破壊された模様との報告がきてから、五分おきに時計を見ていたジョージ・フリードマンが落ち着かない様子で言った。

「しかも、水中攻撃を展開していたザンボアの兵士たちも、もうすでに引き上げてしまったというではないか。どうだ、その後、MBチームから連絡はあったか」

「いいえ。いまのところは誰からも──」

ツヴァイゼン博士の隣にいた、女オペレータのひとりが心配顔に言った。「ひよっとして、なにかの手違いで、あの爆発に巻き込まれたのでは……」

「いや。それはあり得ない。あのクーガーがついているかぎり、そんなことはない」

ツヴァイゼンは、これまで何度も心のうちで繰り返し、自分に言い聞かせていたことばを口に出して言った。「かれは自分に与えられた命令は、必ず遂行する。たとえ死ぬとしても、それを実行するまでは死なない。クーガーという男は、そういう男だ。かれは、必ずふたりを連れ帰ってくれる。わたしはそう信じているんだ」

「しかし、博士がいくら信じるといっても、現実になにかが起これば、いくら鉄壁のかれの意志といえども、肉体の損傷には逆らえんだろう」

フリードマンが眉間に皺を寄せ、厳しい表情を見せるツヴァイゼンに言った。「ここは、彼女のいうようにかれらが名誉の戦死を遂げたということで、いま待機させている大隊に一斉攻撃をかけさせたほうがよくはないか。この勢いに乗って、つぎつぎと攻め続ければ、さしものザンボア軍も手も足も出まい」

「いや。もう暫く、もう暫く待ってください。通信などによる直接の連絡はなくとも、何らかの形での連絡、もしくはそれとわかる形での連絡があるはずです」


二一


「本当にこの男は、それ以上にはなにも知らんのか……」

 慧人の耳にしゃがれ声が聞こえていた。眼を開けても真っ暗でなにも見えなかった。

どうやらフルフェイスのヘルメットのようなもので頭や顔を覆われているようだった。背背もたれのある金属製の椅子に腰かけさせられ、両手や腰、足などはしっかりと固定されていた。

「どうもそのようです、大尉殿。自分の所属している隊名おろか階級さえ知りません。ただ『MBチーム』とやらのリーダーとはなっているようですが」

 当たり前だ。慧人は夢を見させられているような気分で思った。俺は、自分の雇い主である組織の名前さえ知らされていない。それが軍の組織にあたるのか、政府機関のひとつであるのか、どの地の下にあるのかさえ知らない。もともとに強制されて連れて行かれ、ヘミノージアンのひとりとして協力させられただけの民間人だ。

知らないことをいくら科学的に刺激しても、脳は答えようがない。

「なんだ、そのMBとやらは──」

「どうやら『モグラ叩き』の頭文字を採った研究チーム名のようです」

「ふん。われわれがモグラだとでもいうのか。ふざけた連中だ。実にけしからん」

「では、大尉。もう少し角度を変えて、こんなのはどうでしょう」

 ネフドスの声がサイキアナライザーに言った。「こいつの肉親の特徴といままでにもっともインパクトのあった親との記憶を探ってみよう。そうしてこいつの潜在意識に働きかけるんだ。今回の指令を出した本部がどこにあるかを教えないと、その親が死ぬより辛い生き地獄の目に合う、とな」

 サイキアナライザーが了解の返事をし、手元の器械のスイッチに触れた。

そのつぎの瞬間、慧人は徐々に意識がもうろうとして行き、ふたたび深い奈落に落ちてゆくのを感じた。エアポケットの中心へ、胃の圧迫と嘔吐と、目眩に似た気味の悪さを感じながら──。垂直に、どこまであるかわからない空間へ、身体がふわふわと滑り……どこまでも脳が溶けてゆく、気の遠くなるような時が……流れ………。


 どれだけの時間、または月日が流れたのかは判らなかった。

手も足もよろよろとしておぼつかない感覚のまま、生まれてから今日までのすべてを思い起こしたという気分だけが、脳のどこかに漂っていた。

 うっすらと眼を開けると、例の手枷足枷つきの金属椅子に座らされているのがわかった。そして傍らに眼をやる。

すると、そこに落ち窪んだ片目に黒の眼帯をはめた恰幅のいい男と、見覚えのあるネフドスの尊大な顔が自分を見下ろしていた。

「やあ。やっと、お目覚めになったようだね、ケイト君」

 片目の男が、数カ月間もかれと付き合ったような、親しげな口調で言った。聞き覚えのあるしゃがれ声だった。そうか、こいつが夢のなかに出て来た大尉なのに違いない……。

「どうかね、気分は──。きみは、あれから三週間も眠り続けていたのだよ。もっとも本格的に睡眠をとるときは、ベッドに寝ていただいたがね」

 そういえば、来る日も来る日も頭のなかに針を突き刺され、あらゆる角度からの質問攻めにあっていたような気がする。

だが、あれは夢のなかのできごとではなかったのか──。

「それより、この手錠のお化けみたいなのを外してくれると助かるんだがな」

 慧人が、両手首にはめられた器具を見て言った。

「それはできんよ、ケイト君。きみが抵抗しないとわかれば、話はべつだがね……」

 男は、にこやかな笑みをたたえて言った。「ああ、自己紹介が遅れて申し訳ない。わたしはメドレーエフ大尉だ。われわれは、きみの素性をすべて調べあげさせてもらった。そしてこの三週間を費やして、ついにきみの弱点を見つけ出したというわけだ」

「俺の素性の、どこに弱点があるっていうんだ」

「まあ、そう結論を急がんで先を聞いてくれたまえ」

 メドレーエフは葉巻を取り出すと、ネフドスが火をつけてくれるのが当然といわんばかりにそれを突き出した。そして、ネフドスの差し出した火で、さも美味そうに葉巻を一服くゆらしてから続けた。「つまり、きみの弱点というのは──だ。きみは、きみの両親がまだ生きていることを知らず、その後、かれらがどうなったのかを知らされていないことにある。われわれは、苦労してきみの父君がだれかを捜し出したのだ」

「莫迦な。親父は、もうとっくに死んでいる」

「ところが生きていたんだよ、ケイト君」

 メドレーエフは、葉巻を左右に振って続けた。「もっとも、バイオコンピュータに繋がれた脳髄としてのそれ──というべきかも知れんがな。なんという偶然、いや、なんという幸運の女神のなせる業かは知らない。だが、きみとわれわれは敵同士の関係にはないのだよ。実のところ、当のきみよりも、このわれわれ自身が大いに驚いとることなのだ」

「なにが言いたいんだ」

「だが、ことはそればかりではない」

 メドレーエフが慧人のことばを無視して言った。「きみの母親もまた、とあるところで健在であることが判ったのだよ……」

「嘘だ」

「嘘ではない。そうでなければ、気の短いわれわれが、こんな回りくどい手段を講ずると思うか。どうだ。父君の脳髄に会いたくはないか。かれの脳は、いまわれわれのバイオコンピュータに有機接続され、地中作戦の総指揮官として陣頭指揮をとっている。かれは、きみがここに来ていると知って、久し振りにきみと話したがっているんだが……。

 いや、その前にまず、きみの母親がどうしていたかを教えてやろう。これには、さきほども言ったように、われわれ自身が驚いたが、きみの父君ばかりでなく、彼女までもが、われわれの中枢として働いていたのだ」

「嘘だ。なにを言っても信じないぞ」

「信じるも信じないも自由。だが、事実なのだから認めるより仕方あるまい。どうだ、会いたいか。多少、年老いてはおるが、なかなかどうしてかくしゃくとしたものだぞ。きみの父君の脳髄に劣らず元気そのものだ」

「…………」

 慧人の意識に、思考に、記憶に混乱が起こり始めた──。

感情と記憶、思考と意識が交錯し分裂する……。自分がまだ幼いときに夫を見限り、わが子を捨てた、自分勝手な、若い、情動的な女。どうしても会って、哀れな父のためにひとことを言ってやりたいと望み、憎みながらも欲してやまなかった母親……。

 東洋の、あの美しく端麗な両腕で乳飲み児の自分を抱きしめ、限りなく慈しんでくれたであろう、母の偉大さと温もりへの憧れ。切望。挫折。断念……。突然の妻の振る舞いに対し、父は、相手を責めるのではなしに自分を責めることで自分を慰めた。研究に没頭し、妻を、わが子を顧みないでいた独善的な日々が、せっかくの愛を育て始めていた彼女の幻滅と翻意を促したと──。

 だが、一体なんのために、よりによって敵側の手先となって働くことがあるのか──。かれは、会いたいと思った。会って、ひとこと言ってやりたいと思った。

「どうだ。会いたいだろう。彼女もそれを望んでいる。きみがいまなにを思っているかは、器械を試してみずとも解る。なぜ、敵軍に加わっているのか、そこのところもしっかりと訊ねてみるがいい──」

 メドレーエフはネフドスを振り返り、深く頷いて言った。「さあ、ネフドス軍曹、ヤワルジャ大佐をここへお通ししろ」

 ネフドスは無言で、前方にあるドアの脇を固めている兵に向かって合図した。

 合図を送られた兵がドアを開け放つと、その向こうに東洋系の顔立ちをした女性が車椅子に座っており、じっとこちらを見据えていた。傍らにいた背の高くすらりとした美人の看護婦がその車椅子を押すようにして入って来た。

「ようこそいらっしゃいました、ヤワルジャ大佐」

 メドレーエフは、つかつかと女性のそばに近寄り、その手をとって、北亜の世界ではすでに五百年以上も前に見られなくなってしまった貴族的な挨拶をして言った。「こんな男ばかりの、むさ苦しいところへおいでいただいて光栄です」

「この男が、わたしの息子だというのね、メドレーエフ大尉」

 女性はメドレーエフの顔を見ようともせず、貸し与えていた痩せて細い手を両膝の上へ戻し、りんとした声で言った。

「その見苦しいものを取り除いてやりなさい」

 メドレーエフはためらいの表情を見せたが、一瞬の後、かれの命令を待つ兵士に了承の頷きを送った。慧人は、金属リングを外す兵士たちに身体を預けながら、その東洋系の女性の顔をまじまじと凝視めた。その顔は年老いていて、髪はすでに艶やかな銀色と化しており、目尻には多くの皺が刻まれていた。

 確かに、この場の雰囲気に相応しく眼光こそ鋭いものの、どこか柔和な優しさを滲ませる顔立ちやその声には、懐かしい響きのようなものがあった。

「これを、その子に見せてやりなさい」

 彼女は自分の首筋からペンダントを外し、傍らの看護婦に手渡して言った。コイン大のペンダントが慧人の手に渡されたのを見定め、彼女が続けた。

「開けてごらんなさい」

 古い、それこそ慧人が生まれる前のデザインだった。

 円くしつらえてあるその図柄や縁の飾りは、長年の摩耗ですでにつるつるになっていた。慧人は無言のまま、コイン大のそれを開けてみた。そこには、一・二歳のころと思われる、自分と同じ黒い髪をもつ赤ん坊の顔があった。その顔は、なにか面白いことをしてもらっているのか、いかにも楽しそうに二本の歯を見せて笑っているのだった。

「それは、あなたが二歳になった誕生日のときのものよ」

 彼女は静かな声で言った。「わたしは、それだけを持ってあの家を出たの。でも、決してあなたまでも捨てた訳じゃなかったわ」

「だが、結果として、こうなった……」

 慧人は苦々しげに言った。「──ということは、捨てたということとなんら変わりはない。俺は、数年もすれば四十に手が届く。もしかしたら、俺が生き伸びていたとしても、肝腎のあんたそのものがいなくなっていたかも知れない……」

「そのことは謝るわ」

 彼女の眼が、やや潤みがちになって来たのを慧人は見逃さなかった。長年月に刻まれた皺は、むしろ美しいほどに透明の涙を伝わせていた。

「わたしは、メドレーエフ大尉からあなたのことを聞いたとき、会わないでおこうと思った……。ほんとうは、こうしているときも、あなたをこの両手に抱き締めたくて、どうしていいか分からないくらい動揺しているわ。

 でも、これだけは、知っておいてもらいたいの。いまさら、母親づらをして説教なんかをするつもりはないけれど、あなたのお父さんは、それはいい人だったわ。わたしには、ほんとうにもったいないくらいの人だった。

 けれど、あの人にはわたしの存在が疎ましかったの。わたしがあの人を愛すれば愛するほど、あの人は遠ざかって行ったわ。まだ学生だったし、考えも甘かったのね。研究生活というものがどういうものか、ちゃんと解っていなかったの。わたしはあの人が好きで好きで、いつどんなときでも一緒にいたくて、五分でも一分でも、たとえ五秒でも見詰められていたくて、どうしようもなかった……。

 間違っても、ほかの学生にだけは渡したくない。わたしだけの、あの人にしておきたい。子どもを作れば、あの人はきっとわたしを振り返ってくれる、わたしを一人前の女として見てくれるようになる──そんなふうに思ったものだわ」

「つまり、俺は、親父を振り向かせるための手段だったというわけだ」

 慧人は、手にしていたペンダントを空へ放り投げて言った。それは、床のうえに固い音を響かせて転がった。看護婦が慌てて追いかけ、それを拾い上げる。

「気持ちの上では、そうだったかも知れない。でも──」

 彼女は、真正面に慧人を見据えて続けた。「わたしのほうから一方的に誘った訳ではないの。あの人も心の底では、わたしと同じように思い悩んでいたことが判ったわ。誰にも彼女を渡したくない。自分だけのものにしておきたい。つまり、わたしという存在を知ったお陰で、かれは専門の研究に専念することができず、焦りを感じていたの。

 それが私を遠ざけ、冷たくしていた理由だったわ。そんなふうなことが判って暫くして、わたしはあの人の気持ちを迎え入れた。そして、あなたという赤ちゃんを生んだのよ」

「ところが、子育ての大変さに手を焼いて、俺をほうり出した──」

 慧人は、自分でも不思議なくらい、素直な気持ちになれずに言い捨てた。

 言い終えたあと、言い知れぬ涙があふれそうになるのを感じたが、わざと皮肉を言うことで自分をごまかして続けた。「こんな生活には耐えられません。自由に生きさせてもらいますってな。そうじゃないのか」

「そうじゃないわ……。放り出されたのは、わたしのほう。最初は、それこそ幸せを絵に描いたような生活だった。わたしは、何度、この幸せな生活を与えてくれた神さまに感謝したか知れやしない。でも、そんな幸せな生活も束の間、わたしはふたりのことを伝え聞いたあの人の両親から別れさせられることになった。

伝統あるフォアライン家ただひとりの息子をわざわざ極東の大学研究室に勤めさせたのは、おまえのような年端も行かない東洋女と一緒にさせるためじゃないってね。

 あなたも知ってる、あの人の主任教授だったツヴァイゼン博士からも説得されたわ。

いま、別れたほうがお互いのためになる。きみはまだ若いし、今後、研究者としていくらでもやり直しがきく。だが、いま大切な研究開発に携わっているかれの、学者としての成功不成功は、まさにこの数年にかかっているのだ。幸いケイトのベビーシッター役や教育係には、名門の血筋を引く外国人夫妻が請け合ってくれた。ここに預ければ、経済その他の面でもまず問題はない。

このままでは、かれは純粋に研究に没頭できなくなる。名声がすべての学者の世界で、ここで頑張らなければ、かれは完全に学会からドロップアウトし、負け犬になってしまう。きみたち一家はますます不幸になるばかりだ。あの子の将来のためにも、このわたしのためにも、そして、かれの学者としての成功のためにも、きみから身を引くと言ってくれ。かれやかれの両親には、わたしからうまく伝えておく──何度も何度も、そう言って頼みに来たわ……」

「ふん。そんな無茶な話があってたまるものか──」

 慧人は、鼻汁を手の甲で拭いながら言った。「ツヴァイゼン博士は、いいひとだ。そんなことを言うはずがない」

「全部が全部信じてくれとは言わない。でも、わたしはあの人を愛していたわ。それだけは信じてほしいの。あなたのことも、この三十数年間というもの、ただの一日も忘れたことはなかったわ……」

 彼女の声は、すでにさきほどまでの感きわまったそれではなく、毅然とした軍人のそれになりつつあった。

慧人は、胸の奥からなにやら熱いものが込み上げて来て、なにも言えなくなっていた。あのペンダントの摩耗具合や大切にしまわれた瞳の大きい赤ん坊の古びた写真が、なによりも彼女のことばの真実と愛の深さを物語っていると思えたからだった。

 いつしか目頭にも潤んで来た涙のせいで、周囲の像が次第にぼやけてゆく……。あれほど言いたいこと、聞いて欲しいこと、訊ねてみたいことが山ほどあったのに──いざ、その機会が実現してみるとこんな憎まれ口しか出て来ない。

 かれは、物ごころついて初めて会った母、三十数年ぶりに出会った肉親を前に幼い子どもがするように、自分の不甲斐なさと不正直さを呪いながらうなだれた。

「それから、わたしは……」

 彼女は、返されたペンダントを握り締めながら続けた。「わたしがいることで、あの人の研究がほんとうにおろそかになり、あなたが不幸になるのだったら、自分から身を引こうと思った……。それが、当時のわたし──まだ学生で、なんの資格もないわたし──にできる、唯一の選択だったわ。

 わたしは身を切られる思いで、あなたと自分のやりたかった研究を諦め、旅に出た。

目標とする人も、自分の夢を託する子どもも、確たる人生の目的もなくなった。わたしは誰ひとりとして知る人のないこの地へやって来たわ。そしてある科学者、つまりいまは亡き夫、キルクーリ・ヤワルジャに出会い、ふたたび人生の目的を与えられた。

 キルクーリは、人類が地下で生活できるということを巨大なシェルターを使って実証しようとしていたわ。当時まだ解放戦線に過ぎなかったこの国の戦争は、十五年を過ぎるころには、北亜対南亜という地球を二分する戦争になってしまっていたけれど、キルクーリはそれを二十年も前に予測して、人類が不毛の砂漠の下で、いつまでも生きてゆける生物環境づくりを進めていたの。

 地下とはいえ、そこには熱帯もあり、湖もあり、海もあったわ。

わたしはキルクーリについて一生懸命に勉強し、さまざまのことを学んだ。そしてキルクーリが亡くなったときには、わたしは地中環境下での生物の在り方や遺伝の法則を研究するいっぱしの学者になっていた。でも、少しも嬉しくはなかった。キルクーリのいない世界は、なにもかもが色あせて見えたわ。けれど、こんなことではいけないと、一念発起した。かれがいなくなってぽっかりと開いた穴を埋めるため、あなたのお父さんと進めていた生物を使ったニューロン情報工学の研究に没頭した。十年が過ぎる頃には、この国のニューロン情報工学の第一人者として名前を知られるだけでなく、地下空間の構築法についても第一人者と呼ばれるくらいになっていた……。

 その頃には、戦争はますます長期化の様相を見せ、深刻化の一途をたどり始めていたわ。あなたがたの国がわたしたちをメディクスレニアンと呼び始めた頃よ。

 連日、戦場や市街での悲惨なニュースが報じられたわ。あちらでは連合軍が結成されたということだった。軍もわたしの研究を必要とするようになった。学会の長を通じて協力要請が来たわ。わたしはわたしに人生の目的を与えてくれ、生きる喜びを与えてくれたこの国の人々に感謝していたし、なによりも不毛の砂漠で、これらの人たちと創り出す喜びを共有して働くのが好きだった。

純朴な砂漠の民たちを無理やりに同化させようとする、ヘミノージアンたちの強引なやり方には反発を感じていた。だから、喜んでその要請に応じたわ。

 幸いわたしの研究は、すでに実施段階に入っていた。わたしの発見した遺伝学的な手法は、男性の数こそ多くは産出しなかったけれど、新生児の出生率を圧倒的に高めたわ。それというのも、人間の生物学的なホミニゼーション(環境適応力)は、ヒト化的にネオテニー形態をもつ女性、とくにモンゴロイド系やネグロイド系の女性において優れていたからよ。現在、ザンボア軍の兵士として働いてくれている女性たちの大部分は、そうして生まれて来た子どもたちで占められているわ。生まれながらにして、天才的な適応能力をもつように仕組まれた子どもたち──といっていいでしょう」

 彼女は、その後も問わず語りを続けていたが、その声もいまではほとんどかれの耳に達していなかった。そこまで聞いて来たとき、なぜザンボアの兵たちが、あのように幼い女兵士たちばかりだったのかの答えが得られた気がしたからだった。

 かれは、そこで初めて顔を上げ、母の顔を見た。

 その顔は、まさにわが子に許しを乞い、同意を得ようとしながら、あくまでも穏やかにかれに向けられていた……。

「それから、ちょうど五年ほどが経ったときだったかしら、偶然にもあなたのお父さんと出会ったの」

 慧人の耳がぴくりと動いた。

「あなたのお父さんは、捕虜として軍に連れて来られたわ。どんなに懐かしく嬉しく思ったことか──そのときの気持ちは、あなたには悪いけど、あなたがこの世に現れたのを見たとき以上に衝撃的で劇的だった……。

 わたしたちは、互いを見た途端、堰を切ったようにいろんなことを話したわ。あなたのことや互いの研究のこと、ここにいる理由や現在の生活のこと……。実にさまざまのことをあの人に訊ねられたり、訊ねたりした。その後で、かれは、わたしがそんなにもかれのことを愛していたとは知らなかった──と言ったわ。

 そう、あのツヴァイゼン博士は、わたしのことをちゃんと伝えてくれていなかったの。あの人はわたしのことを愛し続けていた、一日たりとも忘れたことはなかったといってくれたわ。でも、もともと心臓が弱かったのと癌が進行していた所為で、あの人の身体はほとんど取り返しがつかないほどぼろぼろになっていた……。

 それから二カ月後、あの人はあなたのことを訊ねながら息を引き取った。どんなに手を尽くしてもだめだった。でも、なんとかしてあの人に生き返ってもらおうと思った。少なくとも、その心だけは死なないで欲しいと思った。

 わたしは、あの人の脳を取り出し、さまざまの有機細胞と接続し、思考と生命維持に必要な栄養素と微弱な電気刺激を与えた。そして、有機細胞の末端をコンピュータにつないだ。そうすれば、肉体はなくともあの人の心だけは生きられる。また以前と同じように話ができる。人生で初めての、そして最大の賭けだった……。手術は成功したわ」


二二


 長い問わずもの語りが終局のときを迎えていた。

 彼女は、深い吐息をついて息子をみつめた。その眼はなにかを訴え、問いかけるように慧人の両眼に注がれていた。なにも言うことはなかった。いや、言えなかった。言えはしない──かれは思った。この女、いや、この母親がどんな悪いことをしたというのか。たかが学問のために、愛するわが子までも捨てさせられた哀れな女──そんな女に誰が非難できるというのか。

「あなたは覚えているかしら。お父さまに聞かされて知っているかも知れないけど、あなたはまだほんの一歳半のときに、割れたワイングラスのなかに手を入れて、手首を切ったことがあるのよ」

 かれは、右手の傷を見た。確かに父にそう聞かされていた。父は、そのときのことをいまだに気に病んでいると言っていた。というのも、そのワイングラスは慧人の父が彼女のことばに怒って床に投げつけたものだったからだ。

「あの時は、ほんとにびっくりしたわ」

 彼女は、柔らかな面差しを彼に向けて続けた。「ごめんなさいね、わたしが注意さえしていれば、あんなことにはならなかったのに……」

「大佐、もうそろそろお戻りになりませんと──」

 片目の大尉メドレーエフが、彼女のことばの続きを遮るようにして言った。美人看護婦が車椅子の彼女の背に手をかける。

「慧人、最後にこれだけは言っておくわ。あなたのお父さんは、ヘミノージアンたちの横暴に対して、いまもわたしたちと一緒に戦ってくれているわ。どちらを採るかは、あなた自身が決めること──。わたしはなにも言わない。あなたにしてみれば、母としての資格のない老いぼれ女が、いまさらなにを言っても無駄なことだとお思いでしょうからね。

 さようなら、慧人。

まだ生きているうちにあなたに会えたのは、ほんとうに嬉しかった。これで思い残すことはなにもないわ」

「待ってくれ」

 慧人は、車椅子を回転させようとする看護婦を制して言った。「あまりにも多くのことが頭のなかを駆け巡っていて、考えがまとまらない。もう少し時間がほしい……」

「ここには、あなたの好きなだけの時間があるわ」

「解った。暫く考えさせてくれ」

「さようなら、慧人。どんなことがあっても、今日のことは忘れはしない。あなたは立派だったわ」

 慧人は、椅子から降りて立とうとしたが、立てなかった。身体が完全に衰弱してしまっているようだった。脚だけでなく腕の筋肉にも力が入らない。かれは、そのままの姿勢で元の位置に崩れるように腰を降ろし、母の姿を見送った。

「どうやら、だいぶガタが来ているようだな」

 ネフドスが横合いから言った。「身体中の筋肉が縮んじまっているんだ」

「俺になにをした」

「いまから、四八時間だけきみに猶予をやろう」

 メドレーエフが、慧人の質問を無視して言った。「その間にどうするかを決めるがいい。いいか、これはきみの母君であるヤワルジャ大佐に免じて言うのだ。それさえなければ、きみはもう、その辺に落ちているゴミと同じ存在なんだよ」

「………………」

「もういい、連れて行け」

 大尉は一瞬の間を置いて、しびれを切らしたように言った。「わたしはこのとおり、気の長い人間だが、ウジウジしている人間を見るのは大嫌いなタチでね」

 メドレーエフのことばを合図に、女兵士が慧人に近寄って来る……。

「待ってくれ──」

 ふたりの兵士が両腕の間に手を伸ばそうとした寸前、慧人が言った。「俺を連れて行く前に、ひとつだけ質問に答えてくれないか。俺の親父は──親父の脳は、ほんとうにまだ生きているのか」

「ああ、ほんとうだとも、ケイト君」

 メドレーエフが、にこやかな笑みを復活させて言った。「ヤワルジャ大佐とフォアライン博士の脳の活躍のお陰で、われわれはずいぶんと助かっている。彼女は天才だ。フォアライン博士にしてもしかり。われわれはふたりが、わが陣営にいてくれることをとても誇りに思っているよ」

「そんなことは、どうでもいい。さっきあんたは、親父の脳髄が久し振りに俺と話をしたがっていると言っていたな」

「ああ、言っていたとも……」

「その話もほんとうなのか。もしほんとうだとしたら、その話はどこへ行った──」

「確かにそう言ったし、その話をどこかへやったつもりもない」

 メドレーエフは、悠然と構えながら答えた。勝者の余裕、いや、弱点を認めた者に対する寛大さが、ほんの一瞬だが、その鷲のような片眼にきらと光った。「きみがお望みとあれば、いつでも引き会わせてやることができる」

「もしたったいま、それを望んだとしたら、どうなる」

「別に、どうなるってものじゃない。会わせてやるさ」

 メドレーエフはその眼を見開き、大仰に両肩をすくめてみせて言った。「きみがその気になってくれれば、わが軍にとってこれほど喜ばしいことはない。われわれは、基本的に敵同士の関係にはないのだからな。手を結んで当然じゃないか──」

「いや、まだそうと決まった訳じゃない。早合点はしないでくれ。俺はただ、親父に会って話をしてみたいだけだ」

「結果は同じだ。きみは遅かれ早かれ、われわれと一緒に戦う運命にある。奇しくもきみの両親がそろって、わが軍の重要機密を握る人物であったとあれば、協力しない訳にもいくまい。親子で殺し合うのは、きみみたいな半インテリ文明人には、不向きな所業だろうからな」

「とにかく、会わせてくれ」

「まあ、会ってみるがいい。結論は、その後に聞かせてもらうとしよう」

 それから目隠しをされ、ネフドスと女兵士たちに伴われて、慧人が通されたのは、周囲の壁が眩いほどに白い、透明な部屋だった。

 何かに腰掛けさせられ、目隠しを取り外されたとき、かれは眼をその腕で覆った。壁は、その全体から強烈な白い光を発していて、まるで昼間の陰ひとつない光線のもとに放り出されたような感じだった。

「一体なんなんだ、こいつは──」

 慧人は、眩しさに眼を細めながら訊いた。

「神経遺伝生物学者ヤワルジャ大佐、つまり、おまえの母親の言によれば、この強い放射光がおまえの生物としての時計をもとに戻してくれるって話だ」

「つまり、俺は胎内時計を狂わせられるほど、身体のあちこちに酷い仕打ちを受けてたってことか……」

「まあ、そういうことだ」

 ネフドスはことなげに言った。「ところで、おまえにはここに暫くいてもらう。ヤワルジャ大佐御自らのご命令だ。お情けといってもいい。ここにいて四十分もすれば、おまえの身体は、もとどおりに近いものとなるだろう。そうしたら、おまえの父親に会わせてやる。俺はそれから十分ほどしてから、ここへ戻って来る。その間に体調をとり戻しておくんだ。ただし、元気になっても変な気を起こすんじゃないぞ」

「身体がもとに戻ると聞いて、逆らうような莫迦はいない」

「そうか──では、頼んだぞ」

 ネフドスが言うと、彼の後ろにいた女兵士たちがさっと慧人の両側に立ち、ステム・デストラクターを構えた。「念のために言っておくが──これらの兵士たちを女だと思って甘く見ると、大変な目に遭うことになるぞ」

「判ってるさ。俺は、女と子どもには手を出さない主義だ」

 ネフドスが去ったあと、かれは強い白色光を放つ光源に眼をやっていたが、一分もしないうちに眼を開けていられなくなった。頭のどこかが宙に浮いているようで、身体だけがそこに釘づけされているような感じがした。

 その後、三分間ほど一種の金縛りのような、身動きの取れなさがかれを苦しめた。考えること、見ること、感じることはできても、身体は動かないし、声が出せないのだった。急激な脱力感と倦怠感が身体全体を包み始める……。


 誰かが、遠くから自分を呼び、なにかを話しかけているのが聞こえた。だが、その声の主が誰で、どんなことを話しているのかは判らない。まるで砂漠の中に身を埋もれさせられ、首から上だけを地上に出している──ちょうどそんな感じがした。

「フォアラインさん、眼を醒ましてください」

 女の、それも聞いたこともない柔らかな声だった。それがいま、はっきりとした音量を伴い、明確なことばとなって、慧人の耳に聴こえて来た。身体がさらに揺すられる。眼を開けると、女の顔があった。自分が眠りにつく前、かたわらでステム・デストラクターを構えていた女兵士のそれだった。

「きみは──」

「しっ。あまり大きな声を出さないように。わたしは、あなたの味方です」

 慧人のことばを遮るように彼女は言った。「いま、もうひとりの兵士は、別のところへ行ってます。五分もしないうち戻って来ます。その間に話をしなければならない」

 彼女の顔は真剣だった。よく見ると、この兵士もまだ二十歳にもならない少女だと判った。が、その外見から受ける印象とは違って、彼女のことばは若干舌っ足らずだったが、動作は幼くもなければ、たどたどしいところもなかった。

「わたしとあなたは、父親こそ違え、血を分けた兄妹です」

「!」

「わたしは、あなたのお母さんの卵子から生まれました。父の名は判りません。けれど、ザンボアの優秀な兵士だったは間違いありません。その父の精子とあなたのお母さんの卵子が結合して生まれた、第二期めの子どもがわたしです」

 少女は、唖然として自分を凝視め続ける慧人の眼を見ながら続けた。その語り口は、このような場で話されるにしては不自然な翻訳調の共通語ではあったが、文法に適っており、北亜人にも充分通じる程度のものになっていた。

「あなたのお母さん、何百名ものザンボアの健康な女性たちのお腹を借りて、多くの子どもたちをこの世に生み出さしめました。その子どもたちは、地中環境に適応するため、多くの科学的実験手法を駆使して育てられました。そのようにして、あなたのお母さんはザンボア軍の兵力を増強しました。いま、わたしたちと一緒に前線や後方で任務についている兵士の約二五パーセントは、わたしと同じ第一期の子どもたち。みんなあなたのお母さんの血を引いています」

 自分の娘とさして変わらない年令の少女に、妹だと打ち明けられても、慧人には釈然としないものがあった。が、理論的な蓋然性の問題として考えるならば、それは大いにあり得ることなのだ。かれは、頭のなかでいろいろと考えを巡らせてはみたものの、なにを答えていいか解らず、ベッドに横たわった姿勢のまま、少女の邪気のない顔を見上げているほかなかった。

 あの老い先短い母親に、もし結集と団結力とを目的とした軍隊の養成が急眉のこととされれば、もっとも効果的なのは、同族としての軍の養成こそがもっとも威力を発揮する手段であるに違いない。同じ血を分けた兄弟たちが力を合わせれば、これほど強力で一枚岩となった軍隊は存在しないだろう。一種の母系制社会の復活が、そこにはもくろまれているのではないか……。

「あなたの会われた大尉──ルブアリ・マム=メドレーエフ大尉、そしてイシュタルからやってきて、あなたをサイキアナライザーにかけたネフドス軍曹。かれらはあなたのお母さんのやり方に異を唱えている人間。かれらは表立ってそれを口にしません。ですが、東洋出の女性が指揮権を握っているのに苛立ちを禁じ得なくなっています」

「民族の純血が損なわれると思っているのか」

「そう。そのとおり。その民族の純血──混血ではない同一種族の団結こそが、この戦いを支えると信じている人間たちです」

「で、俺にどうしろというんだ」

「ここから、逃げてほしいです。わたし、あなた助けます」

「きみはどうなる」

「たぶん、逃がした判ればわたし殺されるでしょう」

「じゃ、逃げる訳にはいかないな」

「どうして。あなたは、どうせ殺される。あなたから秘密を聞き出したあと、大尉はあなたを殺すつもり。とくにイシュタルから来た、あのネフドスという軍曹、なにを考えているわたし解りません」

 彼女は、隠し持っていたらしい武器を胸の間から取り出して言った。「これを持っていてください。ネフドスがあなたから取り上げた、あなたのデストラクターです」

 かれは無言でそれを受け取り、同じように胸の間へ隠して言った。

「判った。きみが俺の妹のひとりだというのなら、みすみす見殺しにする訳にはいかん。俺は生命のある限り、きみを助ける。そして、ここから逃げ出すんだ」

「駄目です。わたしは母親である、あなたのお母さんを裏切るわけいきません。わたしたち、この国を愛する、あなたのお母さんのつくった《ホームウーム》から生まれ、ここで死ぬと運命づけられた。そいういう存在です」

「そんな莫迦なことがあるか──」

 慧人は、確かに母のあの大きな瞳の面影を宿している、その少女の顔を凝視め、吐き捨てるように言った。「きみは若い。こんなつまらぬことのために死ぬより、もっともっと生命を賭けてやらねばならないことがいっぱいあるはずだ」

「しっ。ネフドスたち戻ってくる音、聴こえます」

 言った途端、彼女は慧人のそばを離れ、自分のステム・デストラクターを構えて続けた。「そのままベッドに横になって。眠っているふり続けてください」

 数秒後、ネフドスがさきほどいた女性兵士とその他の兵士数人を伴って入って来て、武器を構えている少女兵士に訊ねた。

「どうだ。その後、変わりはないか」

「はい。変わりはありません。ずっと眠ったままでいます」

「よし。上出来だ。眼を醒まさせろ」

 命令された少女は、乱暴に慧人の脇腹をステム・デストラクターの先でつついて言った。「起きろ。軍曹がお戻りになった」

 かれが眼を開けると、そこにはネフドスの顔があり、にやにやと笑っていた。

「え、どうだ、まだ眠いか。それ以上眠りこけていると脳味噌が溶けてしまうぞ。しゃんと眼をさませ、おまえの父親に会う時間だ。ついて来い」

 慧人は立ち上がった。かれはその動作を行ってから、それが容易に行えることに気づいた。確かに予告どおり、身体はしゃんとしていた。あの光の束が体内の疲れを取り去り、滋養分を照射してくれたのだろうか。太陽光のない地中で、生物が生物らしく生きるにはこの方法が用いられ、有効に利用されているのかも知れない。もしそうだとすれば、地中での生活とはいえ、地上と同様の生活が送れることになる。

このような世界を現実に提供し得た者が、《ホームウーム》という名の理想郷の創造者──つまりは、南亜の救い主と呼ばれて親しまれるほかにどんなことが考えられるだろうか。かれは少女の忠誠心を想い起こし、情熱ある発明者としての異国の母に共感を覚えすらした。問題は、しかし、そのような他所者の女に妬みを覚え、脅威を感じている者がいるということなのだ。

理想を理想として追い続けているかぎり問題は生じない。が、ひとたびその方法が確立され、誰の手によっても同じ結果が得られるとすれば──彼女の理想とし、純朴として愛したこんな小さな国にも醜い権謀術数は渦巻いているのだ。


二三


「さあ、そこへ坐れ」

 慧人の夢想を破ってネフドスの鋭い声が言った。「そこで好きなだけ、おまえの父と話をするがいい」

 慧人はその椅子に腰を降ろし、前方の空間に瞳を凝らした。その左右には、さまざまの機械が置かれ、ちょうど中央が闇の空洞のようになっていた。

「いま、おまえが見ている空間にはなにもない。が、そこには、おまえは父の姿を認めることができる。かれは、おまえを見ることができるし、動くこともその声を聞くこともできる。が、おまえに触れることはできない。なぜなら、その像は生前のおまえの父の姿を合成して作られたホロスコープ(立体画像)だからだ。だが、そのホロスコープは、かれの脳の命ずる形を採るように設定されている。かれは物理的特性をもたない存在──いや、意識と無意識の働きそのものだけで実体化している。いわば肉体のない存在だ」

「講釈は、どうでもいい。早く父を出してくれ」

 慧人は、ネフドスのいかにも得意げな弁舌を遮って言った。

「よかろう」

 ネフドスが手を上げた瞬間、眼の前に堂々とした椅子が現れ、ついで慧人と同じかやや年長の年格好をした男が、ゆっくりとした歩調でその椅子のところへやって来て坐った。

「慧人じゃな──」

 その男は足を組み、慧人の顔を真っすぐに見て言った。「おまえに会うのは、随分ひさしぶりのことだが、皮肉なことに、わしの姿はおまえの年齢とさして違わない男の姿に見えることじゃろう。それというのも、このスコープがその頃のわしのデータでしかもっておらんことによる……」

 確かにその顔や姿は、年老いてはおらず、二十数年前に生き別れたときの父の姿そのものといえた。ただ声だけが、老人のそれだった。

「さて、わしも余命いくばくもないこの年になって、よもやおまえと会おうとは思っておらなんだ。が、これもなにかの運命じゃろう。科学者の端くれとして、そんなことを本気で信じておる訳ではないが、こうも偶然が重なってはな。なにか尋常でない因縁を感じない訳にもいかんて──」

 ここでもまた慧人は、ことばが咽の奥で引き攣ってなにも出て来ないもどかしさを感じた。声の質と眼の前に見えている姿形のアンバランスさは、常識的な意味で奇異の念を起こさせはしたが、すでにかれの心は青年のときのそれに変わっていた。

 こうして実際に出会ってみると、いくら自分が大人であっても、いつまでも子どもであるという事実──親を眼の前にしているかぎり、子ども以外のどんな存在にもなれはしないという──永遠の真理の前に跪いてしまっていた。

ひとは、親の前では永遠に裸の存在なのだ。

「父さん……」

 かれはそう言ったまま、後の句が継げなかった。頭の周囲にある細い管の端から、なにやら気分が穏やかになる香りが、少しずつ吹き出してきているらしい。鼻孔を通り、肺に伝わっていくそれが妙に心地よく感じられた。

「おまえも、わしがここにこうしている経緯については母さんから聞いて知っておるじゃろう。わしはできれば、このわしの余命のあるうちにおまえと働くことができればと思っている……。

というのも、母さんはわしの生命を救ってくれた命の恩人だ。そして、この地に生涯を捧げようとして努力して来た人だ。その学者としての名声は、南亜大陸連邦だけではのうて、いまでは世界中に鳴り響いている。

ただ戦争が、彼女の業績を南亜の世界だけに押し込めたのだ。しかし、その生きざまはいまも間違っていない。母さんはつねに正しかった。強い者の側に立って弱い者をやっつけるのではなく、弱い者の立場に立ってその者の味方をする。生来の母さんの性分──誰をも平等に愛し育くもうとする深い情愛から出た行為だと言っていいじゃろう。

 母さんはつねに正義が勝つと信じ、信じるものに向かって突き進んで来た……。わしは、そんな母さんの姿勢に打たれた。それゆえ、いまのわしがここにある」

 暫くの間を置いて、慧人の父が続けた。

「な、わしたちと一緒に働くと言ってくれんか。この見かけとは違って、わしはそう長くはない。わしたちの後を継ぐ勇気ある者がほしいのだ。戦争のためではなく、真に世界の平和のために力を尽くしてくれる、真の人間がな……」

「父さん、俺はこの二十数年、いや、三十数年間というもの、ずっとひとりで過ごして来た。誰の力も借りず、すべて自分の力で生き抜いて来た。その間、ずいぶん辛いめにあったし、悔しい思いもして来た……。

 それというのも、すべて父さん、あんたの所為だ。俺はいま解った。なぜ、俺がまともに生きられなかったか。こんな風にしかものごとのありようが見えないのか──それはすべて、あんたのためなんだ。そりゃ確かに、経済的には苦労しなかったかも知れない。好きなことをさせてくれる養い親のもとで自由に育ったかも知れない。

 だが、俺には、親の愛情や家族の温かさというものを知らずに大きくなったという重大な欠陥があった。それが、その欠陥が、友人たちのすべてを遠ざけさせた。俺はいつもひとりぽっちで、身も世もなくて寂しくて、それで──」

 慧人は自分でもなにを言っているのか解らなかった。だいいち、こんな小学生でも言わないようなたわ言を四十まじかになって叫んでいること自体が不思議な気がした。

 しかし、気持ちのほうでは、ますますそうした恨みごとを言わないでは済まない気分になっていたし、なにか心につっかえたものを全部吐き出してすっきりしたいという気持ちでいっぱいだった。なんでもいい。心に思っていること、考えたこと、感じたこと、すべてを汚物を投げ捨てるように洗いざらい出してしまわなければ気が済まない。無性に眼の前の父に腹が立ち、その眼に凝視めていられるだけで苛立ちが募った。

「それに、ここに来たのだってそうだ。俺はなにも好き好んでこんなところに来た訳じゃない。確とした目的があって、ここに来た訳じゃないんだ。ただ、無理に連れ去られて、それで色いろと因果を含められて、南亜を攻める方策を考えさせられただけなんだ。

 そうさ。実に他愛のない、自堕落なことだよ。俺は、俺自身になんのポリシーもなく、ただ流されるままにここへ来たんだ。それも、俺のちょっとした思いつきが採用されたという、たったそれだけのことでここへ来たんだ」

「なに、そんなことは気にするな。別に大したことじゃない」

 慧人の父は、自暴自棄、というより他罰的になったかれを宥めるように穏やかな口調で諭した。「長い人生には、間違いや思い違いはつきものだ。そいつをおまえに命じたやつがどんな人物であるかは、おまえが一番ようく知っているさ。そいつに一泡吹かせてやるのも、おまえの決心次第だ。わしにすべてを打ち明けてくれれば、おまえになり代わって、この父さんが仕返しをしてやる。いままでおまえが寂しい思いをし、ひとりで苦しみぬいて解決して来たことも、これからはこの父と一緒に解決してゆくことができるのだ」

「父さん」

 かれの脳裏は、子どもである自分の未熟さ悔しさでいっぱいになっていた。遠くから聞こえて来る父のことばは、まさにかれが孤独の隔壁のなかで、絶望の思いに身を打ちひしがれていたとき、切に望み、心から欲していた声そのものだった。

 なぜか、ツヴァィゼン博士の顔が浮かんで来、無性にその顔が憎く感じた。そうだ、あの男の所為で、母さんは父さんと別れさせられることになったんだ。あいつさえ、余計なことを言わなければ、父は母は、いや、この俺さえも、こんな訳も分からないことに巻き込まれずに済んだんだ──。

「父さん、俺はあいつが憎い。殺してやりたいほど憎い」

「誰だね、そのあいつというのは……」

「ツヴァィゼンだ。あの男は、母さんから父さんを奪い、この俺から母さんを奪った。それも生物ロボット神経学だのニューロン情報工学の体系的プログラムだの──のために。俺は知っているんだ。ツヴァィゼン博士は、父さんの栄誉のために母さんと別れさせ、父さんに研究を進めさせたのではなく、自分自身の研究発表のために父さんの頭脳を利用したんだ。母さんはなにも言わなかったが、俺には解っている。すべてあのツヴァィゼンが私欲のために仕組んだことなのだ……」

「そのツヴァィゼンはいまどこにいるんだね」

 慧人の父の声は、徐々にその老人らしいことばづかいを失い、北亜共通語に戻っていたが、興奮している慧人には解らなかった。かれの精神状態は、完全に十歳そこそこの歳に戻っており、血気盛んな若さゆえの正義感と激しさに身を焦がしてものを喋っていた。

「ツヴァィゼンは、いま──」

 慧人が言いかけたとき、例の少女兵士が素早くネフドスの首に腕を回し、もっていたステム・デストラクターをそのこめかみにあてて大声で叫んだ。

「さあ、いまのうちです。逃げてください」

 その大きな声に慧人はわれに還った。そして振り返りざま、ステム・デストラクターを突き付けている少女を見た。

 そうか、この親父は、このホロスコープほんものじゃない。自分は危うく幼児期の記憶を改造されて、ぺらぺらと仲間の名前を漏らしてしまうところだったのだ。

 ネフドスが、いかにも憎らしげに唸り声を上げて言った。

「馬鹿な。この要塞からは決して逃げられやしない……」

「動くな。そのままの姿勢で待ちなさい」

 少女兵士は、周囲にいる兵士たちが動こうとする気配を察知し、トリガーにかけた指を引き絞る様子を見せてザンボア語で続けた。「ほかの者たちもちょっとでも動いたら、軍曹の脳味噌が吹き飛ぶことになる。上官を見殺しにした罪がどんなに恐ろしいかは、あなたたちが一番よく知ってるはずだわね」

「すまない、ミス──」

「サレムです。さあ、行ってください。なにをしているですか」

「ありがとう、サレム。この恩は一生忘れない」

 かれは胸の間からデストラクターを取り出し、彼女の後ろへ回って言った。「──と言いたいところだが、きみをここに置いて行くわけにはいかない。さあ、みんな武器をここへ投げろ。そして壁に向かって立つんだ。そう、いい子だ」

 言いながら、かれはステム・デストラクターの目盛りを最小限にセットした。ちょうど携帯イレイザーの二倍の威力だ。〇・二秒間でも照射すれば、最大四十分間にわたる直近の記憶を消し去ってしまうことができた。

 かれはひとりずつに狙いを定めると、ほんの数秒で、そこにいた兵士の全員を床にへたり込ませた。ステム・デストラクターのいいところは、記憶も消し去ってしまえるが、万が一、頭に命中しなかった場合でも、身体に当たってさえいれば、運動をつかさどる全神経を一時的に麻痺させられる威力があることだった。

「さあて、と。これで邪魔者はいなくなった……」

 慧人は素早くジャケットを脱ぎ、ステム・デストラクターをもった手をそれでくるむと、その筒先をネフドスの腰に突き付けて言った。「それでは、軍曹どの、出口まで案内してもらいましょうかな」

「出口まで行ったところで、おまえたちは逃げられはせん」

「逃げおおせるかどうかは、軍曹どの、あんたの心掛け次第だ。さあ、サレム、行くぞ」「わたしは行けません。ここに残ります……」

「なにを言ってる。俺ひとりで、こんなただっ広いなかを逃げきれると思うか」

 慧人はネフドスの身体を前に突き出して言った。「まして、こんな何をやらかすか判らない、おっかないオッサンを引き連れているんだぞ」

「サレム。そんなことをすれば、後でどうなるかわかっているだろうな」

 ネフドスが、首のぶんだけ彼女を振り返るようにして言った。「この場で、こいつを倒せ。そうすれば、軍法会議にはかけない。むしろ一階級昇進も約束しよう」

「こんなクソ嘘つき野郎のいうことを信じるな、サレム。きみは、どのみちこいつらに消されることになるんだぞ」

「解りました……」

 サレムが意を決したように答えた。「それでは出口のところまで、安全に行けるようにあなたを援護します」

「そう来なくっちゃ──」

 慧人は、ぐいとネフドスの腰を突いて言った。「さあて、話がまとまったところで出かけますかな、ネフドス軍曹。おっと、うっかり忘れてしまうところだった。その前にほんものの親父の脳がしまってある部屋に案内しろ」

「!」

一瞬の沈黙のあと、ネフドスは慧人がここに連れて来られたときと同じように、両手をそろそろと挙げながら言った。「どうして、あれが偽物だと判った」

「両手は挙げなくていい。普通にしていろ」

 慧人は腕に力を込め、ネフドスが腰に下げていたレーザーガンを取り上げて言った。「ただし、こいつは預かっておく。変な気を起こされちゃかなわんからな」

「答えろ。どうして、偽物だと判った」

「へん。さすがに俺も、その迫真の演技に度肝を抜かれ、その気にはなったさ。だが、親父は心話で話せる能力があった。そいつを憶い出したのさ。そういえば、親父なら、こんな七面倒臭い手続きは採らないはずだってね」

「心話か──噂には聞いたことがあるが、実際にそれを使えるやつにはまだお目にかかったことはないな」

 ネフドスは、慧人に促されるまま歩きながら言った。「どうだ。その心話ってやつを俺に試してみては」

「そいつは無理な注文だな。あれは、心が通い合っていてはじめて用が足せる体のもんだ。ホモでもなければ兄弟でもない、おまえさんとの関係には使えないね」

「しかし、俺はそれの使い手となると、他人の心語まで読めると聞いたぞ」

「残念だが、俺はまだその域にゃ達していないんだ。どうだい、安心したかね」

 慧人はネフドスにぴたりとついて前に歩かせ、自分の後ろを二歩ほど離れてついて来るサレムに聞こえるように言った。「サレム、お聞きのとおりだ。俺は、この男が嘘をついているかどうかを判断できない。こいつが間違った方向に俺を案内しそうになったら、間髪を入れずに教えてくれ。そんときゃ、容赦なくこいつの頭をブチぬく。デストラクターなんかでなくて、こいつの愛用レーザーガンでな」

「解りました」

 彼女は、歩調を緩めることなく、はきはきとした兵隊ことばで答えた。「現在までのところ、間違っていません」

「ふん。この女は──」

 ネフドスがせせら笑いを浮かべて言った。「単なる護衛兵にすぎない。軍の重要機密に属する部屋の在り処など知らされていると思うのか。彼女は、おまえの命令を聞くと見せかけて、無意識のうちにわれわれの精鋭部隊が待機している場所に案内しているのだ」

「うるさい。黙って歩くんだ」

「やはりおまえは、根っからのお人よしだな。おまえを取っ捕まえたときもそう思ったが、ひとの言うことを安易に信じすぎる……」

「そうかも知れん──」

 慧人はいったんは、認める気になった自分の素直さを戒めて続けた。「だが、お生憎さま。少なくともおまえさんの言うことだけは信じないさ、軍曹さん」

「だから、ずぶの素人は始末におえんというのだ」

 ネフドスが、からかうような、挑むような目つきで言い募った。「本格的な対心理戦の訓練を受けていない者は、なんでも自分の思いどおりにことが運ぶと思っている。考えてもみろ、この兵士はなぜおまえを解放したと思う」

「?」

「え、そんなことをして、なんのメリットがある。敵であるおまえを解放すれば、彼女になにが待っている。実に不思議なできごとだと思わんか──」

「………………」

「おまえの父のホロスコープがそうだったように、彼女はわれわれがプログラムしたフィクサロイドなのだ」

「!」

 慧人が足を止め、後ろのサレムを振り返って言った。「サレム──」

 そのことばを言い終えないうちに、慧人はいやというほど、みぞおちの中心に肘鉄を喰らわされていた。

 慧人がみぞおちを押さえて立ち上がろうとする頃、サレムは走り去ってゆくネフドスの後ろ姿に狙いを定めているのが見えた。と思ったつぎの瞬間、猛烈な勢いで走っていたネフドスが水に飛び込むような格好で前につんのめった。そしてその姿勢のまま、かれの姿は動かなくなっていた……。

「すまん、サレム」

 慧人は、苦痛に顔を歪めながら言った。「きみを疑ったりして悪かった……」

「大丈夫ですか」

「ああ。俺は大丈夫。そんなことより──」

「いいんです。さあ、行きましょう」

「待ってくれ。その前に、こいつを始末しなけりゃならん。どこかにこいつを隠しおおせるところはないか」

 慧人は、ネフドスの弛緩してしまった身体を担ぎ上げながら言った。

「あります。こっちへ来てください」

「よし」

 えいとばかり力んで立ち上がってみると、ネフドスの身体は意外と軽い気がした。火事場のバカ力とは、このことをいうのか。まるで意識のある人間を抱えているようだ。

 だが、そう思ったのは最初のうちだけで、意識を失ったネフドスの頑強な肉塊はにわか兵士の荷ではなかった。かれは息を切らしながら、前を行くサレムに訊ねた。

「どこだ、サレム。早くしてくれ。こいつは、カバの図体ほどに重い……」

「もうすぐ。こちらです。さ、早く」

 小走りにサレムは言い、右手に見えて来た角で、かれを待った。

 そこは、廊下のくぼみのようになった、なにかの入り口のように見えた。慧人は、ようやくたどり着いて、ネフドスの身体を降ろし、一息をついた。

「ここは、非常用食糧の保管庫。よほどのことがない限り、誰も入って来ない」

「そうか。そいつは、いいアイデアだ。だが、俺の腰はもうどうにもならん」

 慧人は、腰をさすりながら言った。「悪いが、そっちを手伝ってくれないか」

 二人は倉庫のなかの、もっとも発見されにくい場所にネフドスの身体を横たえると、泥棒猫のように身をひそめてドアの外を窺った。

「よし、大丈夫だ。行こう」

 慧人が言った。だが、その声の元気さとは裏腹に、腰には激痛が走っていた。

「どうしたんですか」

「いや、なんでもない」

 慧人は言ったが、なんでもない訳はなかった。おそらくあの水中戦のときに受けた爆圧で腰の筋を傷めてしまったのだろう。だが、まさかこんなときにぎっくり腰になったので歩けないなんて言えはしない。かれは、内心わが身の脆弱さを呪いながら、サレムの後について走った。彼女の敏捷な身のこなしは、まるで若豹のようだった。

「そこの角で待っていてください」

 サレムが振り返って言った。「この先、あなたのお父さまのいらっしゃる部屋あります。でも、そこへ行くまでには大勢のオペレータいてあなた行く。すぐに見つかります」

「じゃ、どうするんだ」

「わたし先に入って、それとなく様子を探る。隙を見計らって、あなた呼びます」

「解った」

「もし、いまから三十分して、わたし戻って来なかったら、そのときは……」

「そのときは──」

「わたしが捕まった思ってください」

「それじゃ駄目だ。一緒に行こう」

「駄目です。まともに行ったら、あなた必ず殺される。あそこにはオペレータだけなく、護衛兵も待機しています」

「なにかほかに、いい方法はないのかね」

 慧人は、辺りを見回しながらつぶやいた。

「ひとつだけあります」

「なんだ」

「あそこに通じる通気口あります。そこから侵入するといいです」

「そいつは名案だ。それにしよう」

「でも……」

「でも、なんだ」

「それには、難関ひとつ、突破するの必要あるです」

「難関でもなんでもいい。そいつを突破しよう」

「じゃ、わたしについて来る。いいですね」

 彼女は来たときと同じように、羽根のような身軽さで身をひるがえして言った。

 即座に頷いたものの、かれにはその速さについてゆくのがやっとだった。せっかくあの光線のお陰で取り戻したと思った精気。それも、小さな穴を穿たれた風船の中身のように少しずつ消えてなくなりそうになっていた。

こんなところを走り回るのは、かれの肉体には向いていなかった。考えてみれば、あれから休憩もなしに走り回っているのだった。かれは息を切らし、ぜえぜえと荒い息を廊下じゅうに響かせながら、よたよたと走った。

「大丈夫ですか。少し休みましょうか」

 サレムが見るに見かねたのか、後ろを振り返って訊ねた。

「いや、いい。それより、その通気口というのはどこにあるんだ」

「すぐです。あの角を曲がったところ、入り口あります」

「そうか。もう少しなんだな」

 かれは息も絶え絶えに言い、また彼女についてよたよたと走った。

「着きました。ここがそれです」

 彼女が立ち止まって言った。「ここは、地中の空気を清浄に保つのコンピュータ制御室になっています。ここから、人が立って歩けるの給気管が各部屋に続いているです。いつもならオペレータがひとりしか常駐していないはずのですが、ほんとうのところ見てみないとわかりません……」

「いいだろう。何人いようと構わん。かれらには暫くの間、楽しい夢でも見てもらうとしよう──」

「わたし先、入ります。ここで待っていてください。もし大勢いれば、素知らぬ顔をして戻って来ます。後で、一挙に踏み込んでやっつけてしまいましょう」

「それもいいが、どうだ。いっそのこと、いまそいつをやってしまっちゃ」

「いいえ。相手が一人なら、わたし独りだけで充分です。いま一挙に踏み込めば、なかの様子が把握できていない以上、こちらに不利です」

「なるほど。こりゃ、一本取られちまったな」

 さすがは、ザンボアの誇る兵士だけのことはある。慧人は思った。実のところ、かれにはそのほうが有り難かった。というのも、心臓の搏動が激しく、いまにも破裂しそうだったからだ。訓練中、クーガーが忠告してくれたように足腰の筋肉はもっと鍛えぬいておくべきだった。かれは後ろめたい気持ちのまま、彼女のやや紅潮した横顔を眺めやりながら思った。しかし、彼女は慧人のことばに、にこりともしていなかった。確かに笑顔を返せる情況ではなかった。

「では、ここで待っていてください」

「ああ、気をつけて」

 かれは、手を振って答えた。よほど厳しい訓練を受けて来たに違いない──本来なら、恋人との逢瀬を心待ちにして、身を焦がしているかも知れない年頃だ。

 慧人は、サレムの少女らしい、溌溂とした笑顔が見てみたい気がした。彼女なら、その笑顔はきっとすがすがしいものに見えることだろう。こうした不毛の戦さなどない、もっと平穏な時代に生まれて来ていたなら、彼女こそは伸び伸びとした悔いのない青春を謳歌し、瑞々しい人生を送れていたかも知れなかったのに……。


二四


「大丈夫のようです。来てください」

 ドアが開き、サレムが顔を出して言った。慧人が入ると、そこは彼女の言っていたとおりコンピュータルームになっていて、さまざまの計器らしきものといくつものモニターがところせましと並べられていた。

 慧人は、それら計器の並んだ一角の机の上に、だらしなく俯せになっているオペレータらしき男の姿を認めて言った。

「殺っちまったのか」

「まさか。ひと眠りしているだけです。少なくとも三十分は眼を覚まさないでしょう」

「そうか、『ひと眠り』とはな。オペレータは、この男ひとりだけだったんだな」

 彼は言って、辺りを見回した。「で、これからどうする」

「あのドアを入って暫く降りて行く。すると給気装置あって、そこからすべての部屋に保守点検用パイプライン通じているです」

「よし、そこへ行ってみよう」

 慧人はサレムの先に立って、彼女のいう『空気清浄室』のドアを開けた。そしてなかへ入った途端、かれは足をすくめた。

そのために後から来たサレムが、かれの背にぶつかった。

「すまない。足元が見えなくなったんだ」

「気をつける必要のあります。電力節減のため、こうしたところ、ほとんど明かりが点いていないです」

「ああ。そのようだな」

 かれは言って、恐る恐る足を踏み出した。どうやら、真っ暗に見えたのは、そこから先が階段になっているからのようだった。手擦りに掴まりながら、かれは一歩また一歩と歩を進めた。そのうち、眼のほうが暗闇に慣れて来て、うすぼんやりとだが、足元が見えるようになって来た。そしてうっすらとした案内灯のようなものが、ほぼ十メートルほどの間隔を保って灯されているのがわかった。

 慧人は、深みへ向かって徐々に小さくなってゆく光点を目指して歩きながら、ぶるっと身を震わせた。空調設備が施していなかった所為か、内部は鳥肌が立つほどに寒かった。興奮が冷めて来て判ったことだが、地中内部の温度は、底へ行くにしたがって少しずつ冷えこんでいるようだった。

深い谷底に通じる階段が永遠に続くかと思われた頃、足元はいつの間にか水平になっていた。なにかが唸るような振動音が聞こえはじめ、辺りの空気がこころなしか、暖かさを増して来たように思えた。

「空気を送るところの装置が回転しているのです」

 サレムは、慧人のこころを読みでもしたかのように、中途半端な翻訳文調で言った。「この広い空間は、ドーム状になっております。ここに蓄えられた新鮮な空気、それは加温器のなかを通って暖められ、圧縮タービン風圧で各部屋に供給されるシステムです……」

 給気装置は、慧人が想像していたよりも遥かに巨大なものだった。かれは暗闇に聳え立つそれを首が折れるほどに見上げながら、思わず感嘆の声を漏らした。サレムは迷う様子も見せず、さっさと先に立って歩き、慧人を促した。

「ここから先は迷路です。保守点検用の通路には、風──つまり、圧搾空気は送られていることはありません。ですが、この壁一枚でつながっているです。もし間違って、通気口に続くドア開けるとします。すると、熱風噴き出して大変なことになります」

「では、どこかにヒビ割れかなにかが見つかったりしたときにはどうなるのかね」

 慧人は、好奇心に駆られて訊ねた。

「その場所の前後を遮断して補修するです」

「なるほど、そうすりゃ、風に吹き飛ばされないで済むというわけだ」

 言いながら、かれは他のことを思いついてさらに訊ねた。「ということは、もし誰かに追い掛けられても、そのなかに逃げ込めば、まず大丈夫というわけだな」

「確かにそうとも思いますが、通気口に逃げ込むして助かった者いません」

「ということは──」

 慧人は、嫌な予感に駆られて訊ねた。「そんなやつもいたという意味なのかね」

「現在いません。けれど、これの建設が始まったころ、そんな風にして姿消した者大勢いた。そう聞いているです」

「ふうむ。これだけのものを造るためにゃ、色いろとあったってこったな」

「そうのようです」

 サレムは、歩調を緩めず、なんの感情も交えずに応えた。「労働者の大半が、囚人か捕虜だった。そう聞いているですから……」

 慧人はある直感がひらめき、心臓の鼓動が激しくなったのを感じた。つまりは、俺の親父も、脳髄で保存されるまではここで働かされていたってわけか──砂や泥の粉塵がもうもうとたちこめ、酸素もろくすっぽ供給されない、こんな暗い冷たい穴蔵のなかで……。

 これだけの穴を掘るには、どれだけの年月や動員力が必要なのか見当もつかなかったが、かれは、誇り高く威厳に満ちた父の口惜しさと泥水にまみれた哀れな姿を想った。かれの心は急激に萎えてしまい、質問する気力も、これ以上歩き続ける気力さえもなくなるように思えた。いったいなんのために、俺はここへきたのか──誰もがよくやる悔しまぎれの悪態が口をついて出た。ほんとうにこれまでの俺の人生はいったいなんだったのか。

こうして四十面を下げて、俺自身の惨めな過去や両親の哀れな姿をただ眺めに来ただけなのか……。

「明かりが見えました。あれがそうです」

 疲れ切った慧人の耳に、サレムの柔らかな声が届いた。前方につかまって降りるはしご段のようなものがあり、そこから明かりが漏れているのだった。彼女は、音がしないようにそっと近づいて手招きした。はしごを降りると、その下からは話し声が聴こえて来ていた。男が数人で話しているようだった。

『──もっとよく探してみろ。どこかにいるはずだ』

 あの片目の大尉──サレムのいう、ルブアリ・マム=メドレーエフの声だった。辺りで数人の人間が動き回っている様子だった。

『しかし、どこにも見当たりません……』

 若い女の声が答えた。たぶん、女兵士なのだろう。その声には、厳しい上官を前にしたときの兵隊に特有の、どこか張りつめた空気があった。『あのネフドス軍曹の姿も見当たらないのです。一緒に連れ去られたのではないでしょうか』

『たとえ、連れ去られていようが連れて逃げていようが、ここからは出られるわけがないのだ。アブダルを呼べ。この仕事は、やつにやらせよう。やつは、ここの創成当時から常駐している一人だからな。きっと探し出してくれるだろう』

『解りました』

 兵士が出て行ったのか、ドアの閉まる音がした。慧人は、サレムの肩を叩いて彼女の耳へ囁くように言った。

「なんと言ってるんだ」慧人はサレムに訊ねた。

「わたしたちが見つからない、ネフドスも所在不明と言っています」

「そうか。どこかに、もっとよく見えるところはないのか」

「探してみます。下へ降りるの通路あった思います」

 サレムも同じように息を殺した囁き声で言った。

「頼む」

 そう言って、かれは見ることを諦め、耳を床にあてがった。彼女は、猫のように身軽に闇へ消えて行った。慧人は下の物音に耳を澄ました。

すると、さきほどまでくぐもって捉えにくかった音声が、いまは手にとるようにはっきりと聞こえた。

『──どうやら、きみのお仲間が逃げ出したらしい』

 メドレーエフ大尉がヘミのことばで言っていた。『しかし、そうは長く逃げていることはできまい。じきに懐かしい顔に会える。どうかね。その前に、わたしと取引をしてみないかね。決して悪い取引ではないと思うのだが。きみは美しい。実に奇麗だ。これまで出会った女性のなかで、最高の器量の持主といってもいい……』

 慧人はさらに耳を澄ました。

『そう。その取引というのは、きみの──』

『いやよ。聞きたくないわ。あんたなんかと取引をするくらいなら、豚とセックスさせられたほうがよっぽどましだわ』

 アンヌの声だ。ノウと言うときの、あの鼻にかかるアクセント。間違いない。生きていてくれたのだ──かれは思わず声を出しそうになって、慌てて気を落ち着かせた。

『そうか。せっかく生命だけは助けてやろうと思ったが、そうも行かないようだな』

『あんたなんか最低よ。男の風上にもおけやしない、最低のクソ男だわ』

『なんとでも言うがいい。いまに、あの男が捕まってここへやって来る。そのときには、その口を後悔することになる』

『かれに、なにをするっていうの』

『きみにとっては、最初で最後、これまでの人生で最高最大の特別ショーになる』

『卑怯よ』

『ところがそうじゃない。わたしは、そういうこともあろうかと思って、最初に取引を申し出た──。ごく紳士的にね。ところが、きみは断った。そうなれば、こちらのやりたいようにやらせてもらうしかない……。

 ところで、わたしたちは、きみの脳における定性と心理特性をサイキアナライザーに調べさせた。それによると、きみは、きみのご友人であるケイト君にいたくご執心だということが解った。わたし自身は、これほど楽しく、見ごたえのある芸術的心理ショーはないと思うがね──』

 慧人はもっとよく聞こうとして、さらに耳をすませた。誰かがかれの背中をつついた。慧人はびくっと身体をこわばらせ、徐々に両手を上げはじめた。

「わたしです。サレムです」

 サレムは、即座に慧人の口を塞いで言った。「例のものありました……」

「ああ、きみだったのか──」

 慧人は、ほっと胸を撫で降ろしながら言った。「俺は、てっきり。いや、そんなことはどうでもいい。そうか、あったか。そこへ行こう。俺の仲間のひとりがやつらに捕えられて、この下にいる。なんとしてでも助けなくちゃならん」

 深く頷いて先へ進みはじめたサレムへ、慧人は訊くともなく言った。

「どうして、最初に言ってくれなかったんだ。俺の仲間が捕えられているって──」

「知らなかったのです」

「知らなかった……」

「そうです。ついさきほどまで、あの女性がいたことはありませんでした」

「いなかっただと──」

 慧人は思わず声を高くして言ってしまい、そのつぎの瞬間、振り返って立ち止まったサレムに素早く口を塞がれていた。慧人は彼女の肩をやわらかく叩き、安心させてから口を開いた。「それまでは、つまり、彼女の姿を見かけなかったし、その情報を伝え聞いたこともなかったというんだな」

「はい。少なくともわたしの知っている限り、彼女、この基地にいたことありませんでした。あなた見張るように命令されてから後のこと、わかりません……」

「ちょっと待ってくれ。ということは、わたしが捕まってから、ほんの数時間しか経ってないということになるんだぞ」

「そうです。ほんの数時間前まで、彼女はここに捕まったことありませんでした。わたしたちが、あのバイオルーム──人体機能回復室に入った二時間前後前、捕えられた可能性のあると思います」

「どういうことだ。説明してくれ」

「なんのことの質問されているか……」

 サレムは、慧人の真剣な表情に申し訳なさそうな顔で答えた。「わたしには、あなたの質問の意味、よく把握しません」

「待てよ……。そうか」

 かれはサレムの両腕を取り、その身体を揺すぶって言った。「サレム、俺は一体いつ、ここに連れて来られた。今日か、昨日か、それとも三週間前か──」

「今朝です。それもまだ未明の頃に──」

 慧人の心にショックが走った。現実に揺り戻され、深い真っ黒の穴に落とされたような気がした。かれは徐々に記憶の糸を手繰りながら思った。結局、俺はついさっき、あのネフドスという男にここへ連れ込まれたのだ。そして何日も経ったような身体感覚と時間経過意識を脳に埋め込まれただけなのだ……。

「なるほど。それでやっと解ったぞ。彼女は、俺を助けようとして忍びこんだのだ。たぶん俺がネフドスに連れて行かれるのを見て後を尾け、それでなかへ入ったんだ」

 かれはあらんかぎりの力で空を握り締め、唸るように言った。「ちくしょお、クソ野郎どもめが──俺をペテンにかけやがったんだな」

「一体なんの──」

 サレムが恐れるように慧人を見ながらなにかを言おうとしたが、かれのつぎのことばに飲み込まれるようにして消えた。

「ということは、サレム、ネフドスの言うようにきみもグルだったということなのか。こんな手のこんだ猿芝居をして、一体──」

 今度は、かれが制される番だった。サレムはあっという間にかれの口を塞ぎ、辺りを憚るように小さな声で言った。

「なんのことを仰っているのか解りません。けれど、わたしあなたの味方です」

 その眼は、真剣にかれの眼を見続けていた。「信じてください。本当です。わたしは、あなたを助けるため、ここにいるです」

 数秒間の沈黙、いや、互いの眼の色と心の動きをうかがう寸隙が流れ、慧人が彼女の手を離して言った。

「解った──きみを信じよう。どういうカラクリになっているのか知らないが、いまはアンヌを救い出すことのほうが先決だ」

 サレムはかれの眼を見詰め、例のごとく深く頷いて言った。

「行きましょう。さ、早く。こっちです」

 慧人はなにも考えず、サレムに従いて走った。いまはこうするほかはない。彼女が何者であろうと──そして、敵であったろうと。サレムのほかに、この迷路を無事くぐりぬけることのできる者はいないのだから……。


『──アブダル、おまえの部下の敵討ちをさせてやろう』

 慧人が通気口の通路から降り立ち、明かりの漏れているドアの前に出たとき、メドレーエフ大尉の声が耳に入って来た。「ルメラやラク・ルーをやったのは、この女とその仲間たちだ」

『畜生、よくも──』

『まあ、待て、アブダル』

 メドレーエフ大尉は、余裕たっぷり鷹揚に構えて言った。『殺してしまうのはいつでもできる。だが、ただ殺したのでは面白くない。それに一気に殺ってしまったのでは、せっかく美の神が与えたもうた、万にひとつもない僥倖を逃してしまうというもの』

『では……』

『そうだ。このご婦人は、いたって気が強くていらっしゃる。生なかなことでは死の恐怖をお感じにはならない人なのだよ。きみも、わたしの芸術が気にいっておらんわけでもあるまい。生きながらにして、なお苦痛から逃れられぬ生への恐怖が、もっとも人間を堕落させる。わたしは、人間が堕落してゆくさまを見るのが好きだ。

どんな人間もタナトスへの憧れはある。だが、生を恐れる者はいない。生を恐れて、かつ死を受け容れることのできぬ苦しみは、まさに地獄の様相を呈する──その苦しみを味わってこそ、真に人間は死を生として認め、自らの無知と傲慢を悟ることができるのだ』

 メドレーエフは、自分の歪んだ芸術哲学に酔いしれ、きっと震えながらかれを眺めているであろうアブダルの視線を想像して続けた。

『死は、決して美しいものではない。だが、人はなぜかそれが美しいものと信じ込んでいる。かつての宗教がそうだった。かれらは、殉教と称するものをあまりにも美化しすぎている。英雄の死しかり。軍人の死しかり。とくに殉教者の死は、エクスタシーそのものなのだ。ニルヴァーナへの憧れに満ち、恍惚とさえしている。

 だが、現実はそうではない。死とは美しいものではない。まったき醜く、ぶざまなものなのだ。それをわたしは、この女に解らせてやりたいのだ』

 途方もない事態になりそうな気配を感じ、慧人はサレムを見やった。彼女はステム・デストラクターを真横に向けて構え、ドアを背に立った。

『いいか。必ず、こいつの仲間を見つけ出せ』

 メドレーエフ大尉は言った。『そして、一時間以内にここへ連れて来るんだ。もしおまえがそうできなければ、おまえもこいつと同じめに遭うと思え。いいな、一時間以内だぞ。一分たりとも遅れるな』

『解りました、大尉殿。お任せください。必ず一時間以内に捕えてご覧に入れます』

『よし。行け──』

 メドレーエフ大尉はアブダルが出て行ったのを見定め、アンヌのほうへ向き直って言った。『お聞きのとおりだ、マダム。あと一時間もすれば、きみの友人がやって来る。それと同時に、素晴らしい見世物が始まるということだ。それも衆人環視の真っただなかという、極めて刺激的なシチュアシォンでな』

『ふん、シチューだか、ソテーだか知らないけど、勝手にすればいいわ。それに断っておきますけど、わたしはマダムと呼ばれる覚えはないし、クラインというれっきとした名前があるんですからね』

『ほほう。なるほど──』

 大尉は、胸ポケットから葉巻を取り出して言った。『不幸にして、いまだ理想の相手を求めておいでの、誇り高きミス・クラインというわけだ』

『お生憎さまだけど、結婚したことがないというだけで、あんたがそのいやらしい頭で想像するようなおぼこ娘というのでもないわ』

『ほおう、ほっほ、そうだろうとも。そうだろうとも』

 大尉はさも楽しげに笑い、悠然とした態度で葉巻をくゆらせた後、そのもうもうとした煙をアンヌにふりかけて言った。『その年で男を知らずに来たとすれば、よほどの変わり者か、それとも、男の歯牙にもかけられなかった不幸な女ということになる』

『ふん。なんとでも言うがいいわ』

『だが、マドモワゼル、言っておくが、きみはそんな女じゃない。わたしの見たところ、実に魅力的で野生味にあふれている。その動物的な睨み方といい、カンの鋭さといい、声のつややかさといい、実にセクシーだ。物おじしない、きらきらとしたその眼、その大きく黒い瞳によく似合うふさふさとしたブルネットの髪。やや薄く、横へ伸びてよく動く滑らかな唇、くびれた腰つき、怒りで紅潮した頬の温かさやいろ加減。そして上へぐんと張り出し、男心をそそらせずにはいないこの胸の張り具合……。まさにわたしの好み以外のなにものでもないといえる……』

『ちょっとなにするのよ、ごほっ。タバコの煙をかけないで。あんたなんかに、ごほっ、ほ、誉められても、ちっとも嬉しくなんかないわ』

「おっと、そこまでだ」

 ドアの陰から誰かが飛び出して来て、メドレーエフ大尉の額に向けたレーザーガンの引金を絞りながら言った。「みんな動くな。動くと、大尉さんの頭に穴があく」

「ケイト──」

 アンヌが声のしたほうを振り返って言った。「ああ、やっと来てくれたのね」

「お、おまえは」

 メドレーエフが、慧人とサレムの姿を交互に見較べて言った。周りにいた兵士たちは、武器を構える暇もなく、サレムが両手で構えるふたつの銃口に眼を注ぎながら両手を上げていた。

「さあ、みんな。わたしの前に銃を捨てなさい」サレムは語気鋭く、周囲を遠巻きにして立っている女兵士たちに言った。「そして、壁に向かって立つのよ」

「うぬぬう、くそっ。一体、どこに潜んでいやがった……」

「なあに、おまえさんのような悪いやつの下にも奇特なこころざしをもつ、彼女のようなお嬢さまがいらっしゃったということだ」

 慧人は、用心深くメドレーエフに睨みを利かせ、アンヌの手枷を外してやりながら言った。枷はどれかひとつを開けると、ほかのもの──腰を固定して動けないようにする器具も足枷のほうも、すべてが自動的に開くようになっているようだった。「さあ、今度はおまえさんの番だ。ここへ坐れ」

 メドレーエフ大尉は、額に汗を滲ませじりじりと後じさっていた。

「坐れといったら、坐るんだ──」

 慧人が大声で怒鳴った。「一挙に廃人になってしまいたいのか」

 その声は部屋じゅうに響いたかと思われるほど、全員の耳にこだましていた。

メドレーエフ大尉は、のろのろと歩を進め、慧人の指し示している椅子に坐った。その眼は、噴怒に張り裂けんばかりになっていた。慧人は素早くかれの手をとり、それへかちりと枷をかけて言った。

「さあ、言ってもらおうか、大尉殿。一体、どんな芸術的心理ショーを披露したかったのかをな」

「待って──」

 アンヌが、慧人と大尉との間に入って言った。そして、右手を大きく後ろへ回したかと思うと、思いきり遠心力をつけて大尉の頬に打ちつけた。かれのしていたアイマスクが音とともに横へ吹っ飛び、明いたほうの眼が白目をむいた。

「いい気味よ。これですっとしたわ」

 アンヌは両手をはたき終え、中指を突き出す仕草をして言った。

「おいおい、アンヌ、それじゃ芸術的心理ショーにならんじゃないか」

「興味ないわ、そんなの」

「それもそうだ」慧人は言った。

「それより、一刻も早くこんなとこ出ましょうよ。たとえ一分だって、こんなところにはいたくないわ」

「ああ、そうだ、アンヌ。紹介しておこう。これは、サレム。俺を逃がしてくれたばかりか、ここまで連れて来てくれた人だ」

「かれを助けてくれてありがとう、サレム。あたしからも礼をいうわ。あたしは、レアンヌ。人はかれのように、アンヌって呼ぶわ。よろしくね」

「よろしく」

 サレムはことば少なに答え、慧人の袖を引っ張るようにして言った。「あれが、あなたのお父さんの脳を管理するバイオコンピュータ、です」

「あれが……」

 慧人はアンヌを助けるのが精一杯で、いままで注意を払わないでいた巨大コンピュータを見上げて唸るように言った。



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