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それから幾度かLauneに通い、そのたびに非常口のグリーンマンを観察しても、グリーンマンは動かなかった。……無生物に動く・動かないは、おかしいのかもしれないけれど。でも、動いたのだと考えないと、あの案内板からいなくなるなんて珍事は起こらないはずだ。
そんなことを考えながら、グリーンマンを凝視する。今日もそ知らぬ顔で、非常口の案内をしていた。
「乃逢ちゃん、そんなに気になる?」
小さめで口の細く背が高い薬罐を火にかけながら、後向きのマスターが問い掛けてきた。
「んー……そう、ですね……」
ゴブレットの冷たいレモン水に唇を濡らし、曖昧に返答をする。目は正直で、時々扉の上を見てしまう。
「乃逢ちゃんは甘い飲み物、平気?」
ガラスのポットに弁のついたプランジャーポット、缶に入ったアールグレイの紅茶葉、背の高いグラスを、カウンターの奥にあるチョコレート色の棚から次々と用意している。
「甘党なんで、平気です。何を作ってくれるんですか?」
更に引き出しからマジックのようにスプーンやガムシロップを続々と取り出しながら、マスターは口を開いた。
「今度メニューに新しいのを入れようと思うんだけどね、ちょっと感想を聞かせてほしいなと思って」
目を伏せて着々と用意をしていく様子は、迷いがなくて気持ちいいくらいだ。
「新しいの、ですか?」
普段から素敵なものを提供してくれるマスターが、今度はどのような目にも美味しい飲み物を用意してくれるのか、とても気になった。
マスターは意味深に口元に微笑を湛えながら、手際よく用意をしていく。一度沸いたお湯をプランジャーポットに入れ、温めて湯を捨てる。ティースプーンを缶に挿し、プランジャーポットにさらさらと茶葉を入れる。薬罐を手に取り、高いところからプランジャーポットへお湯を注ぐと、茶葉がくるくると踊りながら浮かび上がっては沈むのを繰り返す。弁の上げてある蓋を回してプランジャーポットを密封させ、カーネーションのようなピンクの砂が入った砂時計を、真っすぐのびる長い指が持ち上げて引っ繰り返した。
「新しいメニューといっても要はセパレートティーなんだけどね。ミルクと、グレープフルーツジュースと、あとはオレンジジュースとあるんだけど」
カウンターの上へビンに入った牛乳と黄色のグレープフルーツ、真ん丸なオレンジをリズムよく並べ、順に紹介しながら指でトントントンっと触れていく。
「どれがいい?」
マスターは楽しそうに手で指し示し、満面の笑みで小首を傾げた。
牛乳はよく紅茶と一緒に飲むからいいとして、グレープフルーツやオレンジが紅茶と混ざった味が、全然想像できなかった。完全に未知の飲み物だ。
「グレープフルーツとかオレンジって、紅茶と合うんですか?」
「それが合うんだよ。グレープフルーツだとさっぱり系、オレンジだと少し甘くて、二つともフルーティーで美味しいよ」
「フルーティー、ですか……」
「ちょっと怖いなら、ミルクにする? ミルクだとセパレートがくっきりして、見た目が楽しいから」
「え、分かれるんですか?」
「そう、二層にね」
こちら側からは見えないところにある冷蔵庫からミントの入っていない氷を取り出し、小さめのガラスのボウルにどんどん入れていく。
砂時計の最後の一粒がさらりと落ち、プランジャーポットの中の茶葉が完全に開いて沈んだのを確認してから、上げたまま固定してあった蓋の弁を下ろして茶葉が浮かび上がらないように底に固定する。茶漉しで少しだけ残った細かい茶葉を取り除きながら、プランジャーポットから勢い良く紅茶をボウルに注ぎ込む。氷同士が激しくぶつかる音と共に、紅茶の薫りがふわりとボウルを中心にして広がった。
その薫りを堪能しながら、視界の左端で捉えた動くものが気になり、扉の方を見た。
「……?」
動くものは、どこにもなかった。
やはり気のせいだったと思って、マスターの流れるような手先を見ようと視線を戻そうとした時、また何かが動いた。つい眉間に皺を寄せて、今度はそちらを向いて少しの変化も見逃さないようにじっくりと観察する。
床で、何かが動いた。不思議に思って少し身を乗り出すと、床に紙みたいなものが落ちている。
「?」
四角くないその紙は、ぴらりと端から勝手に捲れ上がると、床の上に文字通り立ち上がった。パンパン、と床にもろに触れていた側を叩くその形は、人の形。予感がして扉の上を見たら、白いドアの前にいる筈のグリーンマンはいなかった。
「うそ……」
体の汚れを一通り払いおわったグリーンマンは、スキップするような軽い足取りで扉の隙間をするりと通って外へ行ってしまった。
「どうかした?」
「ちょっ、ちょっとお手洗行ってきますっ!」
ガタガタっと大きな音を立ててしまったがそんなのお構いなしに立ち上がり、蹴破るような勢いで扉を押し開ける。
「乃逢ちゃん!?」
驚いたようなマスターの声と今までにないくらい騒がしく鳴るカウベルを無視して辺りを見回すと、グリーンマンは左側の通路を走っていた。白い壁ぎわを軽快なステップで駆け抜けていくグリーンマン。
グリーンマンが進む方角は、お隣のビルに繋がる連絡通路のある方角だった。お隣のビルには沢山のセレクトショップが入っていて、季節と流行を先取りした色鮮やかなファッションや小物類が所狭しと取り揃えられている。当然それが目当ての若い女性客が多く、どの時間に行ってもある程度のお客さんがウィンドウショッピングを楽しんでいる。
見失わないように、且つ気付かれないようにスピードを調整し、つかず離れずの距離を保ってグリーンマンを追った。連絡通路の階段をドット絵で描かれたゲームのキャラクターのようにジャンプで楽々クリアし、グリーンマンはお隣のビルを迷うことなく進んでいく。生成りの飾らないナチュラルな服を多く扱うお店の前を通り過ぎ、沢山の靴が棚一面に並べられたお店にも見向きもせず、沢山のマネキンやトルソーの前を通り過ぎていく。
グリーンマンは迷いもなく、軽快な足取りも変わることもなく、壁の端を進んでいく。壁の端を駆けていくグリーンマンに誰も目を留めることはなかった。いくら隅で下を移動しているとはいえ、白い壁にあんなに色の濃い緑色が動いていたら気付きそうなものだ。
だが、誰も気にすることも立ち止まることもない。何か不思議な力が働いているのかと疑いたくなるくらいだった。
ウィンドウショッピングを楽しむお客さんたちを障害物競走のように避けながら、見失わないように歩いていく。ビルの端の方まで脇目も振らずに進み、今で真っすぐに行っていたのに左の横道に入った。角の先で見失いたくなくて、走って見た先の角には、青い男性のマークがあった。
「え……?」
そこはまさに、先程口からでまかせで言ったお手洗の入り口だった。右には青い男性のマークがあって、左には赤い女性のマークが。
「……ない」
赤いワンピースを着た女性のマークは、あるべき場所にいなかった。半透明のプレート上に通常のものより少しスマートな男性マークがあって、けれど女性マークはない。
このお手洗のマークも、グリーンマン同様に動けるのだろうか。
お手洗の前で人気がないか周りを確認し、本当に答えてくれるか半信半疑で、けれど真剣に問い掛けた。
「……ねぇ、グリーンマンがどっちに行ったか、知らない?」
青い男性マークは、問い掛けてもうんともすんとも言わない。動くマークは、どこか普通のマークと違って何かが特別なのだろうか。
「やっぱり駄目かぁ……」
どこかで期待していた気持ちが裏切られて、落胆する。その場にしゃがみこみたくなる気持ちを抑え、溜息を吐きながら壁に手をついた。
その手をとんとん、と突かれ顔を上げると、男性マークが腕だけを壁から剥がして突いていた。
「動いた……。ねぇ、どっちに行ったか知ってる?」
体と離れて描かれた青い頭が、上下する。そのまま自由に動く腕で、お手洗の出口を指し、その次に来た道と逆の道を示した。
「ありがとっ!」
手がかりを得て、男性マークにお礼を言い教えられた通りの道を行く。
途中に『関係者意外立入禁止』と書かれた看板が立っていて、けれどどうしても気になってごめんなさいと心の中で謝って、先へ進む。看板を越えてすぐに角を曲がると、人気のない少し薄暗い通路の端、緑と赤が目に入った。
「いた……」
おもわず角に身を隠し、覗き見るようにして様子を窺う。
少し身長差のあるグリーンマンと女性マークが手を繋ぎ、仲睦まじそうに歩いている。どうもあの二人は付き合っているようだ。
そのまま息をこらして観察をしていたら、不意にグリーンマンが足を止めた。女性マークが不思議そうに急に止まったグリーンマンを見上げる。グリーンマンは右側の後ろに手を入れ、取り出した手の上には何かがあった。丸い、輪のような……。
グリーンマンは女性マークの左手と思われる側を取り、そっとそれをはめる。女性マークははめられたそれを光に透かすようにかざし、グリーンマンに抱きついた。グリーンマンは彼女を受けとめ、ひしと抱き締める。
なんというか、たぶん、二人にとっては人生の重大な節目なのだろうが。見ているこっちからすると、人形劇のようだ。
この先は見てはいけないかな、と思い、Launeに戻ることにした。きっとこの間も、お手洗前の彼女とのデートだったんだろうな、と想像しながら。