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EXiT!  作者: 間宮 榛
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 苺の季節が終わると、次は抹茶の季節だ。

 Laune(ラウネ)のシフォンケーキも、ピンクの可愛らしい苺味から若葉のような緑色の抹茶味に衣替えをした。苺のを何度か楽しみ、少し飽きたかな、というところで次のシフォンケーキに変わる時期がくる。世の中はうまく出来ている。もっとも、食べ飽きてくるまで通う私も私だ。きっとそんなお客さんはいないだろうな。飾りに一振りかけられた抹茶が食べおわったプレートに残っていて、それがもったいない気もしたけれど、だからといってフォークで綺麗にしようとするのははしたなく思えた。


「なんだかすっかり夏ですね」


 暦ではまだ春の筈なのに、気温は連日夏日を記録している。街中を歩く人たちもすっかり夏仕様の服装だ。勿論私もその波に乗り遅れることはない……と言いたいところだが、寒がりにとっては冷房のよく効く暑い日は逆にカーディガンなどの羽織りものが欠かせない。今は店内が寒すぎるわけではないのでミントグリーンのロングTシャツ一枚だけど、鞄の中には白いカーディガンを忍び込ませている。


「春の神様が仕事をサボってるのかもしれないね」


 いつもお水を入れて出してくれるゴブレットを直接触れぬように慎重且つ丁寧に磨きながら、マスターは嘘か真か計りかねる言葉を微笑して呟く。


「神様、ですか?」

「日本には八百万やおよろずの神様がいるというからね。春に神様がいてもおかしくない、とは思わない?」

「確かにそうですね」


 紅茶味の氷が浮くアイスミルクティーを、黒色のストローでゆっくり混ぜる。カラン、と涼しげな音を立てる氷が、照明の光を浴びてきらきらと琥珀色に輝く。空気との温度差でたっぷりと汗をかいたグラスは、注意して持たないと手から滑り落ちてしまいそうだ。

 カラン、と緑色に光る案内板の下でカウベルが鳴る。長袖の制服が少し暑いようで、腕まくりをした女子高生が二人入店した。


「いらっしゃいませ。お好きな席をどうぞ」


 磨き途中のグラスを置き笑顔で奥へ促すマスター。

 小鳥のように高くよく響く声が店内のボサノバを圧倒する。彼女達は口を止めることのないまま、唯一空いていたテーブル席の、あんこ色の革張りのアンティークソファに腰を下ろした。

 ああ、若い。自分と最大五歳しか変わらないはずなのに、物凄く若さで満ちあふれているように見える。……いや、私が枯れているとかそういうわけでは断じてないと信じている。いや、信じたい。

 彼女達から意識を外し、さっき目に留まった非常口の案内板に目を戻す。少し芽生えた違和感を確かめたかった。無口になったカウベルの上の、緑と白の案内板。白く光るドアの向こうからこちらに走ってくる形で止まった、緑色の人――私は心の中でグリーンマンと呼んでいる――のマーク。

 ……何か、違和感を感じるが、それが何だか分からない。進行方向である右を向いて止まったままのそれの、一体どこが変なのだろう。


「マスター、あれ、変じゃないですか?」


 私が差した指の先を辿り、新しいお客さんへ水を出し終えたマスターの視線が非常口を示す案内板とぶつかる。


「……そう?」


 カウンターに入る途中で止まったまま見つめ、首を傾げられてしまった。毎日いるマスターが不思議に思わないなら、きっと私の気のせいなのだろう。もう一度、アイスミルクティーを飲みながら、視線をドアの上にやる。当たり前のことながら、緑のそれに変化は全くない。

 気のせい、かな。

 最後の一口を音を立てないように飲み干して、私は席を立った。会計を済ませ、扉に手を伸ばしながら見上げる。白いドアの向こうに走り去ろうとして、左を向くグリーンマン。


「……?」


 先程と何か違う気がしたけど、どこが違うのか自分でもよくわからない。


「乃逢ちゃん?」

「……何でもないです。ご馳走様でした」

「ありがとうございました」


 すっかり普段の調子に戻ったマスターの声が、見送りをしてくれた。





 店に入ろうとして扉に手を掛けたら、中から男の人の声がした。聞き慣れたマスターの声と、知らない声。聞いたことがある気がするのだが、私の知り合いでここに来るような男の人はいただろうか。話は弾んでいるようで、淀みなく言葉が交わされている。邪魔をするのも何だか悪い気がしたけれど、私だってお客さんなんだから入りたい。

 会話を中断させてしまうのを覚悟で、でも心の中でごめんなさいと思いながら、ドアを開ける。カラン、とカウベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 本を片手に持ったまま、マスターは笑顔で迎え入れてくれた。カウンターでマスターが相手をしていたのは、常連のあの男の人だった。私がいつも座る席の隣、カウンターの一番端の席にいるその人は足元に鞄とブリーフケースを置き、何冊かカウンターの上に積み重ねていた。

 お茶をするには不向きな時間だからかその人以外にお客さんはおらず、窓から入る日も大分陰ってきている。


「乃逢ちゃん?」


 いつもの席は座られたも同然だし、かといってカウンターに座っても普段のようにマスターと話せるわけではない。席をどうしようかと扉の前で二の足を踏んでいたら、声をかけられた。


「あ、何でもないです」


 マスターの声につられるようにこちらを見た男性客と視線がかち合って、慌てて視線を逸らして奥のテーブル席へ足を向ける。カウンター側から一段低くなったテーブル席のある奥へ進み、今はカウンターにいる彼がいつか座っていた深緑の丸いソファに腰掛ける。西瓜を一部切り取って刳り貫いたようなそれの座面の革は柔らかく、座ると体を包み込むように馴染む。柔らかなクッションに腰は深めに沈みこみ、自然と深く、体の形にぴったりと寄り添う形で座ることになる。


「今日はこっちなの?」


 静かにゴブレットを置くマスターは不思議そうに少し目を細めている。


「たまにはそんな気分なんです。今日はアイスココアください」

「かしこまりました」


 一礼して去っていくマスターの背中を見送り、たまには本を読んでみようかな、と思った。本を読むのは好きだから、本に囲まれて紙やインクといった本の匂いがするこの空間も好きだ。もちろん、コーヒーや紅茶や甘いドルチェの匂いも大好きだけれど。

 荷物をそのままにして、たまにきしりと音を立てる板張りの床を歩き、一段の段差を上がってカウンターに背を向けて本を選ぶ。読める文字と読めない文字が坩堝のように混ぜて置かれた色鮮やかな本たちを、どれにしようか悩みながら眺める。稀にだけれど読んだことがある本もあれば、自分が持っている本も見かけた。しかしあまりに沢山の本があって、その色や装丁に目移りをしてしまう。

 ゆっくり眺めながら歩いていたら、背中越しにミルクと甘いココアの香りがし始めた。マスターがココアを作る音は聞こえるが、カウンターに座っている彼が発するはずの音はほとんど聞こえない。座っている彼が先程からさっぱり喋らなくなったのは、もしかしたら邪魔するように入店した私のせいなのだろうか。悪いことをしちゃったかもしれない。


「乃逢ちゃん、読む本決まった?」


 背中越しにかけられた声に、振り向かずに答える。なんとなく、カウンターの彼を見るのは悪い気がしていた。


「んー、沢山あって目移りしちゃいます」

「それなら、これ読んでみない?」


 何か音がしたのであまり気は乗らなかったけれど、マスターが薦める本も見てみたかったから振り向いた。

 マスターが持ち上げていたのはカウンターに積んであった本のうちの一冊で、雲が映り込む水平線がどこまでも続く中にぽつんとクリーム色の家が描かれている、なんともシンプルな表紙だった。水彩なのだろうか、シンプルな構図の中に様々な色が雑ざり込んでいる。その表紙に手書きと思われる丸みを帯びた字で『そらのあなた』と書いてある。


「画集、ですか?」

「ハズレ。これ、実は漫画なんだよ」

「えっ」


 カウンターに近づきそれを受け取り、画集やその見た目とは違う軽さに驚きながらそっと開く。中は確かに漫画で、表紙の絵と同じ雰囲気を纏った人物がモノクロの世界で色鮮やかに生きていた。


「そこに積んであるのが同じ作者さんのだから、興味あったらどうぞ」

「あ、はい……」


 ちらりと横目で右に座る彼を見る。本は彼のバリケードを形作るようにして積んであって、容易に手を出せなかった。


「……読み終わったんで、どぞ」


 私の視線かそれとも気配かは知らないが気付いてくれた彼が、積んであった四冊を片手で掴み差し出してくれた。


「あっ、ありがとうございます」


 それを両手で受け取って、窓際の席に戻った。ミルクティー色のローテーブルに音を立てないように置き、一番上の『そらのあなた』を手に取り表紙を開く。

 絵本のようなタッチで描かれる主人公には、背中に真っ白な羽根が生えていた。雲の上から下を覗いては、見えた人たちが必要と思うものを雲で創り、そっと下ろす主人公。雲の上で、ずっと独りの主人公。

 不意にコトリ、と音がして、作品世界に沈みかけていた意識が急速に浮上する。目を上げると、マスターがそぅっとローテーブルにグラスを置き終わったところだった。


「邪魔しちゃった、かな」

「いえ。ありがとうございます」

「それならよかった。ごゆっくり」

「はい」


 マスターがカウンターへ戻るのを見、ちょうど延長線上に見えた緑の光に目を留める。グリーンマンは今日も逃げる途中の格好で停まり、逃げ道を知らせている。白いドアの向こうに半分以上体を突っ込み、緑の体は半分しか見えない。普通の非常口案内板よりも、グリーンマンが奥にいる気がした。また前と同様に、気のせいだろうか。

 マスターに話しかけるには距離が遠い気がして、違和感を飲み込んでココアに意識を向けることにした。足のついたグラスに入れられたココアが一般的なココアより僅かに色が薄く見えるのは、きっとミルクの割合が通常のレシピよりも多いからだろう。上にはホイップが敷き詰められていて、パフェのようにチョコソースと荒く砕いたクラッシュアーモンドがかけられている。グラスの横に添えられた柄の長いスプーンを持ち一口掬ってホイップを食べると、固めに泡立てられたそれの控えめな甘さとチョコソースの甘さ、ココアの風味にアーモンドの触感が一度に口の中へ広がった。もう一口だけ食べて、空いた穴に黒いストローを挿す。細い管から口の中へ溢れるように入ってくるのはカカオの濃厚な薫りとミルクと砂糖の甘さ、微かに感じるスパイスの風味。やっぱり市販のものや自分が作るココアとは一味違う。マスターは製菓学校に通っていたという話は、あながち嘘じゃないのだろう。

 十分に舌鼓を打ったところで、途中まで読んだ『そらのあなた』に再び手をつける。


 そこから先はココアに手を伸ばすことなく一気に読み、白黒なのに極彩色に見える虹が紙面一面に出てくるラストシーンまで、『そらのあなた』の世界に深く沈み、溺れ続けた。虹のページを捲り、開いたページが奥付であると気付き、私の意識はそこでやっと本の世界を泳ぎきり、現実世界に戻ってきた。今までは本の世界に住む住人たちの声しか掬い上げなかった耳が、店内に広がるやわらかいボサノバのメロディを拾い始める。

 急速に、今まで滲んでぼやけていた現実世界が、私を包む。

 意識はまだ本の世界を引きずっていて、耳に心地よい音楽も薄いガラスを通して聞いているみたいに不確かだ。それほど吸引力の強い、一度読み始めたらしばらく意識を飲み込まれたままになってしまうような、そんな不思議な力のある物語世界だった。


 本を読んだ後は、しばらくほうけていた。本の世界に飲み込まれやすい私には、この世界は少し強すぎて、なかなか上手く本の世界から戻ってこれなかった。ピントがずれて輪郭がふわふわしていた周囲に焦点が合うようになり、存在を主張しはじめる。

 窓に帯状にはめられたステンドグラスから、今日の終わりを知らせる夕日の欠片が転がり込んでくる。磨り硝子越しの空は既に朱を過ぎ、白と紺のグラデーションになっている。店内には相変わらずコーヒーの香りが漂っていて、この時間に地元の住宅街を歩いたら家々から洩れる様々な夕食の匂いがするはずなのに、今嗅いでいるのは紅茶の匂いだと思うと、ここだけいつまでも時が止まっているように感じてしまう。

 時間の隙間におっこちて、取り残されたような気分だった。

 表面に余すところなく水滴を付けたグラスでは、周りの小さな水滴を取り込み、筋を描いて大きくなった水滴が表面を滑り落ちていく。まるで生きて汗をかいているみたいだった。手が濡れないようにグラスの足を持って、ストローに口をつける。ココアの甘さが舌を刺激して、ようやくずれていた意識が体にぴったりと収まった気がした。

 横目で見たカウンターには相変わらず常連の彼とマスターがいて、小さな声で言葉を交わしている。私には丁度いいカウンターの椅子も背の高い彼には少し小さいようで、ダメージジーンズに包んだ足を組んでもまだ足りないようだった。

 真面目な顔をして言葉を紡いでいたマスターが、相好を崩す。それにつられるように、常連の彼も口元を緩める。いつも仏頂面と言ってもおかしくない顔しか見たことがない私には、笑うその顔が不思議だった。人間なのだから笑わないとは思っていなかったが、笑うと幼い印象になるのが意外だった。いつもは無表情というか怒った顔というか、とにかく仏頂面で大人っぽく見えていたのだ。意外なことの目撃と発見に、ひとり吃驚した。

 驚きをココアとともに飲み込んで、それでも気になるからとつい目がそちらを見てしまう。わざとらしくなりすぎないように、首をそれほど動かさないようにして観察する。


 彼らの向こう、緑の光が目に入る。非常口を示す案内板の白いドアの前に、グリーンマンがいなかった。


「!」


 ストローから吸い込んでいたココアが、驚きのあまり吸い込んだ空気とともに気管に流入する。異物が入ってくる痛さにおもわずむせてしまった。


「乃逢ちゃん!?」


 ガタガタっとカウンターの方から物音がしたのが聞こえた。奥の方まで誤って吸い込んでしまったようで、口を押さえて激しく咳き込んでいたら、不意に大きな手が丸めている背中に触れた。そのまま手は労るように背中をさすってくれた。何度も咳をして、呼吸が整うまで下を向いたまましばらく口を押さえる。その間中、手は背中を往復しつづけ、止まることはなかった。

 気管に少し違和感は残るものの、ようやく普段どおり息ができるようになって顔を上げると、隣にいたのは膝を床についたマスターだった。


「乃逢ちゃん、大丈夫?」


 眉を八の字にしながら水の入ったゴブレットを差し出され、今できるかぎりの笑顔で受け取った。


「ありがとうございます……もう、大丈夫です」

「それならいいんだけど。何でむせたの?」

「あっ、それなんですけど、あそこの非常口のからグリーンマンが消えてて」

「グリーンマン?」


 その時の驚きをはっきり思い出し、その勢いのまま入り口の方を指差す。

 マスターとともに見ると、じっと観察するように私を見ていたカウンターの彼と目が合った。今までのが見られていたと思うと恥ずかしくて、かち合った視線を一瞬で逸らして扉の上に照準を合わせる。

 グリーンマンは、ちゃんといるべき場所でやるべき仕事をしていた。


「……え?」

「別に……いつもと変わらないと思う、よ?」

「……そう、ですね……」


 では、あれは、幻だったのだろうか。グリーンマンが動くなんて、有り得ないはずだ。でも、確かにこの目でグリーンマンがいないところを見たはずなのに。


「見間違い、じゃないかな?」


 微笑を口元に湛えて首を傾げるマスター。何故だかわからないけれど、誤魔化されている気がした。あんなにはっきりと見て、見間違いとは思えなかったけど、そんな非常識なことを言えるわけがなくて。


「……かもしれないです。すいません、お騒がせして」


 もやもやを頭の中に残したまま、ぺこ、と頭を下げておいた。


「いや、全然。本当にもう大丈夫?」

「もうばっちりです」


 まだ微かに心配そうにしている気配が読み取れて、不調なんてどこにもないような顔をして答える。


「それならよかった」

「本当にすいませんでした」

「いえいえ」


 マスターはやわらかく笑みを浮かべ、カウンターの中へと戻っていった。カウンターの彼も、何事もなかったかのように元の姿勢に戻っている。釈然としないまま、私はココアを飲み干した。



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