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中心街から見ると微妙に郊外、田舎から見ると都会に住んでいる私は、『街』に出るとなんとなく行くところが決まっている。きっとずっと狭い世界で暮らしてきたから、いきなり広い世界に放り出されるのが不安なんだと思う。実際自分の心に問いただしてみたら案の定思っていたとおりの答えが返ってきて、やっぱり私は私なんだと感じた。
高校は街中にあって、定期の範囲内なら帰り道にいくらでも寄り道をすることができた。けれど行くところはいつも同じで、食べるものも大体一緒。たまには違う店もいいかな、なんて浮気心が私をくすぐるけれど、やっぱり行くのはいつものお店。
私が高校から大学生になっても通っているカフェは、中心街にあるビルの五階にある。シフォンケーキとワンプレートランチの美味しいカフェで、手のきれいなマスターともすっかり顔馴染みになるくらいの常連だ。
そこのカフェの名前はLauneという。ドイツ語できまぐれ、ラテン語で月という意味らしい。
マスターに言ったことはないけれど、私はこのまま心地よい雰囲気を保っていってほしいな、と密かに思っている。
カラン、とカウベルを揺らして、来客を告げる扉をくぐる。
「いらっしゃいませ」
続けて聞こえる低い声は、私の耳によく馴染んだものと少し違う響きだった。
「こんにちは、乃逢ちゃん。一週間ぶりだね」
「こんにちは。そうでしたっけ?」
緩くウェーブのかかった黒髪を無造作に遊ばせたマスターは、切れ長の目をやさしく細めて迎えてくれた。五席しかないカウンターの端から二番目の場所を陣取り、端の空席に教科書やノートをたらふく食べて重くなった鞄を置く。
「僕の記憶が確かなら、ね。今日は苺のマーブルシフォンかカタラーナなんだけど、どうする?」
真っすぐで長い指が奥からのびてきて、淡く色のついた小さめのゴブレットを、音を立てずにチョコレート色のカウンターへ置く。その中にはいつもどおり、ミントを封じ込めた氷が水にぷかり、ぷかりと浮いていた。
「マスター、カタラーナって?」
火照った体に心地好い、ひんやりとしたレモン水を胃に落として、尋ねる。外国の女の子のような可愛らしい響きの名に、どんなスイーツなのかという期待と想像が膨らんだ。
「カタラーナっていうのはクリーム・ブリュレの原型と言われていて、スペインのカタルーニャ地方から伝わったイタリア定番のドルチェなんだ。正しくはクレーマ・カタラーナって言うんだけどね」
マスターは準備してあったかのようにすらすらと空で言って、白いシャツの胸ポケットからペンを、腰に巻いた黒いエプロンからメモを取り出すと、『Crema Catalana』と流れるように書いて渡してくれた。
「単純に言えば、クリーム・ブリュレを凍らせたもの、かな」
そう言ってマスターが奥から出してきたのは白い浅めのココット型で、表面をきつね色にキャラメリーゼされた、一見するとクリーム・ブリュレと特に違いのないものだった。
「ほんとだ。クリーム・ブリュレと一緒ですね」
「食べてみると全然違うけど、ね。どっちにする?」
悪戯に笑って、マスターは私におあずけを食らわすようにカタラーナをカウンターの奥へ下げた。ふわりと甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐって去っていく。
「ん~、どっちも捨てがたいです。カタラーナ、また作る予定ありますか?」
「お客さまの反応が上々なら、そのうちにでも」
「マスターのいじわる」
言葉の裏を返すなら、反応がよくなかったら二度とお目にかかることができないということだ。そうなると、これが一期一会の出会いになるかもしれない。けれど、季節限定の苺を使った大好きなシフォンケーキを見送るのも惜しい。
おもわず渋い顔をして悩んでいたら、後ろを向いて木目の美しいカウンターと同じ色の棚からカップを選んでいるはずのマスターが、くすりと笑う気配がした。ドルチェひとつに真剣に悩んでいるのが子供みたいで恥ずかしく思えてきて、少し熱くなった頬を見られないようにマスターに背を向けた。
明るすぎず他のものを引き立てるオフホワイトに塗られた壁の店内には、耳に優しいボサノバとゆったりした空気、ステンドグラスが帯状にはめられた磨り硝子の窓からの午後の光と暖色の間接照明からの柔らかい光、それにコーヒーとスイーツの心くすぐる香りが満ちている。
三セットしかないテーブル席に置いてある小さな布張りのアルバムに書かれたメニューは、たぶんマスターのお手製。所々、窓の隅に置いてあるガラスの花瓶に挿されたグリーンだとか、カウンターとは反対側の壁に備え付けられた背の高い棚に並べられた色彩豊かで目にも楽しい表紙の書籍たちだとか、レジを守るように置いてあるすらりと優美な曲線を持つ黒猫の置物だとか。ごてごてと騒がしく飾り立てない装飾品たちはシンプルだけど、やさしさに満ちている。
マスターの内面や目指すものがすべて凝縮されたこの空間は、一目見てすぐに好きになった。街のど真ん中にあるのに気張らず、自然体で静かに存在を主張しつづけて、流されることはない揺らぎないものを持っているこのお店は、心地よかった。
ここで出会うドルチェたちも美味しいし、マスターも気さくないい人だし。ついつい通ってしまい、すっかりお馴染みさんになってしまった。そんな取り留めもないことをつらつらと考えながら、目に留まった非常口の案内板を見上げる。
このお店で唯一の扉の真上に備え付けられた、緑と白の蛍光案内板。気にしなければどうってことないのに、一度目についたら最後、物凄い気になるようになった。お店の和を乱すようなそれを外せたらいいのにと思うが、法律があるから仕方ないのだろう。
かたん、と音がしたので振り向くと、カウンターに勝手にプレートが置かれていた。
プレートの右側には、可愛らしいピンクが目にも鮮やかなシフォンケーキがあり、白い生クリームと瑞々しい苺が添えられている。左側には先程見たカタラーナよりも小さなココット型が、すまし顔でのっている。
「はい、乃逢ちゃん専用ドルチェ」
カタラーナと同じようにすまし顔で紙ナフキンの上にフォークとスプーンを並べるマスターは、やさしいけど意地悪だ。けれど、こういうのは常連の特権だと思う。
「わざわざ作ってくれたんですか?」
「さぁ、どうだろうね?」
マスターはそ知らぬ顔で、けれど楽しそうな雰囲気を纏いカプチーノマシンを操っている。
「あぁ、でも、他のお客さまには内緒だよ?」
わざとらしく人差し指を口の前に立て、にっこりとそれはそれは優雅に微笑む。
「はい」
その笑顔に、こちらもつられて自然と笑顔になった。
ふと、マスターが笑顔を戻した。どうしたのだろうと思った瞬間、ガラスの嵌められた扉が暗くなりカウベルが来客を告げる。
「いらっしゃいませ」
やはり少しいつもと違うマスターの声に迎えられ、男性客が入る。名前は知らないが時々顔を見掛ける、私と同様馴染みのお客さんだ。
「お好きな席をどうぞ」
人当たりの良さそうな顔で言うマスターの言葉を聞いているのかいないのか、その人は迷うことなく窓際のテーブル席を選んだ。
肩から斜めにかけていた鞄と手に持っていた半透明のプラスチック製ブリーフケースをテーブル脇の床にぞんざいに置き、常緑樹のような深みのある緑色の革を張られた、体を包み込む丸いフォルムのソファに体を預ける。
その一連の動作をし終わったところで、マスターがその人のもとへゴブレットを置きに行った。メニューを開く音がすることはなく、その人はごく当たり前というように、
「キャラメルカプチーノ」
とだけ言った。
マスターは相変わらずの優しい声音で了承の一言を告げ、カウンターに戻ってきた。
その人は立ち上がり、カウンターとは反対側の棚一面に収められた書籍を物色しはじめた。
このカフェLauneは、マスターが国内外を問わず素敵だと思った書籍を、棚に並べている。店に入った客は、元の場所に戻すという条件でその書籍を手に取り読むことが出来る。日本語で書かれたものもあれば、外国語で書かれたものもあるし、絵本だって小説だって写真集だってある。そんな素敵な本たちに出会うための物音を背中越しに聞きつつ、ゴブレットを手で包み込みぼんやりしていたら、マスターが小さな声で、
「融けちゃうよ」
と教えてくれた。
慌てて持ち手に小枝を模したスプーンを手に取り、カタラーナにスプーンを入れる。表面のキャラメリーゼは少し堅く、けれど力を入れると小さな音とともにひび割れる。下に眠るクリーム色の少し融けてやわらかくなった部分と一緒に掬って口に入れれば、濃厚な甘さと冷たさ、キャラメリーゼのパリパリ感が一体になる。卵の深い香りに交ざる、キャラメリーゼのこくのある甘さと僅かな苦み。バニラアイスよりもすごく濃厚で、クリーム・ブリュレと似ているけれど少し違う、滑らかで口に入れるとすぐに融けてしまう繊細な舌触り。
「おいし……」
「ありがとうございます」
出来たてのカプチーノを差出してくれながら、マスターは天使のように微笑む。
「もう、すっごいおいしいです。マスターのドルチェはやっぱり一番ですね」
「はは、ありがとう。そんなに美味しそうに食べてもらえると作った甲斐があるよ」
温めたカップの底にキャラメルソースを入れる手は、水が流れるように動き止まることを知らない。時々きめ細やかなスチームドミルクに覆われたカプチーノに口をつけ、先に融けてしまうといけないのでカタラーナを食べきった。何度口に運んでも美味しさに衰えはなく、舌に触れると融けてなくなるのが惜しいくらいだった。
最後まできれいに掬って食べ、一息つく。
マスターはキャラメルカプチーノの仕上げとしてふわふわに出来たスチームドミルクの上に幾つかスライスアーモンドを乗せ、ソーサーを持ち窓際の席に向かう。私の後ろで書籍を選んでいた筈のその人は既に席に戻っていて、深緑のソファに深く腰掛けて読み始めていた。
細身のブラックジーンズに包んだ日本人にしては長い足を少し邪魔そうに組んで、ソファの縁に片肘をついている。逆行で表情や表紙は分からないけれど、いたく真剣に読んでいるようだった。
邪魔しない程度に抑えた声量でマスターがカプチーノをそっと置く。その人の首が僅かだが会釈される。一礼して戻ってくるマスターを横目に感じながら、シフォンケーキにフォークを入れる。
弾力があるがふわふわの生地は力を入れると切り口が潰れてしまうけれど、添えられた生クリームと一緒に口に運べばそのしっとりとした口当たりと苺の豊潤な香りが堪能できる。相変わらずの美味しさのシフォンケーキに舌鼓をうち、食べ終わってからはのんびりとしたりマスターと小声で話したり。
それが、私の好きな時間の使い方。
「そういえばマスター、風邪ですか?」
「いや、違うよ。昨日の夜は暑かったから窓開けてたら、そのまま寝ちゃってね。少し喉をやられた、かな?」
「気を付けてくださいね、暑いって言ってもまだ春なんですし」
「今回がいい勉強になったよ」
美味しいものがあって、いい匂いがして、素敵なものに囲まれて、のんびりした時間の中マスターとおしゃべりするのはとても落ち着く。
癒される、ってこういうことを言うんだな。
カプチーノの香りと味が体中に染み渡るのを感じながら、そう思った。




