第一章ーー第4話 『理論上の井戸清掃と、現実的な天然コラーゲン(スライム)の美食探求』
――労働とは、いったい何なのだろうか。
その根源的な問いを検証するには、冷暖房完備の現代日本の教室はあまりにも快適すぎた。
物理学における「仕事(労働)」の定義は、極めてシンプルである。『力×距離』。物体に力を加え、その力の向きに物体を移動させたとき、初めて「仕事をした」とみなされる。
だが、待ってほしい。
我々高校生が直面する労働――例えば、昼休み明けの気怠い午後に行われる「清掃活動」や、あるいは灼熱の太陽の下で強いられる「体育祭のテント設営」を、そんな無機質な数式で測りきれるだろうか。
否、断じて否だ。
俺たちにとっての労働とは、『苦痛×時間』であり、『理不尽×疲労』である。そこには距離の移動など関係ない。ただ精神のすり減りだけが、労働の証として蓄積されていくのだ。
マルクスは『資本論』において、労働者が生み出す剰余価値について語ったが、彼はきっと、異世界で巨大な鳥の羽をむしる高校生の絶望までは計算に入れていなかったに違いない。
現在地、異世界の村の広場。
時刻、太陽が真上に近い正午過ぎ。
気温、体感で二十八度、湿度六十パーセント(霧島さん調べ)。
俺――**相馬 恒一**は、その限られた時空の中で、人生で最も無謀かつ無意味な単純作業の反復地獄に陥っていた。
「……なぁ、鷹宮」
俺は、血と泥と得体の知れない油で汚れた自分の手を見つめながら、隣で黙々と作業を続ける**鷹宮 一朗に声をかけた。
「なんだ。手が止まってるぞ、相馬。口を動かす前に手を動かせ。ノルマが終わるまで夕飯は抜きだと村長に言われているはずだ」
鷹宮の冷徹な声が、俺の鼓膜を物理的に打つ。
彼の手には、昨日俺たちが(主に鷹宮の武力と霧島さんの投石で)打ち倒した魔獣、《グレート・コッカトリス》の巨大な羽が握られている。
俺たちの目の前にそびえ立つのは、解体された四メートルの巨鳥の「残骸」――否、「羽の山」である。
「いや、理論上、この作業はおかしいと思うんだ」
「おかしいのはお前の脳の構造だ。さっさとむしれ」
「聞いてくれよ。この羽、一本一本が野球のバットくらい硬いんだぞ? それを素手で引き抜くなんて、高校生の握力を超えてる。これは労働基準法違反だ。異世界に労基署はないのか? 俺はストライキの権利を主張したい」
「異世界に労基法もヘチマもあるか。働かざる者食うべからず、だ。昨日、あれだけ美味い肉を山ほど食った対価を払え」
「食ったのは俺だけじゃないだろ! お前も泣きながらモモ肉にかぶりついてたし、霧島さんに至っては俺たちの三倍の量を無表情で胃袋に収納してたよねー!?」
俺が抗議の声を上げると、少し離れた場所で、俺たちよりも遥かに速いペースで羽をむしっている霧島 仁絵さんが、眼鏡をキラリと光らせた。
「……訂正します。相馬くんが摂取したカロリーは推定八千キロカロリー。対して私が摂取したカロリーは一万二千キロカロリー。一・五倍に過ぎません。三倍というのはあなたの誇張、あるいは記憶障害です」
「一・五倍でもすごいよ! 成人男性の数日分を一食でペロリだよねー! その細い体のどこに肉が消えてるの!? ブラックホール!?」
「質量保存の法則に基づき、すべて活動エネルギーおよび筋肉の超回復に回されています。事実、今の私の握力は、昨日の時点から約十二パーセント向上しています。この羽むしり作業の効率化にも貢献しています」
霧島さんが、スパンッ! という鋭い音と共に、コッカトリスの太い羽をいとも簡単に引き抜いた。もはや職人の域に達している。
学年トップの秀才にして氷の女帝は、異世界における肉体労働への適応力もSランクだったらしい。神は二物も三物も与えるのだ。
「相馬~、文句言ってないで手動かせよ。俺のカメラに映るお前が、ずっと『口先だけでサボるダメ男』になってるぞ。視聴者からのヘイトが溜まる絵面だ」
広場の日陰で、これまた作業の手を抜いている真壁 宙士**が、スマホ(という名の魔道具扱いされたカメラ)をこちらに向けてニヤニヤしている。
「真壁、お前こそ全然むしってないだろ! スマホ構えてる暇があったら一本でも多くむしれよ!」
「俺は『記録係』だからな。この過酷な異世界労働の真実を後世に残すという、重大な使命がある。タイトルは『【実録】異世界のブラック村で鶏の羽をむしらされる高校生の末路』だ。涙なしには見られないドキュメンタリーだぞ」
「お前のそのポジティブなクズっぷり、ある意味尊敬するわ!」
俺はため息をつき、目の前のバットのような羽を両手で掴み、全身の体重をかけて引っ張った。
「ぬおおおおおおッ! 抜っけろォォォォ!」
ズボォッ、という音と共に、羽が抜ける。と同時に、反動で俺は後ろにすっ転んだ。
「痛っ! 腰打った! 労災! 労災申請する!」
「だから騒ぐな。お前が騒ぐと俺の【戦術演算】のガイドラインがブレるんだよ」
鷹宮が顔をしかめる。彼の視界には、おそらく「最も効率よく、最も少ない力で羽を抜く角度とタイミング」が赤いラインで表示されているのだろう。チートすぎる。俺の【無限思考】とは大違いだ。
「ねえ鷹宮、俺の【無限思考】を使って、この羽をむしらなくても済む『理論上の完全犯罪』みたいな言い訳を考えてもいい?」
「ダメだ。お前の言い訳を聞く時間が一番のロスだ。だいたい、言い訳を考えてる時点で手は止まるだろうが」
「違うよ! 【無限思考】は脳の処理速度を極限まで加速させるんだ! 現実時間の一秒で、俺の脳内では数千パターンの『村長を言いくるめる交渉術』がシミュレーションされているんだよ!」
「で、その結果は出たのか?」
鷹宮の冷たい問いに、俺は胸を張って答えた。
「全部『村長に杖で殴られるルート』に収束した! 回避不能のバッドエンドだ!」
「じゃあ無意味じゃねえか! さっさと手を動かせ!」
鷹宮の鉄拳が俺の脳天に落ちた。痛い。異世界に来てから俺の頭頂部は常に虐待されている気がする。
キーン、という耳鳴りを感じながら、俺は再び羽の山に向き直った。
それにしても、多い。
昨日倒したコッカトリスの巨体は、一晩かけて村人たちの手により解体され、食用可能な肉、薬になる内臓、そして武器や防具の素材になる骨と羽に分けられた。
俺たちに課せられたのは、その「羽」を分類し、束ねる作業だ。
だが、四メートルの巨鳥の羽の数は、俺たちの想像を絶していた。
「……霧島さん」
「なんですか」
「理論上、この羽、あと何本あるの?」
霧島さんは手を止めず、眼鏡を光らせた。
「解析結果から概算します。一本の重量と現在の山の体積から推測し、残りおよそ七万四千三百本。現在の私たちのペースで計算すると、不眠不休で作業を続けて三十八時間と十二分が必要です」
「三十八時間!? 丸一日半!? 死ぬ! 過労死する! 異世界転生して二日目で過労死とか、前世のブラック企業サラリーマンより酷い結末だよねー!」
「安心しろ相馬。お前は過労死する前に、サボりすぎて村長に処刑される」
鷹宮が慰めにもならない事実を突きつけてくる。
「俺たちの人生、綱渡りすぎない!? 英雄扱いされたのは昨日の夜だけ!? 一夜明けたらただの奴隷かよ!」
「それが異世界のリアルだろ。お前みたいに楽して生きようとする奴には、いい薬だ」
「俺はいつだって真剣に、全力で『いかにして楽をするか』を追求している努力家だぞ!」
「その努力を羽むしりに向けろ!」
そんな生産性の欠片もない(しかし俺にとっては精神の安定剤となる)不毛な口論を続けていると、村の中央から、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「村長! 大変です、村長ぉぉぉ!」
昨日の衛兵(名前はまだない)が、血相を変えて走ってくる。
広場の隅で煙管のようなものを吹かして休憩していた村長が、怪訝な顔で立ち上がった。
「なんじゃ騒々しい。またコッカトリスの残党でも出たか?」
「違います! 井戸です! 村の共同井戸から、水が全く出なくなりました!」
「な、なんじゃと!?」
村長の顔色が一瞬で土気色に変わった。
その言葉に、作業をしていた村人たちも一斉にざわめき始める。
「水が出ないだと!?」
「そんなバカな! あの井戸は涸れたことがないぞ!」
「昨日のコッカトリスの肉の塩漬け作業に、大量の水が必要なのに!」
村は一気にパニック状態に陥った。
水。
それは生命の源であり、異世界サバイバルにおいて最も確保が難しいリソースの一つだ。現代日本のように、蛇口をひねれば透明な水が出るわけではない。
水が出ないということは、飲み水がない、料理ができない、体を洗えない(これは既に諦めかけているが)、そして何より――。
「……待って」
俺は、羽を握ったまま硬直した。
「水がないってことは、つまり……」
鷹宮が嫌な顔をする。
「なんだ、またお前のバカな理論か」
「理論じゃない、現実の危機だ! 水がないってことは、昨日の残りのコッカトリス肉を使った『異世界風・極上水炊きスープ』が今日の夕飯に出ないってことだよねー!?」
「お前の危機感は常に胃袋直結か!!」
鷹宮が吠える。
「いや、でも水は重要だぞ。人間、食い物がなくても数日は生きられるが、水がないと三日で死ぬって言うし」
真壁がスマホを構えながら補足する。「しかも、俺たちの体は現代日本仕様だ。異世界の不衛生な水をそのまま飲んだら一発で腹を下す。沸騰させるためのキレイな水がないのは死活問題だ」
「真壁くんの言う通りです」
霧島さんが、羽むしりの手をピタリと止めた。彼女が作業を止めるのは珍しい。
「現在の気温と私たちの発汗量から計算すると、三時間以内に水分補給を行わなければ、軽度の脱水症状に陥ります。昨夜の夕食で塩分を過剰摂取しているため、喉の渇きはより早く訪れます」
「ほら見ろ! 霧島さんも夕飯のスープを欲してるんじゃないか!」
「私は生存確率の話をしています」
俺たちは顔を見合わせた。
これは、羽むしりどころではない。
羽をむしっても、水がなければ肉は食えない。肉が食えなければ、俺たちは働く意味を失う。
「……行くぞ、相馬」
鷹宮が立ち上がった。
「え? どこに?」
「井戸だ。村長たちが向かってる。俺たちも行くぞ。水がないと死ぬのは俺たちも一緒だ」
「労働から逃げられるなら喜んで!」
「逃げるんじゃない、問題解決に向かうんだ。お前のその腐った根性を直す魔法はないのか」
俺たちは、村長や衛兵たちの後を追い、村の中央にある共同井戸へと向かった。
石造りの古びた井戸だ。周囲にはすでに多くの村人が集まり、不安そうに中を覗き込んでいる。
「どいてくれ、村長が通るぞ!」
衛兵が道を空けさせ、村長が井戸の縁に手をついて中を覗き込んだ。
「……なんということじゃ。底が見えんほど真っ暗だが、つるべを落としても水音がせん」
村長が、ロープのついた木桶を引き上げる。桶の中は空っぽで、水滴一つついていなかった。
「干上がったのか? いや、昨日の朝まではたっぷりあったはずだ」
「地震の影響で水脈が変わったのでは?」
「コッカトリスの呪いじゃないか!?」
村人たちが口々に憶測を飛び交わす。
「……霧島さん」
鷹宮が小声で霧島さんに促した。
「はい。了解しました」
霧島さんはスッと村長の後ろに立ち、井戸の中へと視線を落とした。
彼女の眼鏡が、深い青色の光を放つ。まるで深海を照らす探照灯のように、彼女の【解析】のスキルが井戸の底の暗闇をスキャンしていく。
一秒、二秒。
霧島さんの眉が、ほんのわずか、0・1ミリほど動いた。
「……村長さん」
霧島さんが平坦な声で告げる。
「水脈が涸れたわけではありません。水はあります」
「本当か!? 娘、お前には見えるのか!?」
村長がすがりつくように振り返る。
「はい。私の眼は真実を捉えます。井戸の底、水深約五メートルの地点に、水は存在しています。……ですが」
「ですが!?」
俺と鷹宮の声がハモる。霧島さんの「ですが」は、絶望のプレリュードだ。
「水が、物理的に塞がれています。正確に言えば、井戸の底の水を丸ごと『吸収』し、蓋をしている存在がいます」
「蓋をしている存在? 岩でも崩れ落ちたのか?」
「いえ。生体反応があります」
霧島さんが眼鏡をクイッと押し上げた。
「鑑定結果。対象:魔獣。推定ランクC。体長(直径)約三メートル。水分を吸収して巨大化する性質を持つ粘性生物です。現在、井戸の底の水を限界まで吸収し、井戸の管にピッタリと栓をする形で詰まっています」
「スライムが詰まってる!?」
俺は叫んだ。
「トイレの詰まりみたいな状態ってこと!? ラバーカップ(すっぽん)でポンポンすれば抜けるかな!?」
「そんな巨大なラバーカップがどこにある。バカなことを言うな」
鷹宮が冷静にツッコミを入れる。
「スライムか……」
村長が絶望的な顔で天を仰いだ。
「よりによってアクア・スライムとは……。あいつらは物理攻撃が効かん。剣で斬っても槍で突いても、すぐにくっついて再生してしまう。しかも水を吸って巨大化した個体となれば、魔法使いでも連れてこない限り手出しができん……!」
「魔法使い、この村にはいないんですか?」
真壁が尋ねる。
「おらん! ここはただの辺境の農村じゃ! 火をおこす程度の生活魔法が使える者が数人おるだけじゃ! あんな巨大なスライムを蒸発させるような強力な炎魔法など……!」
村人たちの間に絶望の空気が広がる。
水がない。
スライムが詰まっている。
倒す手段がない。
つまり、村の緩やかな滅亡である。
「……おい、相馬」
鷹宮が、俺の肩をガシッと掴んだ。
「痛っ、何?」
「お前の出番だ」
「えっ?」
「俺の【戦術演算】は、既存の武器や地形を利用した物理的、戦術的な最適解を出すスキルだ。だが、『物理攻撃が効かない不定形生物』に対する有効打はゼロだと表示されている。お手上げだ」
「鷹宮のチートスキルでもダメなの!?」
「ああ。だが、お前の【無限思考】ならどうだ。お前は常識にとらわれない、非効率でバカバカしい、だが『理論上は可能』なアホなアイデアを出す天才だろ。この詰み状態をひっくり返せるのは、お前のその狂った脳みそだけだ」
鷹宮の言葉に、俺は目を丸くした。
「……鷹宮。お前、俺のこと……」
「なんだよ」
「頼りにしてくれてるんだね! 嬉しいッス……じゃなくて、嬉しいよ! 熱い友情を感じる!」
「勘違いするな。水がないと俺が困るから、お前を道具として使うだけだ」
「照れ隠しがキツい!」
俺はニカっと笑い、井戸の縁に手をかけた。
スライム。
RPGの最弱モンスターの代名詞。しかし、物理攻撃が無効となれば話は別だ。
魔法がない。武器が効かない。
なら、どうする?
俺は目を閉じた。
脳内のタービンが、限界を超えて回転を始める。
――【無限思考】、フル・オーバークロック起動。
俺の意識は肉体を離れ、イデアの海へとダイブする。
体感時間が無限に引き延ばされる。現実の一秒が、脳内では一時間にも一日にも感じられる。
ターゲット:ジャイアント・アクア・スライム。
性質:粘性液体、物理無効、水分吸収。
目的:井戸からの排除、および水の確保。
シミュレーション開始。
パターンA:燃やす。
村人の生活魔法(小さな火)や松明を投げ込む。
結果:スライムの膨大な水分に消火され、煙が出るだけ。失敗。
パターンB:真壁の【複写】で天敵の幻影を出す。
スライムの天敵とは何か? そもそもスライムに視覚(目)はあるのか?
霧島さんの解析を思い出す。『目はない。振動と温度で獲物を感知する』。
結果:幻影を見せても意味がない。失敗。
パターンC:物理で押し出す。
上から巨大な石を落として、水圧で下から吹き飛ばす。
結果:井戸の底が抜けるか、水が全て泥水になる。最悪の場合、水脈が完全に潰れる。失敗。
ダメだ。
常識的なアプローチでは、どうやっても「詰み」だ。
思考を切り替えろ。常識を捨てろ。
俺は相馬恒一だ。カップ麺を無限に食おうとした男だ。
カップ麺……?
そうだ、スライムの成分は何だ?
ほとんどが水だ。
水……ゼリー……スープ……。
俺の脳内で、バラバラだったパズルのピースが、強引に、かつ暴力的に一つの狂った絵を描き始めた。
――解、到達。
俺は目を開けた。
現実時間では、俺が目を閉じてからわずか二秒しか経過していなかった。
「……鷹宮。閃いた」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、自信に満ちていた。
「マジか。で、どうするんだ。大岩でも落とすか?」
「いや、そんな物理的なことじゃない。もっと化学的で、そして……美食的なアプローチだ」
「美食的? 嫌な予感しかしないぞ」
俺は村長に向き直った。
「村長さん! この村に、『塩』と『酢』、それに『片栗粉(かそれに似たでんぷん質の粉)』はありますか!?」
「は? 塩と酢? それに粉じゃと? あるにはあるが……昨日のコッカトリスの塩漬け用に、大量の粗塩を蔵から出したところじゃ。果実から作った酸っぱい酢や、芋の粉も備蓄はあるが……それがどうしたというのじゃ?」
「全部持ってきてください! ありったけ! 井戸の底にぶち込みます!」
村長だけでなく、周囲の村人たち全員がポカンと口を開けた。
「い、井戸に塩と酢を!? 気が狂ったか! そんなことをすれば、水が飲めなくなってしまうではないか!」
「このままでも飲めないんだから同じことです! 信じてください、これは科学の力です!」
鷹宮が俺の襟首を掴む。
「おい相馬、説明しろ。お前の脳内で何が起きてる。井戸に調味料を入れてどうする気だ」
「理論上、スライムは浸透圧の法則に逆らえない」
「……浸透圧?」
霧島さんが、ピクッと反応した。
「……なるほど。相馬くんにしては、珍しく理にかなったアプローチです」
「霧島さん、わかるの!?」
「はい。スライムの体組成がほぼ水分であるならば、細胞膜、あるいはそれに準ずる外皮を通して、外部と内部の濃度を一定に保とうとする性質があるはずです。つまり、ナメクジに塩をかけるのと同じ原理です」
「その通り!」
俺はビシッと指を差した。
「大量の塩を井戸に投入し、スライムの周囲の塩分濃度を極限まで高める! そうすれば、スライムの体内から水分が外へ排出され、奴は強制的に縮小・脱水状態になる! さらに酢の酸性成分でタンパク質を凝固させ、粉で粘度を奪って固める!」
「……理論上は、可能ですね」
霧島さんが眼鏡を光らせて同意する。
「だが、待て」鷹宮が冷静に反論する。「仮にスライムが縮んだとして、井戸の中は塩と酢の混ざった泥水になるぞ。結局水は飲めないじゃないか」
「そこは計算済みだ。縮んで固まったスライムを、つるべで引き上げる。そのあと、井戸の水を何度か汲み出して捨てれば、下から新しい地下水が湧いてきて中和されるはずだ。時間はかかるが、水脈は復活する!」
鷹宮が沈黙した。彼の視界の【戦術演算】が、この狂った作戦の成功率を再計算しているのだろう。
「……成功率、35%。さっきの0%よりはマシだな。やる価値はある」
「よし! 村長さん、急いで材料を!」
村長は半信半疑ながらも、俺たちの気迫に押され、村人たちに指示を出した。
「ええい、ままよ! 蔵から塩と酢と粉を運べ! この馬の骨どもの言う通りにしてみろ!」
馬の骨呼ばわりされたが、気にしない。
数分後、井戸の周りには、ドンゴロス(麻袋)に入った大量の粗塩、木樽に入った強烈な匂いの果実酢、そして芋の粉が山積みになった。
「作戦開始!」
俺は指揮官(仮)として号令をかけた。
「第一段階、浸透圧攻撃! 塩を全部ぶち込め!」
村人たちが、麻袋からザアアアアッと大量の粗塩を井戸の中に落としていく。
暗い井戸の底から、ピチャッ、ポチャッという音が微かに聞こえる。
「霧島さん、スライムの反応は!?」
「……解析中。スライムの外皮に塩分が接触。濃度勾配が発生。スライムの体内水分の排出が始まりました。体積が縮小しています!」
「よし! 効いてる! ナメクジ大作戦成功だ!」
「第二段階、タンパク質凝固および粘度奪取! 酢と粉を交互に投入!」
強烈な酸っぱい匂いを放つ酢が、滝のように井戸に注ぎ込まれ、続いて白い粉がバサバサと撒かれる。
井戸の中は、もはや巨大な調理鍋のようだ。
「……スライムの構造が変化しています。外皮が硬化、およびゼラチン質への変質を確認。スライムは現在、苦痛(に相当する刺激)によりパニック状態にあると推測されます」
「苦しんでるってことは、生きてるんだな。トドメだ! 真壁!」
「俺か!? 俺は何をすればいい!?」
「【複写】で、一番デカくて重そうなものの幻影を出して、上から蓋をしろ! 水圧と重圧で完全に身動きを封じるんだ!」
「重そうなもの……よし、俺が修学旅行で撮った『奈良の大仏』のデータがある!」
「異世界に大仏降臨!? 世界観ぶち壊しだけどやれ!」
真壁がスマホを井戸の上にかざす。
「展開! 大仏アタック!」
井戸の口の空中に、半透明の巨大な大仏の幻影が座禅を組んだ姿で出現し、そのままズズーン!と井戸の中に沈んでいった。
物理的な重さはないはずだが、視覚的なプレッシャーは絶大だ。
「……スライムの活動、完全に停止しました。体積は元の二十分の一まで縮小、および硬化。井戸の栓としての機能は喪失しました」
霧島さんが、決定的な勝利の宣言を下した。
「やったあああッ!!」
俺はガッツポーズをした。
「鷹宮! つるべを下ろして引き上げろ!」
「命令すんな! ……よいしょっと!」
鷹宮がロープを操り、木桶を井戸の底へ落とし、何かを引っ掛けて引き上げてくる。
重い。鷹宮の腕の筋肉が隆起している。
「上がってきたぞ……! なんだこれ、重っ……!」
ゴトッ、と井戸の縁に引き上げられた木桶の中には――。
巨大な、青白く半透明の、プルプルとしたスライムの塊が入っていた。
ただし、塩と酢と粉にまみれ、すっかり縮こまって、まるで巨大な水饅頭か、硬めのゼリーのように変質している。
「……なんだこれは」
村長が、恐る恐る杖の先でスライムをツンツンと突いた。
プルン、とスライムが揺れるが、もはや反撃してくる様子はない。完全に活動を停止している。
「討伐完了だねー!」
俺はドヤ顔で言った。「理論上、俺たちの完全勝利だ!」
「お前の理論、今回は本当に役に立ったな。腹立つけど認めてやる」
鷹宮が肩で息をしながら、少しだけ口角を上げた。
「村長さん! あとは井戸の水を何度か汲み出して捨てれば、新鮮な水が湧いてきますよ! 一件落着!」
村人たちから、今度こそ割れんばかりの歓声が上がった。
「おおお……! 水が戻ってくるぞ!」
「あんたたち、本当に救世主だ!」
「昨日のコッカトリスに続き、井戸の危機まで救ってくれるとは……!」
村長が、涙ぐみながら俺たちの手を取った。
「すまんかった! お前たちを疑ったワシが愚かじゃった! お前たちは神の使いじゃ!」
「いやいや、神の使いだなんて照れるなー。ただの通りすがりの、腹ペコ高校生ですよ」
俺は謙遜しながらも、鼻高々だった。
これで労働免除、豪華な食事、ふかふかのベッドが約束されたようなものだ。
「よし、この忌まわしいスライムの死骸は、森に捨ててこよう」
衛兵が木桶を持ち上げようとした、その時。
「待ってください」
凛とした、しかしどこか熱を帯びた声が響いた。
霧島さんだ。
彼女は、木桶の中のスライムを、眼鏡越しにじっと見つめていた。その瞳は、まるで宝石を鑑定する商人のように、あるいは新作スイーツを前にした乙女のように輝いていた。
「捨てるなど、とんでもない。これは極めて質の高い『食材』です」
「……はい?」
俺を含め、全員の思考が停止した。
「食材? 霧島さん、今なんて?」
「ですから、食材です。スライムの成分を再解析しました。本来は微量の毒素が含まれていますが、相馬くんが投入した酢(酸)と塩(塩化ナトリウム)による化学反応で、毒素は完全に中和されています」
霧島さんは、指でスライムの表面をツーッと撫でた。
「さらに、でんぷん質の粉がコーティングされたことで、適度な弾力と保水性を獲得しています。これは……言うなれば、究極の天然コラーゲン・ゼリーです」
「ゼリー……!?」
俺の胃袋のブラックホールが、再び大きく口を開けた。
「食えるの!? これ、食えるの!?」
「ええ。むしろ、栄養価の観点から言えば、ビタミンとミネラルの宝庫です。食べない理由が論理的に見つかりません」
鷹宮が顔を引きつらせる。
「お前ら、正気か? 井戸に詰まってたバケモノだぞ? 塩と酢まみれの泥水に浸かってたんだぞ?」
「水で洗えば問題ありません。表面の汚れを落とし、適度な大きさにカットすれば……」
霧島さんの目が、完全に「料理人」の目になっている。
「村長さん。昨日のコッカトリスの肉を煮込んだスープ、まだ残っていますよね?」
「え、ああ、残っておるが……」
「それを温め直し、このスライムを投入します。熱を加えることでスライムの組織がさらに融解し、スープにとろみと極上の旨味を加えるはずです。名付けて、『コッカトリスとアクア・スライムのコラーゲン濃厚白湯スープ』です」
「料理名が完成してる! 美味そう!」
俺は諸手を挙げて賛成した。
「絶対美味い! 理論上、フカヒレスープを超える!」
「お前らの食への執着、もはや恐怖すら感じるわ……」
真壁はスマホを構え、「『井戸の魔物で極上スープ作ってみた』、ミリオン確定」と呟いている。
数十分後。
広場には、大鍋から立ち上る、暴力的なまでに食欲をそそる匂いが充満していた。
コッカトリスの濃厚な鶏ガラの香りに、スライムが溶け込んだことで生まれた、まろやかで奥深いトロミ。
村人たちも最初は遠巻きに見ていたが、その匂いに抗えず、全員が自前の木椀を持って並んでいた。
「さあ、実食だ!」
俺は、並々と注がれたスープを一口すすった。
「……ッ!!!」
言葉が出なかった。
美味い。
美味すぎる。
コッカトリスの野性味あふれる旨味を、スライムのゼラチン質が優しく包み込み、口の中でとろけていく。塩と酢の酸味が、絶妙な隠し味となってスープ全体の輪郭を引き締めている。
「なんだこれ……。フカヒレとかツバメの巣とか、高級食材のいいとこ取りじゃん……!」
「……美味いな」
鷹宮も、文句を言っていた口で無心にスープを飲んでいる。
「悔しいが、俺の【戦術演算】でもこの味の最適解は導き出せなかった。料理は科学の先を行くのか」
「やばい、これバズる。レシピ動画として売れる」
真壁が片手でスマホを回しながら、もう片手でスープをかき込んでいる。
そして霧島さんは、無言で三杯目のおかわりを村長に要求していた。彼女の胃袋の構造も、スライム並みに謎である。
「ぷはぁーっ! 食った食った!」
俺は空になった椀を置き、ぽっこり膨らんだ腹をさすった。
労働(羽むしり)は途中だが、最高の報酬を先にもらってしまった気分だ。
村長が、俺たちの前にやってきて、深く頭を下げた。
「若者たちよ。お前たちの知恵と勇気、そして……その、恐るべき食欲に、村を救われた。心から礼を言う。羽むしりの作業はもうよい。村の者たちでやる。お前たちは、しばらくこの村の『客将』としてゆっくり滞在してくれ」
「客将! なんかカッコいい響き!」
「実質ニートの許可証だな」
鷹宮が呆れながらも、まんざらでもない顔をしている。
こうして、俺たちの異世界三日目は、井戸の危機を美食の喜びに変えるという、前代未聞の奇跡によって幕を閉じた。
壁は高い。
言葉の壁。文化の壁。そしてこれから待ち受けるであろう、さらなる理不尽なトラブルの壁。
だが、俺たちには【無限思考】と、最高の仲間(ツッコミと解析と記録)と、そして何より――。
どんな困難も「美味い飯」に変換してしまう、底なしの胃袋という名のブラックホールがある。
……まあ、越えられない壁はないよねー。
理論上、不可能はないはずだから。
俺は、異世界の満天の星空を見上げながら、心地よい満腹感と共に、次の「未知なる食材」との出会いに胸を躍らせていた。




