第一章ーー第1話 「無限に増えるはずだった昼飯と、現実という壁」
「カップ麺は理論上、無限に食べられる」
そんなバカげた理論を真顔で語っていた高校生・相馬一は、昼休みの最中、校舎の床が崩落する事故に巻き込まれ、あっけなく命を落としてしまう。
目を覚ました先は、剣と魔法の存在する異世界。
転生特典として与えられた能力は、攻撃力でも魔法でもなく――
**「理論上可能だと信じたことを、最後まで考え抜く力【無限思考】」**という、あまりにも地味で実用性不明なスキルだった。
常識も価値観も違う異世界で、相馬の思考はことごとくズレまくる。
正論を積み上げた結果、なぜか怒られ、疑われ、命を狙われる日々。
だがその“バカみたいに考え続ける力”は、少しずつ世界の歪みを突き崩していく。
最強でも天才でもない。
あるのは「理論上いけるはず」という根拠のない自信だけ。
これは、
正しさを信じ続けた一人のバカが、異世界の常識を壊していく物語。
――人は、どこまで愚かで、どこまで真剣にバカになれるのだろうか。
その深淵なる問いを検証するには、高校生活における「昼休み」という時間は、あまりにも、あまりにも短い。
四十五分。秒数にして二千七百秒。
それは宇宙の悠久なる歴史から見れば、超新星爆発の瞬きにも満たない刹那の時間だ。アンドロメダ銀河の彼方から観測すれば、俺たちの青春など誤差の範囲ですらないだろう。
だが、待ってほしい。
午前中の四時限という名の「知的監獄」を耐え抜き、血糖値がレッドゾーンを振り切り、胃壁が消化液で悲鳴を上げている空腹の男子高校生にとって、この四十五分はいかなる意味を持つのか。
それは、自由への渇望であり、生存本能の解放であり、そして何より――永遠にも等しい哲学の時間となり得るのだ。
教室の時計の秒針が、カチ、コチ、と無機質な音を刻んでいる。
窓の外からは、運動部がグラウンドを駆ける掛け声や、どこかのクラスで爆発した笑い声が、遠い異国の音楽のように響いてくる。午後の陽光が埃をキラキラと照らし、平和な日本の高校の日常を演出していた。
だが、俺――**相馬 恒一**は、その限られた時空の中で、アリストテレスも裸足で逃げ出し、ニュートンがリンゴを握りつぶして悔しがるであろう、人生で最も無謀かつ美しい理論を完成させてしまったのだ。
「聞いてくれ。これ、革命的だ」
机に突っ伏し、死んだふり(あるいは光合成)をしていた俺が、ガバりと勢いよく顔を上げた。
その動きがあまりに急だったため、重力に従って垂れようとしていた前髪がふわりと舞い上がる。
すると、隣の席で穏やかに、実に平和的に「至福の時間」を迎えようとしていた**鷹宮 一朗**が、ピタリと動きを止めた。
彼の手には、購買部で激戦の末に勝ち取った戦利品、「特製デラックス焼きそばパン(マヨネーズ増量)」が握られている。そのふっくらとしたコッペパンが、今まさに彼の口内へと進入しようとしていた、その刹那の出来事だった。
彼はゆっくりと、錆びついたブリキのおもちゃのように首を回した。
そして、心底嫌そうな、まるで燃えるゴミの日に出し忘れた生ゴミを見るような、あるいは靴の裏についたガムを確認するような目を、俺に向けてくる。
その視線には、「お前さえいなければ俺の昼休みは平和だったのに」という、雄弁なメッセージが込められていた。
「……その顔はやめろ。ろくなことを考えてないときの顔だ。あと、口元にヨダレの跡がついてる。汚い」
「今回は違う。ヨダレは関係ない。生理現象だ。俺が言いたいのは理論だ。数式はいらないが、論理は完璧だ。アインシュタインも相対性理論を書き直すレベルの発見だ」
……と言いつつ、俺の脳内では「革命的」という三文字が、極彩色の羽根をつけたサンバダンサーの姿をして、リオのカーニバルのリズムで踊り狂っている。マツケンサンバではない。もっと情熱的なやつだ。
革命って言えば、だいたい相手が話を聞いてくれる気がするんだよねー。歴史上の独裁者やカリスマたちも、きっとこうやって人を集めたに違いない。「パンがないならケーキを食べればいい」的なノリで、「暇なら俺の理論を聞けばいい」と提案しているわけだ。
人間って単純だよねー。もちろん、それを信じ込んでいる俺も含めて、人類総じて愛すべき単細胞生物だ。
「数式がいらない時点で科学じゃねえよ。それは宗教か、あるいは新手の詐欺だろ。ツボか? 幸せになるツボを売る気か?」
鷹宮はそう冷たく言い捨てながらも、一度口に運びかけた焼きそばパンを皿(といってもビニール袋だが)に戻した。
袋を丁寧に開け直し、こちらを見る体勢を取る。
よし、聞く気はあるらしい。
こいつは口が悪く、常に俺をゴミを見るような目で見るが、その実、知的好奇心には勝てないタイプだ。あるいは、俺の扱いを世界で一番よくわかっている「プロの相馬使い」とも言える。彼に尻尾があったら、今はイライラしながらもパタパタと動いているはずだ。
俺は声を潜めた。
まるで国家機密、あるいはエリア51のエイリアン情報を扱うスパイのように、教室の周囲を過剰に警戒する素振りを見せる。
右よし、左よし。教師なし、補導員なし。
安全を確認してから、俺は机の上に鎮座する、神々しいまでの存在感を放つ物体を指差した。
それは、コンビニで百数十円で売られている、人類が生み出した二十世紀最大の発明品――シーフード味のカップ麺である。
「鷹宮、このカップ麺を見ろ」
「見てるよ。穴が開くほど見てるよ。お湯を入れてから四分経過してるな。蓋の隙間からいい匂いが漏れてるし、麺が汁を吸って伸び始めてるぞ。早く食えよ」
「伸びるのも計算のうちだ。麺がスープを吸うということは、質量保存の法則的に麺の体積が増えるということだ。つまりお得だ。……いいか、まずこれを半分食べる」
「……うん。普通だな」
「残りを、さらに半分食べる」
「うん……? まあ、一口ずつ食うってことか?」
「さらに残った麺を、また半分食べる。汁も同様だ」
「…………」
「これを繰り返せば――」
俺は、確信に満ちた笑みを浮かべた。
それは、荒野で迷える子羊を導く聖人のごとき、あるいは全ての真理に到達した解脱者のごとき、慈愛に満ちた笑みだったはずだ。
俺は高らかに宣言する。
「理論上、このカップ麺は無限に食える」
教室の喧騒が、ふっと遠のいた気がした。
世界が静止した。
一秒。
二秒。
三秒。
教室の隅で女子が恋バナに花を咲かせる声も、廊下を走る足音も、すべてが背景ノイズへと退行していく。
鷹宮はゆっくりと瞬きをした。一度、二度。
そして、焼きそばパンを完全に机に置き、深く、それはもう深く、ブラジルの裏側まで貫通して届きそうなほど深いため息をついた。その呼気だけで地球温暖化が少し進んだかもしれない。
「……で、どこからツッコめばいい? 整理券とか必要か? それとも予約制か?」
「どこからでもいい。フリーアクセスだ。だが反論はできないはずだ。これは古代ギリシャの哲学者ゼノンが提唱した『ゼノンのパラドックス』、その中の『アキレスと亀』ならぬ『相馬とカップ麺』、すなわち相馬式無限摂食理論だからな」
「じゃあ最初からいくぞ。遠慮なくいくぞ」
鷹宮が指を一本立てる。
「半分にした時点で物理的な量は減ってる。確実に減ってる。原子レベルまでいけば、いつか『半分』はできなくなる。素粒子を包丁で切るつもりか? お前は加速器か何かか?」
「甘いな、鷹宮。実に甘い。練乳をかけたマックスコーヒーより甘い」
俺はチッチッチッと人差し指を振った。メトロノームのように正確なリズムで。
「俺が言っているのは物質的な『量』の話じゃない。そこにあるのは『行為』の話だ。哲学なんだよ」
「は?」
「“食べている”という回数は無限だ。俺は『麺』という物質を食べているんじゃない。『食事という概念』を食べているんだよねー。精神的に」
「……お前、空腹で脳が溶けたか?」
「違う。いいか、半分食べても、まだ半分ある。その半分を食べても、まだ半分ある。永遠に『ある』んだよ。無くならないんだ。これは希望だ。終わらない宴だ」
「腹が先に限界を迎えるか、麺が汁を吸い尽くしてただのふやけた小麦粉の塊になるのがオチだ。あと、最後の方はスープの中に溶けた原子をストローで吸う羽目になるぞ」
「それは精神論だ」
「現実論だ! あと物理現象だ! エントロピーの増大を無視するな!」
鷹宮の声が大きくなる。
周囲の生徒が数人、ビクッとしてこちらを見た。だが、視線の先にいるのが俺だと確認すると、「ああ、また相馬か」「平常運転だな」という顔をして、興味なげに視線を戻した。
慣れたものだ。このクラスにおいて、俺の奇行はもはや環境音(BGM)の一部として認知されている。
「鷹宮、お前は想像力が足りない。ロマンが足りない。無限に食えるということは、食費が浮くということだ。カップ麺一個で一生生きていける。これは経済革命でもある。ノーベル経済学賞も夢じゃない」
「栄養失調で入院費がかかる未来しか見えねえよ。医療費で破産するわ」
そのときだった。
「……相馬くん」
背後から、温度を極限まで排除した、やけに落ち着いた声がした。
その声が鼓膜に触れた瞬間、周囲の気温が三度は下がった気がした。
まるで真夏の教室に、業務用の巨大冷房のスイッチがいきなり入ったかのような感覚。あるいは、背筋に氷柱を差し込まれたような戦慄。
俺と鷹宮は同時に動きを止める。パブロフの犬のように、その声の主に対する条件反射が染み付いているのだ。
恐る恐る、油の切れたロボットのような動きで振り向く。
そこには、眼鏡をかけた少女――**霧島 仁絵**が立っていた。
黒髪のボブカットは、定規で測ったかのように真っ直ぐ切り揃えられている。
制服の着こなしに一ミリの乱れもなく、シャツの第一ボタンまで完璧に留められ、スカートの丈は校則通りの膝下ジャスト。手には凶器になりそうなほど分厚い参考書(たぶん物理学か量子力学の専門書)が抱えられている。
学年トップの成績を誇り、感情の起伏が地震計ですら観測されない、「歩く模範解答」「氷の女帝」「人間コンピュータ」と呼ばれる人物だ。
彼女は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げた。
レンズがキランと光を反射し、俺を見下ろす。その視線は、顕微鏡でプレパラート上の微生物を観察する科学者のそれに近かった。
「今の話、盗み聞きするつもりはありませんでしたが、あまりに非論理的で鼓膜が拒否反応を起こしました。数学的にも物理的にも、そして生物学的にも破綻しています」
「うっ」
言葉の圧が物理的な重さを持ってのしかかる。
「極限の概念を根本的に誤解しています。無限級数の和が収束する場合、その総量は有限です。例えば、1足す2分の1足す4分の1……と無限に足していっても、その合計は2を超えません」
彼女は淡々と、まるで教科書を読み上げるように続けた。
「つまり、あなたがどれだけ細かく分割して食べようと、そこにあるカップ麺の総質量、およびエネルギー量は不変です。カップ麺一杯のカロリーは約350キロカロリー。無限に食べたところで、あなたの摂取カロリーは350から1も増えません」
ぐうの音も出ない正論。
完全論破である。反論の余地など、原子一個分も残されていない。
だが、ここで引き下がっては革命家(自称)の名が廃る。男には、引けない時があるのだ。たとえそれが、カップ麺というあまりに小さな戦場であったとしても。
「だが、霧島さん。そこにはロマンがある」
俺は言い返した――と言いたいところだが、霧島さん相手だと、なぜか口調が自動的に矯正される。背筋も勝手に伸びる。これはもはや生存本能だ。
「霧島さん、ですが、そこにはロマンという未知の変数が存在すると思うんです。人の心は数式では測れない、不確定性原理のようなものでは?」
自分でもわかる。キモいほど丁寧だ。
目上でも先生でもないのに、勝手に丁寧語になる。
霧島さんの全身から発せられる「正しさ」のオーラが、俺の歪んだ根性を強制的に整列させるんだよねー。一種の覇気だこれ。王の資質を持っている。
「ロマンで空腹は満たされません。胃袋が必要としているのは概念ではなく、グルコースとアミノ酸、そして脂質です。ATP回路を回すのに必要なのは燃料であって、詩的な表現ではありません」
即答だった。
慈悲がない。あまりにも慈悲がない。
その正論は正しい。あまりにも正しい。1+1=2であることと同じくらい、絶対的な真理だ。
正しいが、俺の理論は「正しさ」だけで構築されているわけではない。「楽しさ」という名のスパイスが必要なんだ。人生にはユーモアという潤滑油がないと、歯車が焼き付いてしまうだろう?
「霧島、君は“可能性”を切り捨てている……あ、いや」
つい素が出た瞬間、霧島さんの眉が0.5ミリほど、ピクリと動いた気がして、俺は慌てて修正する。命の危険を感じたからだ。
「霧島さん、あなたは“可能性”を切り捨てていませんか? 未知への探求こそが科学の扉を開くのでは? ニュートンだって、リンゴが落ちるのを見て『なんで?』って思ったから万有引力を発見したわけで……」
「切り捨てています。検証する価値がないので。時間の無駄です」
「検証しないで否定するのは、科学者のすることじゃないと思うんですが……ガリレオも最初は否定されたわけで……」
「私は科学者ではありません。学生です。そして今は貴重な昼休みです。あなたの妄想に付き合って、カロリーを消費するつもりはありません」
容赦がない。言葉のナイフが鋭利すぎる。切れ味抜群の名刀だ。心臓を正確に突き刺してくる。
俺が反論を探して口をパクパクさせていると、まるで金魚のようになっていると、教室の後方から、場違いに明るい、チャラついた声が飛んできた。
「相馬~、それ成功したら写真撮らせてくれよ! スクープだろ!」
ニヤニヤとした笑みを浮かべ、最新型のスマホのカメラをこちらに向けているのは**真壁 宙士**だ。
茶髪に崩したネクタイ、常にスマホをいじっている彼は、クラスのムードメーカー……と言えば聞こえはいいが、実態は「歩くパパラッチ」「情報のハイエナ」である。
噂では裏でテストの予想問題から教師の不倫現場、誰と誰が付き合っているかという恋愛相関図まで、あらゆる情報を収集・売買しているらしいが、誰もその全貌を知らない。CIAのエージェントかもしれない。
というか本人も否定しない。
否定しないどころか、「高く買う? ビットコインでもいいよ?」みたいな目をしてくる。怖い。資本主義の権化だ。
「記録は重要だからな。人類初の『無限機関』が完成する瞬間だろ? 永久機関の発明となれば、エネルギー問題も解決だ」
「どんな記録だよ……歴史の教科書に載せる気か? 『カップ麺で宇宙の真理に挑んだ愚者』としてか?」
鷹宮が頭を抱える。彼の頭痛の種が増えていくのが目に見えるようだ。
「タイトルはどうする? 『無限に食べ続ける男、相馬。狂気の実証実験』で動画サイトにアップすればバズるぜ。再生数百万はいける。広告収入で焼肉行こうぜ」
「やめてくれ。親に見られたら死ぬ。末代までの恥だ。家系図から抹消される」
「もう死んでるだろ、社会的に。さっき霧島さんに論破された時点で、お前の尊厳はマイナスだ」
「まだ息はある! 心肺停止まではいってない! AEDはまだ必要ない!」
周囲から、くすくすと笑い声が漏れる。
俺たちのクラスは、こういうくだらない会話を許容する空気があった。
あるいは、俺たちのバカ騒ぎが日常のBGM、いや、昼休みの余興として認知されているだけかもしれない。
西日が差し込む教室。チョークの粉の匂い。誰かの弁当の唐揚げの匂い。
――だからこそ、俺はふと思う。
この時間が、ずっと続けばいいと。
だってさ、こういうのが一番幸せじゃない?
テストも進路も将来も、年金問題も地球温暖化も、AIに仕事が奪われるかもしれない未来も、全部めんどくさいけど。
今ここで、数百円のカップ麺と焼きそばパンを挟んで、ああだこうだと笑い合っているのは、嘘偽りのない「本物」だよねー。
「……で、実験はいつ始まるんだ?」
鷹宮が諦めたように箸を止めて聞いてきた。
なんだかんだで付き合ってくれる。彼はツンデレの素質がある。間違いなくいい奥さんになるタイプだ。
「もう始まっている」
俺はカップ麺のフタを完全に剥がし、割り箸を割った。パキン、と小気味よい音が響く。綺麗に割れた。ささくれもない。これは吉兆だ。神が俺を祝福している。
「まず、半分」
ずずっと麺をすする。
チープな、けれど中毒性のある塩分と旨味が口いっぱいに広がる。
思ったより熱い。猫舌の俺にはハードルが高い。だが、理論のためだ。耐える。熱力学第二法則との戦いだ。
「次、残りの半分の半分」
「相馬」
「なんだ」
「普通に食ってるだけだぞ。ただの食事風景だぞ」
「観測者の認識が追いついていないだけだ。シュレーディンガーの猫を知ってるか? 箱を開けるまでは食べたかどうかわからないんだ。俺の胃袋の中は、今、量子的な重ね合わせの状態にある」
「箱の中身、丸見えだけどな。スープの水面が下がっていくのが肉眼で確認できるぞ」
半分、また半分。
量は確実に減っている。物理的には減少の一途を辿っている。
だが、俺の中ではまだ終わっていない。
一口ごとに「これは無限の一部だ」「まだ半分ある」「俺は概念を摂取している」と念じることで、精神的な満腹中枢を騙す。プラシーボ効果の限界への挑戦だ。
――終わらせない。
終わらせたら、俺の革命は「ただの貧乏くさい昼飯」になってしまう。
それだけは避けたい。男には意味のないプライドを守らねばならない時があるんだよねー。ドン・キホーテと言われようと、俺は風車(カップ麺)に挑むのだ。
「……あのさ」
五分後。
鷹宮が呆れ果てた、もはや同情すら滲む、疲労困憊の声で言った。
「普通に全部食って、汁まで飲んでるじゃねえか。完食じゃねえか」
俺は箸を止め、カップの底を見つめる。
そこには、白い発泡スチロールの底面が見えていた。
具の欠片ひとつ、乾燥エビの破片すら残っていない。美しいまでの完食である。
俺の胃袋は満たされた。だが、理論は崩壊した。
「……理論上は、まだ続くはずだったんだが。おかしいな、計算式にバグがあったか? 空間の歪みが発生したか?」
「理論は理論だ。現実は空っぽだ。お前の胃袋も、頭の中身もな」
霧島さんが一歩前に出て、俺のカップを覗き込む。
その目は「やはりこうなりましたか」という、予想通りの実験結果を確認した科学者の目だった。
「相馬くん。あなたは“過程”に価値を見出しすぎて、“結果”を軽視しています。無限分割というプロセスに囚われ、有限の資源(麺)というリソース管理を怠った結果です」
「過程がなければ結果はない。登山の喜びは頂上ではなく道中にある。エベレストも登る過程がドラマなんだ」
「ですが、遭難して死んだら意味はありません。山頂に到達してこその登山です」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
霧島さんの言葉は、いつだって真実を突いてくる。鋭利な針のように、俺の弱い部分を刺す。
――結果。
俺は、いつもそこに辿り着けない。
勉強も、部活も、人間関係も。「なんとなく」でこなして、「面白い理論」で誤魔化して、本気になることから逃げている。
最後までやり遂げたことが、何か一つでも、俺にはあっただろうか?
キーンコーンカーンコーン……。
昼休み終了の予鈴が、無情にも鳴り響く。
カップ麺は、無限にはならなかった。
ただのゴミになった容器が、机の上で寂しく転がっている。
だが、不思議と後悔はなかった。満腹感と、微かな敗北感、そして心地よい疲労感があるだけだ。
こうしてバカなことを言って、鷹宮に突っ込まれて、霧島さんに叱られて、真壁に笑われる。
それが俺の「結果」なのかもしれない。この関係性こそが、俺が作り出した唯一の「作品」なのかもしれない。
「なあ、鷹宮」
「なんだ。まだなんかあるのか。もう予鈴だぞ」
「次はトーストで試してみないか? パンくずになっても食べ続ければ――『パンくずのパラドックス』だ」
「やめろ。二度と俺に話しかけるな」
即答だった。食い気味だった。
――こうして俺たちの昼休みは、今日も無駄に、そして全力で浪費されていく。
そのはずだった。
明日も、明後日も、こんなバカな日常が続いていくはずだった。
次の瞬間、教室が大きく揺れた。
ガタガタガタッ!
最初は「また地震か?」くらいにしか思わなかった。
日本にいれば慣れっこだ。震度3くらいかな、ちょっと揺れが大きいな、なんて呑気に構えていた。スマホの緊急地震速報も鳴っていないし、すぐに収まるだろうと。
だが、違った。
揺れは収まるどころか、加速度的に増大した。
ガタガタガタッ――ズドドドドドッ!
世界そのものをシェイカーに入れて振るかのような、暴力的で理不尽な縦揺れ。
窓ガラスが一斉に割れ、粉々になった破片がダイヤモンドダストのように舞い散る。
悲鳴が鼓膜を裂いた。女子の甲高い悲鳴、男子の怒号、机が倒れる音。
そして。
バキィィィィン!!
巨大な金属音が響き、床が、沈んだ。
比喩ではない。物理的に、俺たちの立っている足場が消失したのだ。
「……え?」
視界が傾く。
固定されていたはずの机が浮く。カップ麺の空き容器が宙を舞う。
隣の鷹宮が、目を見開いて何かを叫んでいる。彼の顔がスローモーションで歪んでいく。
「相馬っ!」
音が遠のく。
霧島さんの眼鏡が、スローモーションみたいに宙を舞った。光を反射して、綺麗だった。彼女の冷静な表情が、初めて驚愕に崩れる瞬間を見た気がした。
真壁が「ちょっと待て、スマホ!」って叫んだ。
いや、そこかよ。命よりデータかよ。ブレないな、お前。最期までパパラッチかよ。
次の瞬間、俺の身体は抗いようのない重力に引きずられ、コンクリートの割れ目、奈落の底へと落ちていった。
内臓が浮き上がるような浮遊感。
瓦礫が雨のように降ってくる。
思考だけが、やけに冴えていた。
走馬灯ってやつだろうか。脳内物質のエンドルフィンが大量放出されているせいだろうか。
(ああ……)
(理論上、これは――助からないな)
落下速度、瓦礫の質量、人体の耐久度。
どう計算しても、答えは「死」だ。
無限カップ麺理論ならぬ、有限人生理論。
皮肉なもんだ。俺の人生、ここで「結果」が出ちまった。
最後まで考え切る前に、
世界は、白に塗り潰された。
ドンッ――という衝撃すら感じなかった。
痛覚はなかった。
ただ、スイッチが切れるように、テレビのコンセントを引っこ抜くように、俺という存在が世界からログアウトした。
*
白は、眩しいというよりも、無機質だった。
コピー用紙のような温かみのある白さではない。発光ダイオードの直視とも違う。
光というより、「無」が色を持ったらこうなる、という概念的な白さ。
距離も奥行きもなく、上下すら曖昧で、俺は「立っている」のか「浮いている」のかすら判断できなかった。足の裏の感覚がない。
だが、不思議と恐怖はなかった。
恐怖を感じるための脳味噌も心臓も、今の俺にはないのかもしれない。肉体というハードウェアを失った、純粋なソフトウェアだけの存在になったような感覚。
(……死んだのか?)
そう考えた瞬間、やけに冷静な自分がいることに気づく。
叫びも混乱もなく、ただ状況を整理しようとしている。
テスト勉強を一夜漬けで諦めた時の、あの妙に晴れやかな悟りに似ている。「あ、これ無理だわ」と受け入れた時の感覚だ。
(落下速度と瓦礫の質量から考えると、生存確率は0.001%以下。限りなくゼロに近い。奇跡が起きても全身不随。つまり、ここは病院のベッドではない。天国か、地獄か、あるいは煉獄か)
そこまで考えて、思考が止まった。
いや、止めたくない。考えると怖いから。死を実感してしまうから。
「いや、もう遅いだろ」
声に出してみると、きちんと反響した。
おや? 声が出る。空気がある。音波が伝わる媒体がある。
ということは、俺は存在している。少なくとも、意識というOSは稼働中だ。
「……死後の世界って、もっとこう、お花畑とか、三途の川とか、六文銭を持ったおばあちゃんがいると思ってた。予算不足か? 開発中のマップか?」
誰に向けたでもない独り言だった。
ツッコミ待ちだったが、鷹宮の声はしない。あの辛辣な声が懐かしい。
『――思考活動、正常。魂の波長、安定を確認』
突然、声がした。
耳からではない。
頭の内側に、直接データとして書き込まれるような、粘度のある感覚。テレパシーというよりは、脳内に直接テキストファイルを送りつけられたような違和感。
「……誰だ? 俺の脳内に直接語りかけているのは。プライバシーの侵害だぞ」
『案内役です』
「雑だな。名前とかないのか? エンジェル・鈴木とか、女神アクアとか」
『ありません。機能としての存在です。強いて言うなら、システム・アドミニストレーターです』
白の中に、ゆっくりと輪郭が浮かび上がる。
人の形をしているようで、していない。ノイズが走ったホログラムのように、顔はぼやけ、性別も年齢もわからない。
ただ、「極めて事務的な雰囲気」だけが漂っている。役所の窓口担当者のような、感情の欠落したオーラだ。
『あなたは先ほど、死亡しました』
「やっぱり? 確認ありがとう」
『はい。校舎老朽化による床崩落。瓦礫の下敷きになり、圧死。即死判定です。苦痛を感じる暇もなかったはずです』
「“判定”って言葉を使うな。ゲームオーバー画面みたいに言うなよ。……まあ、痛くなかったのは救いか」
即死と聞いて、胸が少しだけ軽くなった。
苦しまなかったなら、それでいい。痛いのは嫌いだ。注射だって嫌いなんだから。圧死なんて想像したくもない。
「……で? ここは天国の待合室? それとも閻魔大王の裁判所?」
『これから、あなたの進路を決めます』
「進路? 三者面談かよ。親は呼んでないぞ」
『現世に戻ることはできません。肉体が全損しています。修理不可能です』
「全損って……車みたいに言うな。廃車確定か。保険は下りないのか」
『代替案として、異世界への転生が可能です』
「……は?」
あまりにもテンプレートな言葉に、逆に現実感が薄れた。
最近のラノベでも、もう少し捻るぞ。トラックに轢かれるとか、過労死するとか。学校ごと崩落って、昭和のパニック映画かよ。
「異世界って、あれか? 剣とか魔法とか、ドラゴンとか?」
『その認識で問題ありません。文明レベルは中世ヨーロッパ風。魔法が存在し、魔物が跋扈する世界です。衛生環境は劣悪ですが、魔法による補正があります』
「選択肢は?」
『ありません』
「強制イベントかよ。ルート分岐なしか」
俺は少し考えた。
考えてからでないと、選べない性分だ。いや、選べないなら考えるだけ無駄か?
いや、待てよ。「異世界転生」ということは……。
「……ちなみに、拒否したら?」
『魂を構成するエネルギーを分解し、宇宙の循環、すなわち“無”に還ります。自我は消滅します』
「じゃあ転生で。即決で」
『判断が早いですね』
「理論上、生き続けられる方がいいに決まってる。無になるのは、ちょっと退屈そうだ。俺はまだ喋り足りない」
案内役は、一瞬だけ沈黙した。
こいつ、AIか何かのくせに「やれやれ、変なのが来たな」といった雰囲気を出しやがった。
すると、白の向こうから、聞き覚えのある、騒がしい声が響いてきた。
「うわ、マジかよ……これ、夢じゃねえのか? 痛くねえぞ」
「……ん?」
見れば、空間の一部が歪み、そこから人影が現れた。
鷹宮だ。制服姿のままで、自分の腕を何度もつねっている。
その隣には、必死にスマホを操作しようとしている真壁。
そして、何もない空間の成分分析でもしているかのように虚空を睨む霧島さん。
「え、鷹宮? 真壁? 霧島さん? みんなも?」
「相馬! お前もいたのか!」
鷹宮が俺に気づき、駆け寄ってくる。幽霊同士の再会にしては、足音がしっかりしていた。
「状況的にそうだろ! 床が抜けたんだぞ! お前が生きてるわけないだろ!」
「電波ねえ……圏外だ……クラウドにアップできねえ……私のフォトライブラリが……」
真壁が絶望している。死んだことよりネットが繋がらないことがショックらしい。現代っ子の病理だ。
「……霧島さん、やっぱり皆さんも……ですか?」
俺が尋ねると、霧島さんは眼鏡の位置を直しながら(眼鏡ごと霊体化しているらしい。魂の形状が眼鏡なのか?)、冷静に頷いた。
「はい。落下の衝撃、校舎の構造、救助までの時間。総合的に考えて生存は困難です。私たちの肉体は、物理的に機能を停止しています。先ほど、この白い案内役から通告を受けました」
「ですよね……」
俺の口調がまた丁寧になったのを、鷹宮が横目で見てくる。
「お前、死んでも霧島相手だと丁寧になるのなんなんだよ」
「え、だって霧島さん怖い……じゃなくて、正しいじゃん? 死後の世界でも彼女の正しさは揺るがない気がする。地獄の鬼も彼女には敬語を使うと思う」
「正しいって理由で敬語になる奴初めて見た。お前、権威に弱すぎだろ」
『騒がしいですね』
案内役の声が、全員の脳内に響く。
鷹宮と真壁がビクリと震えた。
「うわっ、なんだこの声!? 頭の中に直接!」
「ステレオ放送? 5.1chサラウンド?」
『説明は省略します。相馬恒一の記憶領域と同期してください。面倒なので』
「あ、共有できるんだ。Bluetoothみたいなもんか」
俺が「かくかくしかじか、俺たちは死んで異世界に行くらしいぞ」と念じると、三人が「あー、なるほど」「マジか」「了解」みたいな顔になった。
便利だな、死後の世界。言葉がいらない。以心伝心システムだ。
『それでは、あなた方の適性を評価し、転生特典を付与します』
「来たな」
俺は身構えた。
正直、ここが一番気になっていた。
異世界といえば、チート能力だ。これはもう義務教育で習うレベルの常識だろう。
俺にはどんな力が? やはり革命的な知能に見合った、すごい魔法とか? 全知全能の力とか?
『相馬 恒一。あなたは、生前、非常に特徴的な思考傾向を示していました』
「そうか? 天才的だったか? レオナルド・ダ・ヴィンチの再来か?」
『極端に非効率で、現実的ではなく、空理空論を愛し、しかし最後まで思考を放棄しない。無駄なことを延々と考え続けるリソースの無駄遣い』
「褒めてる? それ、遠回しにバカって言ってない? ディスられてる?」
『ユニークであると評価しています。希少種です』
白い空間が、わずかに歪み、俺の胸元に光の球が吸い込まれた。
温かいような、むず痒いような感覚。
『あなたに付与されるのは――スキル【無限思考】』
「……それだけ? ビームとか出ないの? 手から炎とか」
『正確には、“理論上可能だと認識した事象について、思考を途中で放棄しなくなる能力”です。また、思考速度を極限まで加速させることができます。体感時間を引き延ばし、一瞬で数万回のシミュレーションが可能です』
「それ、元からじゃない?」
『生前は精神的限界、または空腹により、しばしば中断されていました』
「……確かに」
カップ麺の理論も、最後は空腹とチャイムに負けた。人間の生理的限界だ。
『この能力は、肉体的・精神的制約を受けません。あなたが「いける」と思った思考は、答えが出るまで止まりません。思考の暴走機関車です』
「役に立つのか?」
『理論上は、非常に有用です。魔法の構築、戦術の立案、新技術の開発。思考こそが世界を変えます。使い手次第ですが』
「理論上って言うな。俺のセリフだ」
案内役は、初めて少しだけ“困ったような間”を作った気がした。
『続いて、他三名にも付与します』
「え、みんなにも? 俺だけ主人公じゃないの?」
『当然です。同時死亡者は、同一世界線へパーティとしてまとめて転送します。運命共同体です』
「パーティ扱いかよ。RPGか。バランス悪そうだな、このパーティ」
まず鷹宮。
『鷹宮 一朗。付与スキル――【戦術演算】』
「せんじゅつ……えんざん?」
『周囲の情報を基に、生存・勝利のための最適解を複数提示します。戦闘・交渉・移動・資源配分など、あらゆる局面で「詰み」を回避するルートが視覚的に見えます』
鷹宮が眉をひそめる。
「要するに、頭が良くなるのか?」
『いいえ。あなたの“現実的判断”を数値化し、カーナビゲーションとして視界に表示します。選択するのはあなたです』
「……現実の暴力じゃねえか。俺に苦労人の役回りを続けろってことか? 異世界でも俺は相馬の介護係か?」
俺は素直に思った。
これ、強い。めちゃくちゃ強い。
異世界で「ちゃんとしてる役」決定だ。俺の保護者確定だ。俺が暴走しても、彼が首輪を握ってくれるだろう。
次に霧島さん。
『霧島 仁絵。付与スキル――【解析】および【完全記憶】』
「……解析、ですか」
霧島さんの声は相変わらず平坦だが、わずかに目が鋭くなる。学者の目だ。新しい顕微鏡を手に入れた時の目だ。
『対象のステータス、構造、材質、真偽、価値を可視化します。さらに、見聞きした情報を誤差なく保持します。異世界の言語も、一度聞けば文法構造ごと理解可能です』
「それ、ズル……じゃなくて、すごいですね」
俺は丁寧に言った。
霧島さんは軽く頷くだけ。
「当然です。知識こそが力ですから。未知の世界において、情報は命より重い」と言わんばかりだ。彼女こそが最強かもしれない。
最後に真壁。
『真壁 宙士。付与スキル――【複写】』
「アーカイブ? コピー?」
『視界に入れた事象を“保存”し、必要時に再生・投影・実体化できます。映像だけでなく、音、匂い、触覚の一部まで記録可能です。魔物の姿を記録し、幻影として出すことも可能です』
「え、マジで? 俺、ガチで高性能カメラになった? 3Dプリンター付き?」
『あなたの執着が“記録”に向いていました』
「最高じゃん。異世界でもスクープ撮り放題だ。冒険者の恥ずかしい瞬間とか撮って売ろう。異世界の週刊誌を作るぞ」
鷹宮がすぐ突っ込む。
「お前はまず生き方を改めろ」
「生き方は改めない。稼ぎ方は改める。通貨が変わるからな。ゴールドか? 宝石か?」
案内役が補足するように続けた。
『ただし【複写】は“代価”が必要です。保存できる容量には限度があり、容量超過時は古い記憶、あるいは自身の思い出が消去されます』
「うわ、それ俺の人生みたいだな。テスト勉強すると友達の名前忘れるんだよ。ところてん式かよ」
「それはただのバカだろ!」
鷹宮がまた叫ぶ。ツッコミ役、過労死しそうだ。
案内役は淡々と続ける。
『異世界では、常識があなた方の世界と異なります』
「だろうな」
『多くの場合、あなたの思考は理解されません』
「慣れてる」
『場合によっては、異端として処刑されます』
「えっ、それは困る。火炙りは嫌だ」
『健闘を祈ります』
白が、ゆっくりと色を帯び始める。
緑。青。土の匂い。風の音。
転移が始まる。
『最後に、質問はありますか』
俺は、少しだけ考えた。
これから行く世界。もう戻れない日常。
不安がないと言えば嘘になる。家族のこと、家の冷蔵庫に残してきたプリンのこと。
だが、俺にはもっと重要な問いがあった。
「ちょっと待て」
『はい』
「……理論上、異世界でも腹は減るか?」
『生物である以上、エネルギー補給は必須です』
「だよな」
真壁がニヤッとする。
「お前、死んだ直後に聞くことそれかよ。ブレねえな」
「だって大事じゃん? 腹減ると人は弱いんだよねー。ナポレオンも言ってた気がする。『兵隊は胃袋で動く』って」
鷹宮が頭を抱え、霧島さんが小さく、本当に小さく息を吐いた。
「……相馬くん。異世界の食文化は未知です。まず安全性の確認が必要です。毒があるかもしれません。寄生虫がいるかもしれません」
「霧島さん、すみません、そこまで考えてませんでした。毒見係は鷹宮にお願いしようかと」
「ふざけんな! 俺をマウスにするな!」
鷹宮の罵声と共に、視界が急速に暗転する。
ジェットコースターの落ちる瞬間のような、内臓が持ち上がる浮遊感。
「じゃあ、次は――」
最後の意識で、俺は考えた。
「……理論上、無限に生きられる方法でも探すか。死ぬのは一回で十分だ。次はもっとうまくやる」
次の瞬間、世界が弾けた。
土の感触。ゴツゴツとした硬さ。
草の匂い。濃密な緑の香り。
鳥の声にしては、少し野太い、恐竜のような鳴き声。
そして――
「……腹、減った」
そう呟いた俺の異世界生活は、あまりにもいつも通りに始まった。
*
目を開けると、そこは鬱蒼とした森の中だった。
木々の高さが異常だ。東京タワーくらいあるんじゃないかという巨木が立ち並び、空を覆っている。
葉の一枚一枚がバカでかい。雨傘くらいの大きさがある。
空気は澄んでいて、少し甘い香りがする。マイナスイオンが致死量レベルで充満している気がする。肺が驚いているのがわかる。
俺たちは、制服姿のまま、草むらに投げ出されていた。
「痛ってぇ……着地失敗した……腰やったかも……」
鷹宮が腰をさすりながら起き上がる。
「うわ、すげえ! 解像度やばい! これ16K超えてるわ! 毛穴まで見える! テクスチャの貼り遅れがない!」
真壁が周囲をキョロキョロしながら、「これ撮れるかな」と虚空に指枠を作っている。すでにパパラッチの目が稼働している。
「皆さん、動かないで」
凛とした声が響く。
霧島さんが、地面の土をつまみ、周囲の植物を鋭い眼光で見つめていた。眼鏡がキラリと光る。
「……大気成分、酸素濃度21%、窒素78%。地球とほぼ同じ。重力加速度も9.8m/s²と推定。ただし、地磁気が乱れています。方位磁針は役に立ちません。あと、植生が明らかに地球の分類体系から逸脱しています」
「おお、さすが霧島さん。いきなり科学してる。頼りになる」
「生存確認が最優先です。相馬くん、まず状況確認だ。ここはどこだ」
鷹宮に問われ、俺は適当に辺りを見回し、鼻をひくつかせた。
「えーっと、森っぽいよねー。雰囲気的に、ジブリとジュラシックパークのあいのこかな?」
「著作権的に危ない場所だな! もっと真面目に分析しろ! 植生とか湿度とか!」
「鷹宮、お前は視野が狭い。あそこを見ろ」
俺が指差した先には、確かに蛍光色に輝く、毒々しい紫色のキノコが群生していた。傘の部分が脈打っている。明らかにヤバい。
俺は近づいて観察する。
「……理論上、色が派手なやつほど、実は美味い可能性がある。自然界の逆張りだ。毒を持っていると見せかけて、捕食者を油断させる高等戦術かもしれない。深海魚とかそういうのあるじゃん?」
「ねえよ! 警戒色だよ! 食ったら死ぬやつだ! マリオでも死ぬぞ!」
「鷹宮は相変わらず保守的だねー。リスクの先にこそ美食のフロンティアがあるのに」
「お前のフロンティアは冥土だろ!」
霧島さんが立ち上がり、制服の埃を払う。
「成分分析完了。アルカロイド系の神経毒を含有しています。摂取後30秒で全身痙攣、1分で呼吸停止に至ります」
「ほら見ろ! 即死じゃねえか!」
「……チッ。惜しかったな」
「舌打ちするな! 命拾いしたんだぞ!」
俺たちの日常会話(漫才)は異世界でも健在だった。
場所が変わっても、世界が変わっても、俺たちは俺たちのままだ。
――ただ一つ違うのは。
ズガガガガッ!
茂みが爆発したかのように揺れた。
現れたのは、熊と猪を足して二で割り、そこに「殺意」というスパイスを樽ごとぶちまけたような、巨大な牙を持つ獣だった。
体長は3メートルほど。赤い目が、明らかに俺たちを「エサ」として認識している。よだれの量が俺の比ではない。滝のように流れている。
「……でかいな。豚骨ラーメン何杯分だ?」
俺は呟いた。
「相馬、質量計算してる場合か!」
鷹宮が叫ぶ。彼の目の前に、赤い光のラインが走っているのが見えた。スキルの【戦術演算】が発動しているらしい。
「逃走ルート検索……ダメだ、囲まれてるわけじゃないが、あの脚力からは逃げ切れない! 生存確率12%!」
「低っ! ガチャのSSRより低いぞ! リセマラさせてくれ!」
真壁が青ざめる。
獣が咆哮を上げた。空気がビリビリと震える。
次の瞬間、巨体が砲弾のように突っ込んできた。
地面を蹴る音が、重低音となって響く。
「うわあああ! 死ぬ死ぬ!」
「散開してください! 直線上の攻撃です! 慣性の法則を利用して!」
霧島さんの指示で、俺たちは左右に飛び退く。
獣は俺たちがいた場所を通り過ぎ、太い木をへし折って止まった。
バキバキバキッ!
凄まじい馬力だ。あれは軽トラじゃなくてダンプカーだ。戦車かもしれない。
「どうすんだよこれ! 魔法とかねえのかよ!」
鷹宮が叫ぶ。
「まだ使い方がわからねえ!」
「霧島さん、あいつの弱点は!?」
走りながら俺は叫ぶ。
「解析中……対象名『フォレスト・ボア』。皮膚硬度が高いですが、腹部は柔らかい。あと、右前脚に古傷があります! 過去に罠にかかった痕跡です!」
「さすが! 細かい!」
「真壁、あいつの動きをコピーして幻影で囮にしろ!」
「無茶言うなよ! まだ容量が……あ、いや、やるしかねえ!」
真壁がスマホを構えるポーズをとる。
指をパチンと鳴らすと、獣の目の前に「もう一匹の獣」が一瞬だけ現れた。
本物が驚いて足を止める。「え、俺?」みたいな顔をした。
その隙に、俺たちは大木の陰に滑り込んだ。
ぜえ、はあ、と荒い息をつく。
心臓が早鐘を打っている。アドレナリンが出まくっている。
これが、異世界。
これが、現実。
カップ麺が伸びるとか、そんな次元の話ではない。命のやり取りだ。
「……死ぬかと思った」
鷹宮が膝に手をついて言う。
「理論上、まだ死んでない」
「うるさい」
でも、と俺は思う。
俺たちは連携した。
鷹宮がルートを示し、霧島さんが情報を出し、真壁が時間を稼いだ。
「なあ、俺の出番は?」
「お前は走ってただけだ。役立たずだ」
「いや、俺は思考していた。『どうすればあいつを美味しく食べられるか』を」
「お前、まだ食う気かよ! あのモンスターを!」
四人の間に、笑いが漏れる。
極限状態での、乾いた笑い。だが、確かに俺たちは生きている。
緊張が緩和され、少しだけ空気が軽くなる。
ここには、壁がある。
帰れない壁。
元の世界と、今の世界を隔てる壁。
そして、俺たちが越えなきゃいけない、生存という壁。
……まあ、越えるしかないよねー。壁があったら、穴を開けるか、登るか、あるいは「壁なんてない」と思い込むかだ。
俺は立ち上がり、巨大な森の奥を見据えた。
スキル【無限思考】が、脳の奥で静かに唸りを上げている。タービンが回り始める音がする。
この世界で、俺たちが生き残るための「革命的理論」を構築するために。
「行くぞ。まずは安全地帯の確保だ」
「お、珍しくリーダーっぽい」
「理論上、リーダーは一番偉いから、一番楽ができるはずだ。お神輿に乗る係だ」
「撤回。お前は先頭を歩け。地雷原を歩け」
鷹宮に背中を押され、俺は一歩を踏み出す。
冒険が始まる。
長く、騒がしく、そして最高に無謀な、俺たちの第二の人生が。
理論上、面白くならないはずがない。
だって、俺たちはバカなんだから。




