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第5話 塩だけスープとナイトドリフト

 深夜1時を過ぎたころ、ホテルの自動ドアが静かに開いた。

 冷たい風がロビーに流れ込み、バーテンダーの田町舞はフロントのパソコンで残務作業の姿勢のまま

 顔を上げた。

 

 ゆっくりと入ってきたのは、一人の男。

 フードを深く被り、肩をすぼめている。

 右腕には雑に巻かれた包帯。

 その動きには、どこか“かばう”ようなぎこちなさがあった。

「……お客様、チェックインですか?」


 舞が声をかけると、男は少し間を置いてから、低い声で答えた。

「……一晩。部屋、空いてますか」

「大丈夫、空いてますよ」

 男が顔を上げた瞬間、舞は息を吸った。


 ──目が荒れている。

 酒でも眠気でもない、逃げ場のない夜を歩き続けてきた目。

 鍵を渡すと、男は無言で階段を上がっていった。


「舞、見た? さっきの人……」

 フロントの京子がひそひそ声で寄ってくる。

「うん、まあ。怪我してたね」

「いや、怪我だけじゃなくて……なんか怖くない? 目つきとか」

「何かから逃げてる人の顔してた」

 舞は、はっきりと言った。

 京子が青ざめる。


「やだなぁ……変な事件とか、近くで起きてないよね……」

「起きてたら、もっと騒がしいよ」

 舞は言いながら、どこか引っかかるものを感じていた。

 胸の奥で、重い石がコトリと転がるような感覚だ。


 午前2時。

 フロントのテレビに、緊急ニュースが流れた。

『市内で傷害事件。犯人は逃走中。背格好は──』

 京子が声を失う。

「ねえ……これ、さっきの人じゃん……」

 情報が一致していた。

 包帯、フード、体格、時間帯。

 舞は腕を組みながら、テレビをじっと見つめた。


「……まあ、そうみたいだね」


「“そうみたい”って……どうするの、舞さん?」

「どうもしないよ。まだ何もしてないし、うちにいる間は“お客様”」

「でも危ないじゃん……!」

 舞は、フロントの奥に漂ってきた香りに視線を向けた。

 ──スープの静かな匂い。

 厨房では、神谷奏が夜何かをつくっている。


 彼は鍋を見つめながら、誰かの体温に耳を澄ませるような目をしていた。

「奏さんは分かってるっぽいね」


「……あの人のため?」

「うん、たぶん不思議な人だね」


 男が部屋から降りてきたのは、午前四時。

 落ち着かない足取りでロビーを歩き、ふらりとバーの方へ向かってくる。


 舞はカウンターの上に古いウイスキーグラスを置き、軽く指で弾いた。

 澄んだ音が静かな空間に響く。


「眠れなかった?」

 男は答えず、ただ椅子に沈み込んだ。

「……水を……」

「水じゃ、足りない顔してる」


 舞はスピードラックからラムを取り出し、無駄のない動きで量り取った。

 コーヒーリキュールを少量、トニックをほんの一滴。

 レモンピールを軽く炙ると、焦げた柑橘の香りがふわりと立ち上がる。


「……酒は……飲む気分じゃ……」


「飲むんじゃない。流すの」


 舞は一杯のカクテルを男の前に置いた。



「“ナイト・ドリフト”。

 沈むのは勝手。でもね、流されるのは悪くない夜もあるよ」


 男は手を伸ばし、震える指でグラスを包んだ。

 一口飲んだ瞬間、肩がわずかに下がる。

 じわりと滲むように、男の口が開いた。


「……俺は……」

 言いかけたところで、厨房から奏が現れた。

 銀のトレーの上には湯気を立てるスープと、焼きたてのパン。

「腹、減ってるでしょう。食べな」

 男は驚いたように奏を見た。


「……俺に……? なんで……」

「お腹が減ってるときは何も考えずに食べな」

 スープを差し出す奏の声には、いつもの静かさがあった。

 逃げる者を責めない、ただ“そこに置いておく”ような温度。

 男はスプーンを口に運ぶ。


 塩だけのスープが、遅れてじんわりと胸に広がる。

 そして、ついに。


「……俺……やっちまった……」


 男の瞳から、涙がこぼれ落ちた。

 スプーンを握る男の指先が、かすかに震えていた。

 透明なスープの中に灯る明かりが、揺れながら彼の瞳に映り込む。


「……俺……やっちまったんだ」

 その声は、酒気ではなく、罪に押しつぶされそうな重さを帯びていた。


 舞はグラスを磨く手を止めず、ただ耳だけを向けている。

 奏は静かにカウンターへ近づき、男の横に腰を下ろした。

「どこまで話せる?」

 奏の声は、責めるでも庇うでもない。

 “話したいならどうぞ”という、ごくまっすぐな温度だ。


 男は俯き、短く息を吐く。

「……同僚と……殴り合いになった。初めは売り言葉に買い言葉だったんだ。

 でも気づいたら、相手が倒れてて……血が……」


 言葉が途切れる。


 グラスの氷が、コトリと音を立てた。


 舞はつぶやくように言う。

「じゃあ、逃げてきたんだ」

「……ああ。家にも帰れねぇ。

 警察に行く覚悟もねぇ……情けないだろ」


「そうでもないよ」

 舞は顔も上げずに答えた。


「人間、追い詰められたら平気で逃げる。

 あたしだって逃げたことあるし。

 ……でもね、逃げ切れない夜って、どっかで来るのよ」


 男は舞を、揺れる目で見つめる。


 まるで、暗闇の中で初めて誰かに声を掛けられた子どものように。


 奏は男の前に、もう一切れパンを置いた。

「食べながらでいいよ。

 人って、空腹だと冷静になれないから」

 男はパンを持ち上げ、また震えた。


 だが、噛みしめた瞬間、目に光が灯る。

 その光は、後悔でも恐怖でもなく――

 ようやく“立ち止まった人間”が見せる、かすかな正気の色だった。


「……俺、どうしたら……」

 男の声は、スープに溶ける湯気のようにか細い。


「決めるのは、あなた自身よ」

 舞はレモンピールの欠片をグラスに沈めながら、落ち着いて続ける。


「でもね、あたし個人としては……

 “罪を吐き出したあとに流れる夜”っていうのを、一度見てみたくて」


「流れる……夜……?」


「あなたがこのまま逃げても、誰も幸せにならない。

 でもね、一度立ち止まって向き合った人間は、案外……その後の夜が軽くなるのよ」


 奏が付け加える。

「自首、してみたら?

 ここで温かいもの食べて舞さんのカクテル飲んだあとなら……歩けるだろう」

 

 男は唇を噛んだ。

 その瞳の奥で、長い夜が軋む音が聞こえた気がした。

 

 そして――

「……行くよ。今から、警察に」

 その一言は、決して強くなかった。

 だが、夜明け前の空に最初の光を落とすような、確かな響きを持っていた。

 

 ロビーに、まだ薄暗い紫色の時間が流れる。

 

 男は立ち上がり、深く頭を下げた。

「……ありがとう。こんな俺に……」


「礼を言うなら、帰ってきたときにしてよ」

 舞は軽く手を振る。


「“逃げない夜を選んだ人”がどうなるのか、あたし見てみたいし」

 男の口元が、わずかに揺れた。

 笑ったのか泣いたのか、分からない表情で。

 奏はドアを開け、冷たい朝の空気を吸い込む。


「行ってらっしゃい」

「……ああ」

 ドアが閉まる。

 男の背中が、ゆっくり朝の街に溶けていった。


 舞はカウンターのグラスをひとつ取り、静かにため息をついた。

「……はぁ。こんなホテルじゃないんだけどな、本来は」

「そうだね。普通は寝て起きて、ご飯食べて帰る」

 奏も肩をすくめる。

「でもまあ、人が流れ着く場所ってのは、何かしら事情があるよ」

「料理人らしいこと言うじゃない」

「君こそ。バーテンダーらしいじゃないか」

 二人は目線を合わせ、小さく笑った。

 そのとき。

 厨房から、朝食用のパンが焼ける匂いがふわりと広がった。

 舞が言う。

「……ねえ、奏。

 今夜さ、もうちょいだけ『流れる夜のカクテル』作りたいんだけど」

 奏は笑いながら、鍋の蓋を開けた。

「じゃあ僕は、その横で“帰る場所の味”を作ろうかな」

 夜が、ゆっくり明けていく。

 どんな客が来てもいい。

 流れ着く場所である限り、このホテルは今日も静かに灯り続けていた。


第6話「スマホと恋とビーフシチュー」につづく

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