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第4話 職人とトラウマとコーヒーと

午後の光が傾き始め、ホテルの厨房には静かな熱が満ちていた。


ランチ営業を終えたあと、神谷奏は黙々と包丁を走らせ、ひとつひとつの仕込みを積み重ねていく。

隣では佐山結が小鍋を火にかけ、ソースの濃度を確かめていた。

濃厚な香りが漂い始めるたび、彼女は眉を寄せて味を見直す。

「奏さん、それ終わったら、ブイヨン取りますよね?」

結が声をかけると、奏は軽く顎を動かして返した。

その無駄のない動きは、料理人の年季そのものだった。

そんな空気を破るように、厨房の裏口から気楽な声が聞こえた。


「やぁ、精が出ますねえ」

振り向くと、青い作業服姿の男――川谷はじめが、大きな段ボールを軽々と片手で運んでいた。

「今日の分、置いていきますよ。あと、いつものコーヒー淹れてもらっても?」

結が苦笑して答える。

「コーヒー飲みに来たんですか、ここカフェじゃないですよ」

「いいじゃないですか、仕事の合間の楽しみですよ」

川谷は肩をすくめながらカップを探し、勝手知った動きでポットの前に立った。


奏は包丁の手を止めると、川谷の方へ視線を向ける。

「今日の納品も助かったよ……。あれ…手に入りにくかったろ」

「ええ、まぁ。でもそこは私のコネクションでね。」

川谷は軽く笑ったが、その目は一瞬だけ鋭く奏の手元へ向いた。

「……その手付き、奏さんの専門料理はなんです?」

奏はわずかに苦笑し、包丁を拭った。

「さあ……な……」

川谷は納得したように頷くと、コーヒーを啜った。


しかしその空気を断ち切るように、厨房の扉が勢いよく開いた。

「奏さん、結ちゃん、ちょっといいか!」

支配人・木島五郎が、額に汗を浮かべて立っていた。

結が慌てて小鍋を火から外す。


「支配人、どうしましたか?」

「急な話で申し訳ないんだが、今夜のディナー……VIPのご要望があってね。

 “特別な一皿”を希望されている」


奏は眉をひそめた。

「特別……とは?」


支配人は困ったように、しかし期待を込めるように言った。

「この食材だよ。取り寄せがむずかしいみたいでさ」

差し出された紙に書かれた食材名を見て、奏も結も絶句した。

「ノコギリガザミの雲南古樹茶蒸しアルマスキャビア添え」

それは、結がかつて失敗して強く叱られたことのある、扱いの難しい高級食材だった。

「え……このメニュー調理が難しいやつ…だ…」

結の手がわずかに震える。


支配人は視線をさまよわせながら続ける。

「代替メニューを提案しても、“このホテルに任せる”って言われてそれって……わかるよね」


奏は腕を組んでぼーっとしている。。

「まず……この食材自体今からじゃ準備できないでしょ」


結は不安げに奏を見上げる。


そのとき、静かに川谷が口を開いた。

「……準備できますよその食材」

全員が川谷を見る。

「出来るの?」

奏が半信半疑で聞き返した。

川谷「まぁ、これも仕事ですから、ただし一つ条件があります」

川谷は結へ視線を向けた。

「奏さんじゃなく、結ちゃんが作ること!それが条件です。」


「え……私……ですか?」


結の顔色が変わった。

かつてのトラウマがよみがえる。


「私は……前の店でこれを扱って、失敗して……。

 怒鳴られて、厨房に立つのが怖くなったんです」


奏はゆっくり結の隣に立つ。

「料理人は沢山の不安と一緒に生きてる。

 だけど逃げたら、料理人の誇りまで失う」


奏の声には、かつて世界を渡り歩いた料理人としての重みがあった。

「俺も、昔逃げた日があった。

 でも……結さんには俺みたいになってほしくないから……

 俺もフォローする。やってみよう」


結はしばらく俯いたまま、息を整えた。

そして、小さく頷く。

「…わたし…やります。やらせてください」


支配人は胸をなでおろし、川谷は満足げにコーヒーを飲み干した。


ーー数時間後


「こんにちは~持ってきたよ~」

川谷がクーラーボックスを作業台に置きながら陽気に入ってきた。

食材が届くと、厨房の空気は一変した。


「本当に調達しやがった」

奏がクーラーボックスを開け食材を見ながらつぶやく

結も食材を見た瞬間緊張で手が固くなり、呼吸がぎこちなくなる。


「落ち着け、大丈夫だ……結はちゃんと料理人だ……結の料理を食べた人の笑顔を思い出せ。」


そんな二人を、川谷はカウンターに座って静かに眺めていた。


結が深呼吸してから食材に包丁をあてようとしたとき

「結ちゃん、その包丁の入れ方……まだ“前の店の癖”だ。

 もっと自由に今の結ちゃんのやりかたでやったら」

結ははっとして手を止める。


「どうして……そんなに私のことを……?」


川谷は少しだけ視線を伏せた。

「あなた、よく厨房の端で練習してたでしょう。

 怒鳴られたあと、泣きながらまかない作ってた日もあったよね。

 配達してるときによく見かけたよ」

結は息を呑む。

奏も驚いて川谷を見た。


川谷は続ける。

「努力してる料理人は、放っておけないんですよ。

 俺はただの卸屋だけど……“職人が育つ瞬間”を見るのが、仕事でもあるんですよね」

 どこか優しい声音だった。


結は再び包丁を握る。

その手元には、先ほどの迷いはもうなかった。

奏も横に立ち、二人は息を合わせるように仕込みを進めていく。


ーーディナータイム


ホールにVIPの夫婦が席に着き。

二人のグラスに静かにワインが注がれていく。

厨房の奥では、奏と結が最後の仕上げに取りかかっていた。

「……結、準備は?」

「はい、整いました」

結の声はどこか震えていたが、その目に迷いはない。


奏はうなずき、皿にソースを流し込む。

「お願いします‼」


結が何かを払うかのように三条京子と江藤快に伝える

「了解‼」

京子と快は蓋をした皿を丁寧に運び出し、

お客様の前へ整然と並べる。


支配人が小さく合図を送ると、

ホールスタッフの二人が、左右から同時に蓋に手をかけた。


蓋が開くと同時に、香りがふわりと溶け合い、

テーブルの中央へと優しく広がっていく。


二人の客は驚いたように目を見開き、

まるで息を合わせたかのように顔を上げた。


そして――微笑む。

夫は自分のリクエストに最高の料理で答えてくれたホテルに満足し目の前の料理に込められた思い出を語る。

妻は、それを興味深そうに聞きながら、

自分の故郷の食文化などを楽しげに話す。


二人の笑い声が温かく混じり、

そのままホール全体を包みこんでいった。

――その音は、厨房の奥まで届いてくる。

結は、弾かれたように張りつめていた肩の力が一気に抜け、

調理台のそばの椅子にへなりと座り込んだ。


結は涙目で少し震える声でつぶやいた。

「……怖かった。でも……楽しかった……かな……」

奏は息を吐き、ゆっくりと笑った


「お疲れ。

 ――いい仕事、したな」


厨房の片隅で交わした小さな音が、

今日一日のすべてを静かに締めくくった。


厨房の片隅ですべてを見ていた川谷が、満足そうに空のコーヒーカップを手に言った。

「……いい仕事してますね、二人とも。

 あなたたちは、やっぱり料理人だ」


奏は照れたように視線を逸らし、結は顔を真っ赤にして俯いた。


川谷はコートを羽織って立ち去ろうとする。

「じゃあ、食材の請求書は後日持ってきます。

 ――職人同士、また良い仕事を」


そう言って、気まぐれに風のように帰って行った。

片付けをしていると、支配人が静かに近づいてきた。


「結ちゃん今日はありがとう。

 私はね……このホテルを“職人たちの集まる場所”にしたかったんだ。

 君たち二人、そして川谷君のおかげで……夢がひとつ形になったよ」

このホテルにはまだまだ語られていない物語がいくつもある。

その夜は物語の1つにすぎなかった。


第5話 「塩だけスープと犯罪者とナイトドリフトと」に続く

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