第11話 椅子壊しの巨人とチェスと鶏のクネルと
夕食の営業が終わったあと、厨房にだけ残る熱気がゆっくりと冷えていく時間。
神谷奏は、まかないの皿を片づけながら、ふと裏庭へ続く勝手口のほうへ視線をやった。
そこに――巨大な影があった。
身長二メートル越え、体重は軽く百五十キロに届く。
その規格外の体が、今は子供のように丸まっている。
外国人チェス王者・エリック。
いつもは天井に届きそうな明るさを振りまく彼が、今日はどこか違っていた。
奏は気配に気づかれないよう、ゆっくりと近づく。
だが、先にエリックが顔を上げた。大きな手で目をこすりながら。
「……奏さん。ごめんなさい。席を壊したわけじゃないです」
その言い方がまた、子供めいていて、自然と苦笑がこぼれた。
「壊してても怒らないよ。で、どうした?」
エリックはしばらく沈黙し、夜風を吸い込んでから、ゆっくり吐き出した。
「今日、電話があったんです。
次の世界大会の、最終日程が決まったって」
その声は、普段の彼からは想像できないほど弱々しい。
「……僕、怖くなってしまったんです。
勝つたびに、誰かが遠くへ行く気がして」
奏は眉をひそめた。
「遠くへ?」
「ええ。
“怪物”であり続けるぼくを、みんなが期待して……
ぼく自身が、どんどん見えなくなる。
ぼくはただ、楽しくチェスをしたかっただけなのに」
夜の闇の中で、エリックの目だけが震えている。
あれほどの巨体の男が、まるで壊れ物のように見えた。
奏はそっと、ポケットからまだ温かい包みを取り出し、エリックの手に押しつける。
「ほい。さっきのまかないの残り。
余ったけど、誰かに食ってほしかった」
中身は、焼きトマトのコンソメで煮た鶏のクネル。
シンプルだけど、優しさだけは譲らなかった。
エリックはひとくち食べて――目を潤ませた。
「……美味しい」
「料理ってのは、そういうもんだよ。
誰かのためじゃなく、自分のためでもなく……
“そこにいる人を楽にするため”に作るんだ」
エリックは唇を噛んだ。
「ぼく、引退を……考えています」
奏は驚かなかった。
むしろ、ようやく本音を言ったという顔で静かに言う。
「逃げるの。生き直すんだよ」
その言葉に、大男の肩が震える。
「生き直す……?」
「ああ。
誰だって一度くらい、全部放り出したくなる。
でも、それは悪いことじゃない。
大事なのは、“自分がどこに立ちたいか”だろ?」
エリックの手が、そっと胸元をつかんだ。
巨大な体から、子供のような声がこぼれる。
「……ぼく、ほんとは泣き虫なんです」
「知ってるよ昔からの仲だからな」
二人はしばらく黙ったまま、夜の風を受けていた。
深夜、バーにて
バーテンダー・田町舞は静かに一人でチェス盤を並べていた。
そこへ、エリックが遠慮がちに現れる。
「舞さん……今日も、相手してくれますか」
「もちろん。うちの椅子を壊さなければね」
茶化しながらも、その瞳はどこか温かい。
ゲームの途中、舞がふっと言う。
「引退、するんでしょう?」
エリックは手を止めた。
舞の読みは、いつも心の奥まで届く。
「……まだ決めてはいません。でも……」
「でも?」
「今日、誰かのためにじゃなく、ぼくのために泣いたんです。
こんなの、初めてで」
舞はにっこり笑う。
「泣けるなら、まだ強くなれるわよ」
その瞬間、エリックは自分のキングをそっと倒した。
「舞さん……ありがとう」
ーー翌朝
ロビーのテレビには、速報テロップが流れていた。
“チェス世界王者エリック、突然の記者会見へ。”
ホテルのスタッフたちが目を丸くする中、
エリックはスーツに身を包み、静かにドアの前に立つ。
「奏さん。あなたの料理で、思い出しました。
チェスが好きだった、あの頃のぼくを」
「行ってこい。
君が好きな自分を、世界に見せてやれ」
エリックは深く一礼し、扉を押し開けた。
夜明けの光が、巨大な背中をまっすぐ照らしていた。
――数日後、昼下がりの厨房にて。
黒板メニューを書き換えていた結が、ふとスマホの画面を見て固まった。
「えっ……! 奏さん、これ!」
慌ただしく厨房に駆け込んでくる。
結のスマホには、ニュースの文字が躍っていた。
“エリック氏、涙の引退会見。『もう一度、自分を好きになるための選択です』”
そして、流れる動画の中で――
エリックはあの巨大な身体を震わせながら、確かに笑っていた。
「……ほんとに、行っちゃったんだ」
奏は濡れたまな板の上に手を置き、息をつく。
「うん。でもあれでいいんだよ」
結は目を丸くする。
「奏さん、寂しくないんですか? あの……お友達、ですよね?」
「友達? あいつとはなぁ……」
奏は一瞬だけ考え込んだあと、照れ隠しのように肩をすくめた。
「親戚みたいなもんだ。妙にでかいけど」
結は笑いながら、ボウルの中のクリームをハンドミキサーにかける。
「いつかまた来ますよね?」
「来るさ。椅子を壊しに」
二人は同時にくすっと笑った。
深夜のバー。
客足が途絶え、舞がグラスを磨いていると、
ヌルっと奏が現れた。
「舞、エリックから連絡来たか?」
「ええ。引退したらダイエットするって。
“あなたのカクテルは美味しすぎるから罪だ”って、謎の褒め言葉をね」
舞は淡々と微笑む。
「あの人、やっと“自分の好きな自分”に戻っていけそうね」
「ああ。そういうのって、料理と同じだな」
奏はカウンターに肘をつき、静かに言った。
「俺もいつか、あいつの国に行ってみるよ」
舞は驚いたように目を瞬いた。
「珍しいじゃない、奏が“行く”なんて」
「ふふん。行き先においしい料理があるならおれはどこでも行くさ」
舞はくすっと笑い、棚の上のチェス盤を指す。
「じゃあ、その前に一局どう? 私が勝つに決まってるけど?」
「負ける前提で言うのやめろ」
二人の声が、静かなバーにほどよく溶けていった。
――そして、ホテルに届いた一通の手紙。
翌日の昼。
結が厨房でデザートの試作をしていると、木島支配人が封筒を持って入ってきた。
「結ちゃん、これ届いてたよ~。国際郵便なんて珍しいねぇ」
「私宛? え……あっ!」
差出人の名前を見て、結は思わず声を上げた。
『エリック・スタイン』
封筒の中には、たった一枚の写真。
優しい笑顔で、小さな子供たちとチェスを囲むエリック。
後ろには、彼の祖国の古い町並み。
裏には短いメッセージがあった。
『あなたが作ってくれた鶏のクネル本当に嬉しかった。
次は、ぼくの国で食べてください。
その頃には、もっと強いぼくでいたい。――エリック』
手紙を読み終えた結の目がじんわり赤くなる。
その横で、奏はそっと笑った。
「あいつ、立派に引退してんじゃん」
結は小さく頷く。
「はい。でも……また来てくれますよね」
「絶対来るさ。次は、壊れない椅子用意しとこう」
二人の視線が重なり、自然と笑みがこぼれた。
ホテルは今日も静かに動き続ける。
誰かの涙と笑顔と、温かい料理の匂いと一緒に。
第12話 「お笑い芸人と火加減と極厚ステーキと」につづく




