第二話 入試試験
陽はすでに高く、冬の澄んだ空気が背筋を伸ばすように肌を突き刺してくる。
国立刃ノ宮高等学校・南門。そこに立つだけで、どこか世界が切り替わったような気がした。
「いよいよだな、柊弥」
神代紬義は、いつものように背筋を伸ばし、制服の上からでも分かるほどの姿勢の良さで立っている。襟元からのぞく道着の気配が、彼の「剣士」としての呼吸を思い出させた。
俺――黒江柊弥は、返事をせずに小さく頷いた。心はまだ、少し後ろを向いていた。
この門をくぐるまで、何度も迷った。だが、決めたのだ。
この場所で、答えを見つけるために。……そして、父が残したものの意味を、知るために。
***
受付を済ませ、案内された校舎は、予想以上に静かだった。
道場のような張り詰めた空気でも、試験会場らしい殺気立った焦燥でもない。ただ、皆が「今から何かが始まる」という緊張を、言葉にせず抱えている。
机の上に置かれた受験票と筆記用具。封筒に入った試験用紙。
掲示モニターが光り、担当教員の声が教室に響いた。
「筆記試験は、五教科に加え、帯刀認可に関する設問を含みます。解答時間は合わせて百二十分。開始まで一分前。携帯端末類は使用禁止です」
ざわつく者はいない。皆、当然のように筆を構え、背筋を伸ばしている。
(五教科はいい。問題は……)
柊弥はふと、自分の視線が手の甲に落ちていることに気づいた。
指の節、皮膚の引き締まり。
中学の三年間、剣を断ち、誰の型も受けてこなかったその手が、震えていないのが不思議だった。
数秒後、問題用紙が開かれる。
理数国英社。それに続く一枚。
【帯刀認可試験補助設問】
文語調で綴られた設問文の一つが、目に留まった。
問三:現行帯刀法第二十一条に基づく未成年帯刀の条件と、緊急時における例外処置について述べよ。
(……なんだこれ)
言葉自体は知っていた。だが、それを「答える」立場として見たとき、自分の中にある距離感が浮き彫りになる。
帯刀は、特別なものだった。
父が、失ったものだった。
そして今、自分がそのためにここにいる。
ペンを走らせながらも、心のどこかでその問いに答えてはいるが、応えられている気がしなかった。
筆記試験が終わり、会場を出ると、空気はどこか暖かく感じられた。
そのまま、校庭横の実技会場へと案内される。
「次は実技。型披露と模擬戦だな」
紬義が当然のように言う。
その姿勢には迷いがない。柊弥は、その背を見ながら、自分の足元に目を落とした。
「ああ」
(俺は……何を見せるんだ)
簡素な言葉とは裏腹に振り切れない迷いが頭に残った。
***
型披露
屋内実技場。生徒たちが順に立ち、ひとつの型を披露する。
「型は任意。一つ、見せるように打ってください」
試験官の言葉は簡潔だった。動きを測る。癖を見る。そして、剣の中にあるものを――探す。
柊弥の番が回ってきた。静かに立ち、構える。
使うのは、神代家の道場で教わった型だ。
だが、この数年、誰にも見せたことはなかった。振ることすら、していなかった。
深く息を吐く。柄に添えた右手が、自然と力を帯びる。
一歩踏み出すと、空気が裂ける音がした。
動きは滑らかだった。無駄がない。
視線の切り替え、間合いの取り方、足運び。
一つ一つが、美しく、鋭く、そして静かに迫る。
――だが。
型の終盤、あるはずのない“間”が生まれた。
一瞬の前傾。
わずかな刀身の傾き。
そして、最後の踏み込みが、本来の型よりもわずかに「深く」入りすぎていた。
(あっちゃぁ…)
まるでそんな声が聞こえるように、神代紬義は顔をしかめ、静かに呟いた。
「相変わらず、綺麗で伸びのある演武だな。気づきにくいけど“そっち”で筋肉が覚えてたんだな……」
観察する試験官の一人が眉を潜め、横目で別の教員に視線を送る。
受験者の中にも幾人か異変に気付き、疑問符が浮かんだ人間もいるように見える。
型が終わると、拍手もなく、ただ「次」と呼ばれた。
***
模擬戦
柊弥の前に立ったのは、年配の試験官。道着の上に教官服を羽織った、落ち着いた風貌の男だった。
「先ほどの型、少し変化があったかな?」
穏やかな口調だった。木刀を構えながら、柔らかく笑う。
「さあ――構えて」
掛け声ではない。ただの、促し。
木刀を構える柊弥。その手の内に、ほんの少し、熱が戻る。
一合、二合。静かな打ち合い。
見た目にはゆっくりとした応酬だが、相手の木刀は、まるで“探っている”ようだった。
押すでもなく、試すでもなく。ただ、確かめるように。
「目が、いいな……いや、いいだけではないな」
中段に構えたまま、試験官が言った。
「動体視力と深視力、それに反応までが繋がっている。型の中で最も静かな“止まり”の瞬間すら、次に備えて弛まない」
木刀がひとつ、柊弥の間合いに鋭く割り込んだ。
「――これは、素でこれなら……なぜ、今まで握っていなかった?」
言葉は優しいが、木刀は遠慮なく襲いかかる。
試すように、問いかけるように。
柊弥は、ただ反応する。考えるより前に、体が動く。
その打ち込みはまっすぐで、どこか荒削りで、それでも確かに相手へ届こうとしていた。
最後の一打で、試験官が打太刀を止めた。
その動きには、余裕と、理解と、わずかな期待があった。
「いい目をしている。まだ、濁っていない」
それは評価でも、称賛でもなく――ただの、確認だった。
試験後の会話
試験が終わる。道具を返却し、退出する。
紬義が並んで歩きながら、ふっと笑う。
「お前さ、型の終わりのところ、気づいてなかったろ」
「……え?」
「思いっきり、深く踏み込みすぎてた。綺麗には見えるけど、あれ、うちの型じゃなくなってたよ」
柊弥は少しだけ息を詰める。
「……癖が、出てたんだな」
「ま、そういうのも含めて“柊弥”ってことだろ。俺は嫌いじゃないぜ」
そう言って、紬義は前を向いた。
その背に、少しだけ救われる。
自分は――剣を握った。
その理由はまだ言葉にならない。だが、振った一太刀が確かにあって、それを見た誰かがいた。
校舎を出ると、夕暮れの気配があった。空を見上げれば、淡く茜がにじみ始めている。
この空の下で、また握る。
答えはまだ先にあるのだとしても。