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あまりにも好き過ぎる腹黒な婚約者が乙女ゲームの攻略対象だったので、押し倒してみました。絶対に逃がしません!

作者: 忍丸

 あの日、あの瞬間まで、私は信じ切っていた。


 大好きで、誰よりも大切な人と結婚できるのだと。

 初めて恋を教えてくれた人と結ばれるのだと。


 そう思うのは当然だ。

 伯爵令嬢である私と、侯爵令息の彼との婚約に異を唱える者なんて誰もいない。両親も親戚も友人も、この国の王ですら私たちの未来を祝福してくれていた。


 でも、現実はどこまでも残酷だ。

 ちっぽけな私の幸せなんて、簡単に壊れてしまう。


 ――きっと、運命には逆らえない。


 これまで私が大切に育んできた恋も。

 彼と築いてきた関係も。

 思い描いていた未来も。

 きっと、なにもかもが台無しになってしまう。


 だって、この世界は――乙女ゲームそのもので。

 ヒロインのために用意された世界なのだから。





「……だから、こんなことをしようと?」


 涙を流し、グスグスと鼻を鳴らしている私から、事情をひととおり聞いたセシルは小さく息を漏らした。


 人払いをした応接室には、そろそろと夕闇が迫り始めている。窓から差し込む赤光が、彼の銀砂をまぶしたような髪を染めあげていた。薄闇によく似た濃紫の瞳を呆れた風に細めて、セシルは口許をわずかに吊り上げている。


「おさらいしよう。ある日、高熱を出したララは前世の記憶を思い出した」


「……そうよ」


「この世界は前世に出てくる、乙女ゲームとやらの世界に酷似していて、そこに僕も登場するんだっけ?」


「セシルはメイン攻略キャラのひとりなの。前世の時から、す、すっごく人気で……」


「生まれ変わる前のララも好きだった?」


「も、もちろんよ! いちばんの推しで、限定衣装がリリースされた時なんて、家賃ぶんまでガチャにつぎ込む勢いでハマって――……って、いまはその話はいいの!」


「僕にとっては見過ごせない問題なんだけどなあ」


「もうっ! セシルってば真面目に聞いてるの!?」


「もちろん聞いてるよ。愛しの婚約者様であるララは、ゲームのヒロインとやらに僕を取られまいと、思い切った行動に出たんだろ? ……だから」


 いったん言葉を句切ると、セシルは小さく息を漏らした。どこか気恥ずかしそうに頬を染めながら、眉根を下げてこう続ける。


「お茶会をしようだなんて、人払いをした部屋に人を呼び出して。あられもない格好になったかと思うと――僕をソファに押し倒したんだ」


「う……」


「これで合っている?」


「あ、合ってますぅ……」


「なにをするつもりだったの」


「私が傷物になれば、誰も私たちの仲を引き裂けない、と、思って……」


「ふうん?」


 ――そう。私はいま、セシルをソファに押し倒していた。


 いつも見上げていた顔を見下ろしているなんて、すごく変な感じだ。


 彼の体は想像以上に大きく、そして固かった。

 細身に見えた彼が、こんなにも筋肉質だなんて――初めて知った。


 心臓が割れそうなほどに鳴っている。わずかに潤んだ彼の瞳から目が離せない。

 彼と触れている箇所がひどく熱くて仕方がなかった。


 その熱は、いったい誰のものなのだろう。


 私?

 それとも――……


「ひとつ聞いてもいい?」


 セシルは物言いたげな視線を私に注いでいる。薄い紗のように彼を囲っていた私の髪をひとすくい手に取ると、軽く口づけた。


「ララは、僕になら傷物にされていいと思ったの?」


 上目遣いで見つめられると、とたんに羞恥がこみ上げてくる。


 ……ああ、私ってばなんてことをしているの。


 だけど、それでも彼の上から逃げ出すなんて考えられなくて、ぴくりと身を竦めただけだった。そんな私に、セシルはますます楽しげな視線を向けてくる。


「ねえ、答えて?」


 甘やかな、それでいて心地よい低音が鼓膜を震わせると、こくりと生唾を飲み込んだ。


「……えっと」


 なにか言わなくちゃ。そう思うのに、まるで防御力がない薄い肌着だけを身につけている事実が、じわじわと心を侵食してきていた。全身から汗がにじむ。薄いシルクが肌にまとわりついて、体の線を描いているのが感覚的にわかる。衣擦れの音がやけに耳について離れない。


 念入りに体を磨いてはきたものの、ひどく落ち着かなかった。いや、冷静でなんて、いられるはずがないのだ。こんなこと初めてだもの。貴族令嬢である私に経験があるはずもない。


 馬鹿みたいだ。こんなことをして、幻滅されたんじゃ――……


 ふと不安が脳裏を過るものの、小さくかぶりを振って追い払った。


 なにを迷うことがあるの。

 セシルを失わないためなら手段を選ばない。そう、覚悟を決めたはずだ。


「だ、だって。いずれセシルのものになるんだから……。少し時期が早まるだけ、だと思って」


 ようやく絞り出した声は掠れていた。

 けれど、万感の想いが詰まっているのは事実である。


「あなたを失うなんて、ヒロインに取られるなんて、死んでも嫌なの。ねえ、セシル――」


 両手に体重を掛けて、セシルに覆い被さる。


「私をあなたの好きにして」


 見開かれた彼の濃紫の瞳には、ひどく切羽詰まった私の顔が映っていた。




 *




 セシルと初めて会ったのは、六歳の頃だ。

 母が主催したお茶会に、ゲストとして母親と共にやってきた。


 灰色の髪に濃紫の瞳を持った男の子。次期侯爵として、このたび養子になったという彼は、義理の両親と関係が上手くいっていないらしかった。


 挨拶をするには物憂げ過ぎる表情で、手足には教育係による折檻の痕がある。

 上流貴族としてのマナーを学ぶのに、ひどく苦労しているらしいと母から聞いていた。


『初めまして。セシル・デュロイと申します』


 ぎこちない礼を取った少年を、大人たちは複雑な表情で見つめている。


 養子になるまで、セシルは平民同然の暮らしをしていたという。

 現デュロイ侯爵の弟の息子。それがセシルだ。


 彼の父親は前侯爵から勘当されていた。酒癖と女癖が悪く、トラブルが絶えなかったらしい。しばらく音信不通だったセシルの父親は、ある日とつぜん現れたかと思うと、我が子を子宝に恵まれなかった兄夫婦にはした金で売り渡し、どこかへ消えたという。


 そんな生い立ちだからか、セシルには偏見がつきまとっていた。ただでさえ、平民同然の暮らしをしていたのだ。侯爵家の人々とセシルの価値観は相容れない。


 幼いセシルは、ずいぶんと疲弊しているようだった。慣れない環境に放り込まれ、休みなく教育を施される。本人の意志とは関係なく、周囲からは次期侯爵として見られ、しかも義両親とは上手く行っていない。


 どう考えても、いっぱいいっぱいだ。


 濃紫の瞳が自信なさげに揺れている。

 本来なら愛らしいであろう顔には、貼り付けたような笑み。

 顔色は悪く、薄い胸に添えられた手はわずかに震えていた。


 貴族子女としては、けっして褒められた様子ではない。

 実際、お茶会の参加者からは「やはり平民育ち」だと、彼に厳しい視線が向けられていた。


 ――だけど。


 私だけは違ったのだ。


 彼の懸命さが、いやに胸を打った。

 濃紫の瞳の色から目が離せなくなった。


 あまりにも彼の存在感が色鮮やかで、少年らしい少し高い声が鼓膜を震わせるたび、心が震えて、なぜだか泣きたくなった。


 どうして、そんな反応をしてしまったのか。

 一目惚れ? ううん。それとも違うような……。


 当時は原因がわからなかったが、いまとなれば理解できる。


 私は彼を知っていたのだ。


 時系列的には、前世の記憶を思い出す前である。

 当時の私にゲームの知識があったわけじゃない。


 だけど、私の心の奥底には、かつて日本で過ごしていた頃の経験が息づいていた。

 魂の底に隠れていた前世の記憶が、彼を慰めてあげたいと叫んでいたのだ。


 ――守りたい。幸せにしてあげたい。


 そんな考えが脳裏に浮かぶまで、そう時間はかからなかった。


「ララ?」


 困惑している母を余所に、当時の私はしずしずとセシルの前に進み出た。

 今にも泣きそうな顔をしているセシルを見つめて、ふんわりと微笑む。


「素敵なご挨拶をありがとう。ララ・クラッセントよ」


「……っ!」


 セシルが目をまん丸にする。

 周囲にいた人たちが、一斉にざわついたのがわかった。


 好奇に溢れた視線が集まってくる。

 あちこちから、コソコソと囁く声が聞こえた。


「なあに、あれ?」


「同情してるんじゃない? それか、偽善者を気取っているか」


「やだ。あんな子に媚びるなんて、なにが狙い?」


「いやだわ。子どもはあんなでも、侯爵様はご立派な方よ……」


 悪意交じりの声は、幼い子どもにとって毒にも等しい強さを持っている。


 でも、私は怯まなかった。

 彼から視線を外さない。外してはいけない。そう思ったからだ。

 ここで目をそらしたら、きっとセシルを不安にさせてしまう。

 私は、彼を安心させてあげたいのだ。


 ――大丈夫。大丈夫よ。


 口を閉ざしたまま、視線で訴えかける。


 しばらくすると、彼は少しだけ体の力を緩めた。


 きっと私の気持ちが届いたのだ。安堵していると、彼の瞳が濡れているのに気がついた。


 ――泣かしてしまった?


 ぎくりと身を竦めるものの、すぐにそうではないと気がついた。

 濃紫の瞳が紫水晶のような輝きを放っている。少し窶れた彼の顔に浮かんでいたのは――喜色。みるみるうちに稚い頬が薔薇色に染まっていく様は、なによりも美しくて。


 まるで、花の蕾みが綻ぶようだった。


「あ、ありがとう……」


 幼い彼が浮かべた、まるで天使みたいな笑み。


 ――一生一緒にいるなら、この子がいいな。


 瞬間、私は自分の初恋を自覚していたのだった。




 それから、恋を自覚した私の行動は早かった。

 元々、領土が隣同士ということもあって、婚約の話も出ていたのだ。私は全力でそれに乗っかった。結婚するならセシルがいい! と、猛烈にアピールしたのである。


「私、セシルのお嫁さんになる!」


「ええ……!?」


 困惑する両親をよそに、結果的に、私はセシルの婚約者の座を無事ゲットした。

 彼の両親も、婚約相手には頭を悩ませていたようだったから、思いのほか簡単に話は進んだ。――そう。彼……セシルの意志とは関係なく。


 思い返してみると、それってめちゃくちゃ乙女ゲームの設定どおりだなって。


 セシルとヒロインの恋路を邪魔する悪役令嬢は、彼との婚約を無理やりもぎ取ったって話だったからね。庶民育ちだからと見下してくる癖に、捻くれた愛情表現をする悪役令嬢に、〝ゲーム内の〟セシルは迷惑そうにしていた。


 ……現実は、どうだったかなあ。

 迷惑そうにはしていなかったけれど、困惑はしていたように思う。


「これからよろしくね。セシル!」


「…………。うん」


 いきなり未来の嫁だ! って言われても、誰だって実感が湧かないよね。

 たぶん、嫌がってはなかったと思う。た、たぶんね。当時の私ってば、恋に浮かれて頭がお花畑だったからなあ。見落としてなかったと信じたい。


 事実、婚約者になった後も暴走しがちな私に、セシルはとっても寛容に接してくれた。


 婚約したからと彼の家に押しかけるわ、婚家での行儀見習いなんて適当な理屈をつけて、一緒にマナーの勉強をしたり、貴族の常識を学んだりするわ。忙しいはずのセシルを、無理やり遊びに誘ったりするわ……。


 好きな人を幸せにしたい一心で、やりたい放題やった。


 それでも、彼は拒絶しなかったからね……。

 心が広い婚約者で本当によかった。


 おかげで、調子に乗った私は、距離があった彼の義両親との仲を取り持ったりもしたし、平民育ちだからとセシルを馬鹿にする人間は悉く返り討ちにもした。


 好きな人のために頑張ったよね。いま思い返すと、よくやれたなって思う。


 そのお陰か、セシルを取り巻く環境は少しずつ変わっていった。


 初めて出会った時、疲れ切った顔で俯いていたセシルは、ひとつずつ上流階級の生き方を覚え、侯爵家の後継としての矜持を身につけ、笑顔を取り戻し、気がつけば私よりもずいぶんと背が高くなっていた。


 出会った頃は、私が彼の手を引いていたんだよね。

 あっちへ行こう、こっちへ行こうって、どこに行くにも私が先導していたのに。


「ララ。ほら、手を貸して」


 いつの頃からか、彼が私の手を引くようになった。

 当然のようにエスコートをするし、成長するにつれて見かけも美しくなっていく。


 まごうことなきイケメンだ。くすんだ色をしていた髪は星屑をまとったような輝きを放つようになり、濃紫の瞳も、整った鼻筋も、驚くほど小さい頭に長い手足も、穏やかな物腰も、スマートな立ち居振る舞いも、誰もが惹かれて止まない。


 だって、セシルを見ると女の子たちがはしゃぎ出すんだよ。

 平民育ちだって侮っていたのにね。彼の過去を、みんな忘れちゃったみたいだった。


 そうなれば、可愛い子だって寄ってくる。

 当然だよね。セシルは魅力的だもの。


 いつだったか、他国の王女がセシルを欲しがったこともあったっけ。

 だけど、彼は私がいいって言ってくれた。

 私じゃないと駄目だって。


「僕は、ララがいればそれだけでいいんです。ララしかいらない」


 そう言って、私との婚約を守るために奔走してくれたんだ。


 ――いつからだろう。彼からの好意が自覚できるほどになったのは。

 片想いが両想いになった瞬間は、いつだったのかな。


「ララ。僕の可愛い婚約者さん」


 彼が私にかける声色は、いつだって優しい。

 貴族らしくなれたといっても、まだまだ他人と一線を引く癖があるセシルが、屈託なく笑うのは私の前だけだ。


 時には冷たい色を宿す濃紫の瞳を簡単に溶かせるのも。 

 彼色のドレスを身に纏うことを許されるのも。


「――ララ。目を閉じて」


 口づけの寸前、睫毛の薄い影が、彼の頬に落ちるのを見られるのも――私だけ。


「好きだよ。ララ」


 ……幸せだった。

 これが、ずっと続くと思っていた。


 このまま、愛する人と幸せな家庭を築いていくのだと信じていたのに。


 前世の記憶がすべてを台無しにした。

 もうすぐ学園に入学だって浮かれていた気持ちも、すぼんでしまったのだ。


 半年後。私は学園に入学する。


 学園の入学式。それが、ゲームのストーリーが始まる合図。

 そうなれば、すべてはおしまいだ。


 ヒロインと出会ったら、彼はどうしようもなく惹かれてしまうだろう。

 そんな予感がしてならない。

 だって、ゲームってそういうものだ。何度リセットしても同じ物語が始まる。


 だから、私は彼を押し倒した。

 処女性が重要視される貴族社会で、傷物になったら嫁のもらい手はない。


 どこかの貴族の後妻くらいにはなれるだろうけど……。

 婚姻前である伯爵令嬢へのダメージは計り知れないのは事実。


 セシルなら、きっと責任を取るって言ってくれるはずだ。

 いわば、これは責任という鎖で、彼を縛り付ける行為。


 ――これしかない。


 愚かな考えを抱いた私は、彼を呼び出し、作戦を決行してしまった。




 ――心臓が今にも破裂しそうなほどに高鳴っている。


「ねえ、セシル――」


 好きよ。大好きなの。

 ずっとずっと、前世からあなただけ見つめてきたの。


 だから、お願い。

 側にいて。

 私を捨てないで……。


「私をあなたの好きにして」


 必死に絞り出した声は、応接室の静寂に飲み込まれて。

 彼が浮かべた困惑の色に混じって消えていった。




 *




 静寂を破ったのは、セシルだった。


「ララは僕を信用してないってこと? 君以外の誰かを好きになるような男だって?」


「そっ……! そうじゃないけど!!」


「じゃあ、なんで?」


「だって、この世界はゲームで。ゲームにはシナリオっていうのがあって、たぶん登場キャラクターは、シナリオ通りに動くはずで」


「そんなの誰が決めたの?」


「わかんない。わかんないけど、共通点が多すぎて、そうとしか思えなくて」


「ふうん?」


 私の下に組み敷かれていたセシルは、おもむろに上体を起こした。


「わっ……。セシル?」


 ジャケットを脱ぐと、私の肩にかける。

 彼の温もりに包まれて安心する反面、私の内心は複雑だった。


「抱いてくれないの?」


 そんなに魅力がなかっただろうか。

 涙を浮かべた私に、彼は困り顔になった。


「しかるべき時が来たら抱くよ? いまがその時じゃないってだけ」


「……!」


 あまりにもまっすぐな物言いに、全身が熱くなった。


「そ、そうですか……」


 ――ううう。きっと真っ赤になっちゃってる。


 居たたまれなくて俯いていると、彼の手が伸びてきた。

 長くて筋張った、男の人らしい指が近づいてくる。触れられるのかと思って、自然と体が強ばった。けれど、私に触れそうだった指は、私自身を素通りしてジャケットを掴んだ。


 何事かと呆気に取られていると、そのまま、ギュウギュウとジャケットの前を合わせ始めた。無言のまま行われた一連の行動に、私は唖然としてしまう。


「……あ、あの。セシル?」


「なあに」


「そんなに私の体、見たくない……?」


 不安に駆られて漏れ出た声に、セシルは不満げな顔になった。


「見たいよ」


「うっ」


「僕だって男だよ。エッチな格好したララ、いままで想像しなかった訳がないし」


「ううううっ……!?」


「好きな子だったら尚更。本当は堪能したいに決まってる。でも――」


 ふくれっ面をしていたセシルが真顔になる。

 濃紫の瞳に真摯な色を映して、彼はきっぱりと言った。


「ララのことは大事にしたいから。今日は触れない。だから、隠しておいてね。僕が我慢できているうちに」


 今日()という言葉に、じわじわと羞恥がこみ上げてきた。


「……はい」


「自分を大事にして?」


「ごめんなさい」


 ――また暴走しちゃったな……。


 しょんぼりと肩を落としていると、不意にセシルに抱き締められた。


 温かい。たくましい腕に囲われると安心する。

 自分の愚かさを呪いながらも、うっとりと彼の肩に頭を預けると、セシルが深々と嘆息したのがわかった。


「まったくもう。いつだってララは、思い込んだら一直線なんだから」


「反省してます……」


「誰にも相談しないで突っ走るでしょ? 僕との婚約を決めた時もそうだ。ぜったいにうちに嫁に来るって大騒ぎして。家にまで押しかけて。周囲の大人たち、大変だったらしいよ?」


「も、申し訳ありません……」


「まあ。僕も同じ気持ちだったから、別にそれは構わないんだけど」


「え」


 ぱっと顔を上げると、そこには悪戯を成功させたみたいなセシルの顔があった。

 ふわりと目を細める。長い睫毛が影を落とす。

 キスを強請る時みたいな、愛を囁く瞬間みたいな顔で、セシルは続けた。


「一目惚れだったって、言わなかったっけ?」


「……え、ええ? は、初耳なんだけど。もしかして、あのお茶会の時?」


「そう。大勢いた子どもの中で、ララだけが光って見えたんだ。隣の領地のお嬢様だって、婚約の話を考えてるって義両親から聞いた時は、運命だと思った。……だから、勇気を出して挨拶をしたんだ。みんなに嘲笑されるのがわかりきっていたのに、どうしても可愛い伯爵令嬢に声を掛けたかった。誰にも取られたくなかったから」


 その時、セシルが浮かべたのは、お砂糖みたいに甘い微笑み。


「……僕はね、昔から手に入れたいと思ったものは確実に手中にしてきた人間なんだ。たとえ、この世界が乙女ゲームだったとしても、ララのことは絶対に離さない。世界の理だって曲げてやる」


 私の手を取って、指先に唇を落とす。

 上目遣いになったセシルは、一転してやけに艶っぽい声色で言った。


「後は僕がなんとかする。だから、安心してて?」


 ――その破壊力たるや。


「……わ、わわわ、わかりましたあ……」


 正直、腰が砕けそうになった。

 体に力が入らない。くたりと脱力して彼に寄りかかっていると、セシルはクスクス笑った後にこう続けた。


「最近、なんか表情が暗いと思ったら。原因がわかってよかったよ」


 そして、これからの展望を語り出す。


「要するに、僕たちの恋路を邪魔する奴が登場するってことだよね。ララの言葉を信じるなら、半年後の学園で。なるほどねえ。実に腹立たしいな。楽しい学園生活が送れると思ってたのに。台無しだ」


「……セシル?」


「ああ、ララは心配しなくていいよ。要するにゲームが始まらなきゃいいんだろ? うんうん。実に簡単な話だ。あ、ララ。その乙女ゲームとやらの話、詳しく聞かせてくれる? 対策を取ろう。話を聞くに、高位貴族の婚姻関係がめちゃくちゃになる可能性があるってことだよね。これは由々しき事態だ。王族とも連携を取ろう。これは忙しくなるね」


「……えっと? わ、私のせいでごめんね……?」


「気にしなくてもいいよ。むしろ感謝してる」


「それならいいんだけど……」


「うん。だから徹底的にやろう(、、、、、、、、、、)。僕らの仲を引き裂く原因を確実に潰すんだ」


 ――あれ。


「セシル、もしかしてめちゃくちゃ怒ってる……?」


 おそるおそる訊ねると、セシルはあまり表情を変えないまま言った。


「もちろんだよ。誰より大切な人が自暴自棄になる原因を作ったんだもの。乙女ゲームとやらも、ヒロインとやらも、全部ぶち壊してやる」


「そ、そんなに……?」


「そうだよ。だって、僕は人生で最大の楽しみをひとつ失った」


 セシルがおもむろに指先を動かす。

 私の鳩尾あたりに狙いを定めると、どこか不満そうに唇を尖らせた。


「こんなエッチな場所に黒子があるなんて。初夜のベッドの上で知りたかったなあ」


「……!!!!!!!!!!! セ、セシルッ……!!!!!!!」


「あっはははは。ララったら顔がリンゴみたいだ」


「こんなの、紅くなるに決まってるでしょ。馬鹿っ!!!!!!」


「ごめんね? でも、本音だから」


「なおさら悪いッ!」


 ポカポカ胸を叩き始めた私に、セシルはちょっぴり困り顔だった。


「よしよし」と荒ぶる私を必死に宥めて、強く抱き締める。

 耳元に顔を寄せると、どこか掠れた声で囁いた。


「……僕だって、君以外が隣にいる未来なんてお断りなんだからね」


 彼の声が鼓膜を震わせると、じわじわと耳朶が熱を持っていくのがわかる。


 心臓がきゅうきゅう悲鳴を上げていた。

 体が、細胞が、あらゆるものが、目の前の彼がいちばんだと叫んでいる気がする。


 ――ああもう。


 いま欲しい言葉をこんなシチュエーションで囁かれたら、絶対に勝てるはずがない。


「セシル。好きよ。好き。大好き」


 ――ずうっと、ずうっと側にいて。


 感情が爆発して、思わず彼の顔中にキスの雨を降らせた。


 唇が彼の肌に触れるたびに、花火みたいに熱が弾ける。

 大好き。前世からずっと。これからもきっと。


 この溢れんばかりの感情が、まっすぐに彼に届けばいい。

 そんな風に思って触れていると、ふいにセシルから引き剥がされた。


 ……嫌がられた?


 心臓が嫌な音を立てる。

 でも、そんなのは彼の顔を見た瞬間に霧散してしまった。


「も、もうっ……! 人がどれだけ我慢しているとっ……!!」


 夕日みたいに真っ赤になったセシルが、私を弱々しく睨み付けていたからだ。

 いつもは余裕たっぷりな癖に、いやに動揺している。


 ちょっぴり情けなくて可愛い。

 そんな彼の表情にますます愛情が募って、笑ってしまった。




 *




 ――結論を言うと、乙女ゲームのシナリオは開始しなかった……のだと思う。


 それは、この世界が乙女ゲームではなかったという意味ではない。


 私から話を聞いたセシルが、シナリオを開始させまいと徹底的に対策をしたのだ。


 ゲームのメイン攻略キャラを学園に通わせないように働きかけたり(そもそも、すでに政務や執務を担っている王族や高位貴族の後継が、学園に通う必要性自体、元から疑問視されていた)、ゲームに登場する人物にカウンセリングを実施したり……。


 つまり、彼らが抱えている悩みの根本的解決や、相性の悪い婚約を解消、別の人間との縁組みを行って、ヒロイン的ムーブができないように封殺した。おかげで、ヒロインの干渉がなくとも、ゲームキャラクターたちは穏やかな生活を送っているという。


 加えて、平民出身の生徒と貴族階級の生徒の学園内での棲み分けを実行。初代学園長が打ち立てた「生徒はみな平等」という非現実的なスローガンのせいで、身分差によるトラブルに頭を抱えていた学園側は大喜び。


 平民出身のヒロインは、そもそも攻略対象に会えない状況となった。


「なんでっ!? なんでなの。なんでキャラに会えないの……!? きいいいいいっ! イケメン選び放題だって思ってたのにっ! こうなったら!」


 風の噂では、学園に入学したばかりの一般女性徒が、貴族側のエリアに侵入して、さっそく謹慎処分を受けたとか……。


「私はヒロインなの! この世界は私のためにあるはずなのよーーーーー!!」


 夜な夜な意味不明な言葉を叫んで徘徊する女性徒が現れるようになり、学園の七不思議が増えたとか、なんとか。そんな話を聞いている。


 自称だけど、ヒロインらしき人物が実在した。

 なら、やっぱりこの世界は乙女ゲームだったってことなのかな……。


 そんな風に思いながらも、ともかくセシルのおかげで最悪の事態は免れた……のだと、思う。


 これが、たった半年間の出来事。

 恐るべきことに、そんな短期間でセシルはすべてをやり遂げたのである。


 ……いやあ。有言実行ってすごいね。


 え? 当事者の癖に、他人事みたいだねって?


 ……もちろん、それには事情があった。

 そもそも、私とセシルはゲームの舞台となる学園に通わなかったのだ。

 ぶっちゃけ、あんなに乙女ゲームのことを気にしていたのに、ゲームのシナリオのことも、ヒロインのことも、考えている余裕がなかった。


 だって。私たちが、今いるのは――……


「新婚旅行も、もうおしまいだねえ」


 どこまでも果てしなく続くように思える洋上で、セシルが物憂げな表情をしていた。


 豪華客船の甲板に立って、共に海を眺めている。雲ひとつない快晴。日の光を反射して、海面がまばゆいばかりに輝いている。

 遠くには、私たちの故郷がうっすらと見えてきていた。旅路の終わりは哀愁を誘い、セシルの濃紫の瞳も陰っている。


 余韻に浸っているセシルを余所に、私はいまだ混乱の最中にいた。


 どうして私はここにいるんだろう。

 予定通りだったら、学園に入学して学生ライフを送っていたはずだったのに。


 ……そう。これは新婚旅行。

 私――……ララ・クラッセントは、諸々の段階をすっとばし、あっという間にセシルのお嫁さんになってしまったのである。


 つまり今の私は、悪役令嬢どころか次期侯爵夫人……。


「意味がわかんないんだけど!?」


 これが取り乱さずにいられるかってんだ。

 だって! あまりにも急展開過ぎる。


 すべての始まりは、セシルを押し倒した翌日。

 父の執務室に押しかけたセシルは、とんでもないことを言い出したのだ。


『お嬢さんを下さい!』


 そして、私の裸を見てしまったと告白。


『責任を取らせていただきます!』


 衝撃の告白に、当然ながら父は激高した。

 その後、男同士の殴り合いに発展し――……


『娘を泣かせたら承知しないんだからな! それで式はいつにする!?』


『さすがお義父さん! 決断が速い!』


『まだお前にお義父さんと言われる筋合いはないからな!?!?』


 なんやかやで、超特急で結婚式の日取りが決まってしまった。


 ……なんなの。なんなのこれ!


 豪華な結婚式はすっごくよかったけど!

 新婚旅行もめっちゃ楽しかったけど!


 なんで、私たち結婚しちゃったの……!?


「なあに。ララったら、まだ実感湧かないの?」


 目をグルグルさせている私に、セシルが甘えた声を出してすり寄ってきた。

 自然な仕草で腰を抱いてくる。うん。婚約時より密着度が増している。夫婦って感じー! すごい。私ってば推しとゴールインしちゃったなー!


 もう、頭の中はしっちゃかめっちゃかである。


「これは夢……?」


 思わずこぼした言葉に、セシルは拗ねたような顔になった。

 ぐいぐいと私の腰を抱き寄せて、私のつむじあたりに唇を落とす。


「夢な訳ないでしょ。僕の可愛い奥さん」


「な、ななななっ……!?」


「あはは。かわいー。真っ赤だ」


「誰のせいだと……」


「うん。僕だね?」


「確信犯か!」


 苛立ちをポカスカ彼にぶつけてみても、ちっとも響いている様子はない。


 ああ、もう。幸せだけど。幸せではあるんだけど! 

 なんだか腑に落ちない。


「膨れてるララも愛らしいね」


 混乱している私を余所に、旦那様になったばかりの人はどこまでも平常運転だった。


 風に靡いている私の髪を、一房だけ捕まえて、やわやわと指先で弄ぶ。

 セシルは私の髪を弄るのが好きだなあなんて思っていると、ちろりと悪戯っぽい視線を私に寄越した。


「こんなに結婚が早まったのは、ララのせいなんだよ?」


「……え?」


「僕だって、最初は学園を卒業した後でいいかなって思ってた。まあ、諸々の準備は進めてあったから、いつでもよかったけどね。でもまあ……ぜんぶ早めようと考えたきっかけは」


 つん、と指先で頬を突かれる。


「ララに押し倒されたからだけど」


「~~~~~!?」


「あのままだと、理性を保てる自信がなかったんだよねえ。ただでさえ、普段から触れたいのを我慢してたのに。好きな子の裸を一度でも見ちゃったら、ねえ?」


 ニヤリと不敵に笑う。

 頬を変形させ、間抜けな顔をさらしている私とは裏腹に。

 どこまでも顔面が整っている私の前世からの推しは――


「君を大事にするために、そういうことになっても問題ない関係にしてみただけだよ。一度の過ちで、手放す訳にはいかない。だって、君はもう僕のものだからね」


 やけに茶目っ気のある声で、とんでもないことを言い放ったのだった。


 ……ああ、ああ。すべて推しの手のひらで転がされていたのだ。


 付き合いが長いはずなのに、まったくもって読めない。

 これって腹黒って奴なんだろうか。笑顔の下で何を考えてるんだか――……


 ――でも。

 そういうところが、前世から推せた部分でもあったんだよなあという気もしていて。


「セシルのエッチ!! ばか……」


 全身が愛情でひたひたになるのを実感しながらも、なんとも頭の悪い罵倒をすることしか、できない私なのだった。





 これが、勢いで大好きな婚約者を押し倒してしまった私の顛末。

 時には勢いも大事……なのかもしれない。


読んでいただき、ありがとうございました!

こういうシチュエーションの時はグダグダいってねえで、好きなら押し倒しちゃえよってずっと思ってた作者です。


面白い、気に入ったと思ったら★をぽちーっとしていただけると幸いです。


実は本日、令嬢ものの新連載を開始しております。

<a href="https://ncode.syosetu.com/n7602kc/">「社畜令嬢は森で遊んでいる 駄目王子を返品したので、開発した魔道具でキャンプ飯とアウトドアを楽しもうと思います!」</a>


こちらの作品では、生理的に無理になった王子を華麗に返品した後、獲得した自由を手に趣味のキャンプを楽しむスローライフものです。なぜかザリガニを獲って食べたり、サワガニをイケオジと一緒にキャッキャはしゃいで獲ったり、湖の水を全部抜いたりしますが、たいへん面白いと思うので、よかったら読んでみてくださいませ~~~

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― 新着の感想 ―
早い!強い!な婚約者、そりゃそうだよね〜〜!!大好きな婚約者が肌もあらわに迫ってきたのに据え膳!!よく我慢した!!速攻結婚しちゃえば存分に見て触って堪能できますもんね…!夫婦ならどんだけいちゃついてて…
わりとよくある「前世カミングアウトからの、婚約者がヒロイン入学前にどうにかしてくれるパターン」なのに、とにかく疾走感が凄かった。 ヤンデレに片足突っ込んでそうな溺愛婚約者と暴走転生令嬢が最速でエンダー…
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