王子と宰相
ルンベック大森林での戦闘から、二日と少しの時間が過ぎていた。
夜が明け、朝の陽光が窓から部屋に差し込んでいる。
エルムヴァレーン王国、王都エルムヴァルに構えられた、エルムヴァル城。
その城内の一室にて。
そこで、この国の第一王子であるフォシェル・エルムヴァレーンが、宰相のオロフ・カールション子爵と顔を突き合わせていた。
部屋には二人の他に人の姿はなく、フォシェルらは長四角の卓子を挟んで、向かい合うようにして席に着いている。
卓上には、銀杯が二つと、葡萄酒の入った甕が一つ置かれていた。
「今しがた、トゥールより報せがありました。エリシール王女殿下の保護に失敗したそうです」
オロフが遺憾の意を込めて告げる。
トゥールが騎士団を連れてこの城に戻ったのは、つい先ほどの、明け方頃だった。
フォシェルは憮然として、銀杯を手に取り、中身を一息にあおった。
フォシェル・エルムヴァレーンは長身で、青金色の髪と碧色の瞳を持つ美丈夫だったが、王族としての風格は微塵もない。
今も上等な衣服をまとってはいたが、威厳もほとんど感じられず、さしずめ「顔立ちの整った二流役者」といったようすであった。
エリシールより五つ年上で、当年とって二十になる。
「ふん、トゥールめが失敗なぞ珍しい。もしやエリシールを哀れんで、わざと手心を加えたのではあるまいな?」
フォシェルが、鼻を鳴らして皮肉を言う。
エリシールの人望の厚さは、フォシェルもよく知っている。
トゥールがそうしたとしても、何ら不思議ではない。
彼自身も、別段エリシールを嫌っているわけではなかった。
純真で慈愛に満ち、見目も麗しく、聡明で物事の理解も早い。
フォシェルからしても、エリシールは非の打ち所のない妹だった。
本来ならば、兄として誇らしく思ったであろう。
このような状況でさえなければ。
空になった銀杯に、フォシェルは手ずから甕を取って酒を注いだ。
「まさか。そのようなことはございません。トゥールめは、我らに忠実でございますゆえ」
オロフは慌てて頭を振った。
オロフ・カールションは中背で痩せぎすの中年男で、落ち窪んだ眼窩と大きい鷲鼻が、神経質かつ狡猾な印象をもたらしている。
茶色の髪はまだしっかりと生えそろっており、同じ色の瞳は精力に満ちていて、その年齢にそぐわず若々しい。
「……だったら、よいのだがな」
フォシェルは、大げさに溜息を吐いた。
「トゥールの報せによりますと、ルンベックの森での騎士団の待ち伏せが効を奏し、奸者らを追い詰めたそうですが、途中で邪魔が入ったそうで……」
「邪魔だと? エルフの連中がか?」
トゥールたちは越境して待ち伏せを行ったのだ。
この度の件で、トルスティンのエルフたちが出てきてもおかしくはない。
だが──
「いいえ、違います。その場に、その……過去の遺物が現れたそうです」
「何だ? その遺物とは?」
「……聖鎧です」
オロフの言葉に驚いたフォシェルは、あやまって葡萄酒を数滴、卓上にこぼしてしまった。
「聖鎧とは、あの聖鎧のことか?」
今世において、聖鎧は伝説や幻想の中のものである。
伝承では千年前の大戦時にあったとされているが、今の世でその姿を見た者はない。
機甲はかねてより、聖鎧を模してつくられたといわれているが、その真偽などは、門外漢のフォシェルには分からない。
「なぜ、そんなものが?」
「わかりません。それで……その聖鎧は、フリクセルと名乗ったそうですが」
「フリクセルだと!? それは英雄譚に語られる名ではないか!」
聖鎧は唯一無二ではない。
大戦において聖鎧は複数あった。
しかし人々にその名を知られている聖鎧は稀有である。
《聖鎧フリクセル》──その名は今の世にも広く知られていた。
数多の伝承や英雄譚にはもちろんのこと、おとぎ話の中にさえ登場する名であった。
「しかも、自分は大精霊であると」
「大精霊!? では本当に──」
フォシェルが面食らった顔のまま、オロフに尋ねる。
「……いやしかし、その大精霊がなぜ我らの邪魔をする?」
「大精霊が言うには、勝手に森に入り、眠りを妨げたがゆえであると……」
「何だと!? あのルンベックの森で、大精霊が眠っていたというのか?」
「それは……分りません……」
はたして、エルフたちはこのことを知っていて、これまで秘密にしていたのだろうか。
面倒なことになったな、とフォシェルがひとりごちる。
「それで、エリシールは取り逃がしたのだな?」
「……はい」
オロフの返答には一拍ほどの間があったのだが、フォシェルは特に気にしなかった。
「今、奴らはどこに?」
「おそらくは、トルスティン王宮……《翡翠宮》に逃げ込んだかと」
「そうか……まぁ予想どおりだな」
エリシール一行は北のルンベック大森林に向かった。
ならば行き先はそこ以外ない。
少しの間フォシェルは黙考し、それからおもむろに口を開く。
「しばらく様子を見る。いつでも動けるよう、騎士団を待機させておけ」
オロフの返事を待たずに、フォシェルは立ち上がって扉口に向かう。
「御意に」
オロフの言葉を背中で聞き、フォシェルは部屋を出て行った。
一人残されたオロフの顔には、見た者が嫌悪感を催すような、下卑た笑みが浮かんでいた。