聖鎧の力
濃紺の夜の空から、一体の巨人が、広場にゆっくりと舞い降りてきた。
その常軌を逸する光景に、この場の誰もが言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
(機甲が……空から降ってきた……)
ほとんどの者が、口には出来ず、胸中で呟いた。
だが──その姿かたちは、騎士団の機甲とは明らかに異なっていた。
騎士団の機甲は、騎士のまとう全身鎧によく似た無機的なかたちをしていたが、空からやってきたものは、それよりもやや大きく、太古に大地を支配していたという本物の巨人を思わせる、どこか生物的なかたちであった。
さらに騎士団の機甲は、月の光を受けて銀色に輝いているのに対し、かたやそれは、暗い赤黄色の上から深い翠色を乗せた、苔むした木肌のような独特の色合いをしていた。
騎士団の機甲の主な材質は「擬似灰輝銀」と呼ばれる、羽根のように軽い鋼であるが、空から舞い降りたそれは、紛うことなく別の何かで出来ているようだった。
「まさか──」
この場で唯一、それに思い当たる人物がいた。
エルフ族の女騎士、ヘルゲである。
「聖鎧……」
そう漏らした彼女とて、これまで本物を目にしたことはない。
トルスティン王国のエルフたちの中でも、実際に見たことのある者は、数えるほどであろう。
何しろ千年も前のものだ。
しかしその外観は、彼女らエルフ族の伝承に登場する姿そのものであった。
巨人が放つ、圧倒的な存在感を前に、親衛隊も騎士団も、誰もが身じろぎ一つ出来ずにいた。
『この場にいる者たちに告げる。ここから即刻立ち去れ』
声が聞こえた。
おそらくは目の前の巨人から。
敵味方を問わず、皆が一斉にどよめく。
「お前は何者か!」
混迷をきわめる中で、王国随一の勇士であるトゥールが、臆することなく問う。
『わしは大精霊フリクセル。《聖鎧フリクセル》の担い手である』
そのひとことで、皆の動揺がさらに大きくなる。
今世においても、精霊の存在は人々に周知されているが、これまでに出会ったことのある者は、エルフ族のヘルゲを含めてもこの場にはいない。
その言葉が真実であるかどうかは、誰にもわからない。。
だが伝承には「聖鎧は精霊を宿す」とはっきり記されていた。
この場に現れたのは──かつて失われたはずの──本物の聖鎧なのだろうか。
誰しもが固唾を飲んで、ことの成り行きを見守っていた。
「大精霊が我々に何の用向きか?」
トゥールが続ける。
その表情から、おそれは見られない。
『お前たちは、わしの寝所に勝手に踏み入った。よってわしは、お前たちをここから追い払うことにした』
「寝所とは……この森のことか?」
『そうだ、その通り』
「し──」
知らなかった──そう口にしかけて、トゥールは途中で言葉を飲み込んだ。
目の前の相手が真に精霊であるならば、それで済まされるはずがないと、瞬時に悟ったからだ。
「大精霊フリクセル様!」
つづいて声を上げたのはヘルゲである。
『何だ?』
聖鎧が身体ごとヘルゲに向き直る。
「ご無礼をお許しください。我々はこの先の《翡翠宮》に向かっております。どうか通していただけないでしょうか?」
『ふむ。お前はエルフだな。その魂は──おお! 《智慮のグレタ》の直系か! ならばよかろう。通るがよい』
大精霊フリクセルの声が喜色を帯びる。
どうやらヘルゲの祖先とは機知の間柄であるらしかった。
ヘルゲはこの状況を利用して、仲間たちと共にこの場から離脱を図る。
「待て! 勝手は許さん!」
トゥールは、慌てて口を挟んだ。
ここでヘルゲたちにむざむざと逃げられるわけにはいかない。
『小僧。許さんとは、わしに言ったのか?』
聖鎧が今度はトゥールに向き直る。
その途端、凄まじい威圧が聖鎧から発せられた。
「うおっ!」
トゥールとその近くにいた騎士の馬たちが、一斉に恐慌状態に陥り、その場から逃げ出そうとにわかに暴れだす。
馬だけでなくトゥール自身も、フリクセルの威圧を真正面から受け、肝を冷やしていた。
馬を宥めトゥールが何とか体勢を整える。
(これは……本物か……)
トゥールは忌々しげに聖鎧を睨みつけた。
確証を得る術など持ち合わせていないが、彼の直感は間違いなく本物であると告げていた。
「……やむをえまい」
トゥールが再び左腕を振り上げた。
その合図に従って、全十騎の機甲騎士が一挙に聖鎧に向かっていく。
『……ふん』
前後左右、四方から向かってくる機甲を見て、大精霊フリクセルは心底つまらなさそうに溜息を漏らす。
機甲騎士の手が届く直前に、聖鎧は大きく跳躍した。
そして、そのまま空中で静止する。
「馬鹿な!」
トゥールはうかつにも失念していた。
否、理解できていなかった。
先ほどの光景が意味すること──聖鎧が空を飛べるということを。
聖鎧はそのまま空中を飛び、機甲騎士たちから少し離れた場所に着地する。
『何だその粗末な人形は? そんなものでわしと戦おうとは、愚かにもほどがある』
着地すると同時に聖鎧が手近な機甲騎士に迫る。
その速度は常人の想像をはるかに超えていた。
まるで彼我の距離など存在しなかったように、着地した次の瞬間には、聖鎧が機甲騎士の前に立っていた。
「ひっ!!」
機甲の中の騎士が恐怖で思わず悲鳴を上げた。
『ほれ、行くぞ』
機甲騎士は右手に大ぶりの剣、左手に大型の盾を装備していた。
対して、聖鎧は徒手である。
機甲騎士は盾を正面に構え、無我夢中で剣を振り回した。
聖鎧はまるきり気にせずに右の拳を振りぬいた。
けたたましい轟音が一帯に響き渡る。
機甲騎士の一騎が粉々に砕けた盾を抱いたまま、後方に吹き飛んだ。
この場にいた者たちは皆、唖然とした表情でその光景を見ていた。
『さて次は……』
聖鎧はまた、手近な機甲騎士に向かう。
それは雷光の如き速さである。
誰も移動の途中を目にすることはできない。
聖鎧は先ほどと同じく拳による打撃で、機甲騎士をさっきとは別の方角へ吹き飛ばした。
そしてすぐさま次へ。
やがて立っている機甲騎士はこの場からいなくなった。
『何だ、他愛ない。もう仕舞いか?』
さすがのトゥールも、これには色を失って呆けてしまった。
(……聖鎧とはこれほどのものなのか──)
大陸中に勇名をはせる彼でも、この惨状にはおそれを抱かずにはいられなかった。
「……トゥール団長、いかがいたしますか?」
騎士団の副団長を務める男が、おそるおそる尋ねる。
彼も大精霊フリクセルと聖鎧のおそろしさに小さく身震いしていたが、副団長の責務として声を絞り出した。
(ここで粘っても、まず勝てまい。ここに《紅凰》があれば……)
トゥールが嘆息して不承不承指示を出す。
「……撤退だ」
「撤退!!」
副団長の号令のもと、騎士団は半壊した機甲騎士たちをなんとか立たせ、この場から去っていった。
残されたのはヘルゲら親衛隊、侍女たち、そして聖鎧である。
ヘルゲは騎士団が完全に見えなくなってから、下馬して聖鎧の前に恭しく跪いた。
親衛隊士たち、侍女たちもすぐにヘルゲに続いて聖鎧に跪拝する。
「大精霊フリクセル様。この度は危ないところを助けていただき、誠ににありがとうございました」
ヘルゲが深く頭を下げる。
聖鎧が現れなければ、自分たちの命はなかっただろう。
ヘルゲには容易にそれが想像できた。
『いや、礼なら此奴に言うがよい』
「……此奴? 誰のことでしょうか?」
それに答えるように、聖鎧から人影が出てくる。
その人物を見て、ヘルゲたちは目を見開いた。
聖鎧から出てきたのは、栗色の髪の少年──ロランであった。