立ちはだかりし者
エリシールを伴ったロランは全速力で広場から離れ、薄暗い森の中、もはや獣道とすら呼べぬような悪路を騎行していた。
追っ手のいる今の状況では、通常の経路を行くことは出来ない。
二人乗りの馬では、たちまちに追いつかれてしまう。
そのためロランは、なんとか馬が一頭分通れるほどの狭い枝道を懸命に進む。
エルムヴァレーンの辺境育ちのロランには、《翡翠宮》への確かな道筋などはまるきり分からなかった。
もちろん、エルムヴァレーンから出たことのないエリシールも同様である。
しかし、彼らには他に頼れる仲間がいた。
「ありがとうリリィ、こっちだね」
その案内に従ってロランは馬を走らせる。
リリィは妖精族の少女である。
その姿は限られた者にしか見えない。
またその声を聞くことが出来るのも、やはり限られた者だけだった。
リリィはこれまでたくさんの人々と出会ってきたが、彼女の姿や声を認識できたのは、同族以外では今のところロランしかいなかった。
二人の出会いは、ロランが幼少の頃まで遡る。
当時ロランが住んでいた故郷の町の近くの森で、獣用に仕掛けられていた捕獲檻の中にいたリリィを、ロランが助け出したのがはじまりだった。
以来二人はずっと共に過ごしてきた。
ロランが王都に出て、ちょっとした縁からヘルゲの従騎士となり、エリシールの親衛隊士となった今もそれは変わっていない。
リリィにとって、ロランは恩人であり、親友であり、家族であった。
そして同様に、ロランにとってもリリィはかけがえのない大切な存在なのだった。
『この先に遺跡があるの。そこなら隠れられると思う』
リリィが告げる。
身長は十二セルム(十二センチメートル)ほどだが、見た目はロランやエリシールと同じくらいの年頃である。
目鼻がそろった可憐な少女で、碧色の髪をやや短くまとめ、背中には鳥のような小さな翼を持っていた。
自身の翼の羽毛で作った衣服を着ており、そこからすらりと伸びた手足は眩いほどの白さで、夜闇の中でもロランが見失うことはなかった。
案内役を務める彼女は、背中の翼を羽ばたかせてロランの周りを忙しく飛び回っている。
リリィにしてもこの森ははじめて訪れた場所であったが、いち早く周囲を観察し、逐一ロランに伝えていた。
「エリシール殿下、もうしばらく我慢してください」
ロランが背後の同行者に声をかける。
ロランの背中にしっかりとつかまっていたエリシールは、声を出そうとして──しかし舌を噛むことを恐れて、背中越しに頷きを返した。
しばらくして、リリィの言葉通り森の奥に遺跡があった。
敷地の大きさは、エルムヴァレーンの国営機甲闘技場(直径二百メートル)ほどだろうか。
その荒廃したありようで、長い年月を経ているのが一目でわかる。
土と砂に埋もれた、ひび割れた石畳。
建物の大部分はすでに崩壊し、幾百もの瓦礫と化している。
わずかに残っている石造りの柱が、まるで巨大な墓標のようにも見えた。
だが廃墟となりながらも、この場所はどこか荘厳さを保っていた。
エルフ族の伝承にあまり詳しくないロランにも、ここは「何か」を祀った聖域──そう強く感じられる場所だった。
『王宮まではまだもうちょっとあるから、一旦ここに隠れるのがいいかも……』
先ほど空から見た景色を思い浮かべながら、リリィが言う。
《翡翠宮》の場所はおおよそ把握出来たが、追手の騎士もここに迫ってきていた。
「殿下、ここで馬を捨てます」
この場所に隠れるならば、そうする他ない。
ざっと見たところでは、隠れられそうな場所は多くなく、馬がいれば見つかる可能性が高い。
ロランが手早く馬から降り、すぐにエリシールの下馬を手伝う。
「ここまでありがとう。それじゃあ、元気でね」
馬の首を優しく撫で、労うように礼を言ってから、その尻を平手で強く叩く。
驚いた馬は遺跡とは別の方へ走り去った。
『達者に暮らせよー』
リリィも大きく手を振って、去りゆく馬を見送った。
「行きましょう。こちらです、殿下」
先に立って、ロランが歩き出す。
エリシールはひっそりと目の端の涙をぬぐってから外套の頭巾を目深にかぶり、ロランの後を追った。
二人が遺跡を少し歩いたところで、
「──ぞ! ──だ!」
突如として何者かの声が上がる。
ロランが振り返ると、遺跡の入り口付近に複数の人影が見えた。
その動きから、味方ではないと瞬時に察する。
『えっ!? うそ! だってさっきまで、まだ……』
リリィが驚愕する。
思った以上に、相手の追走がはやかったのだ。
「殿下、御手を失礼します!」
ロランはエリシールの手をとり、遺跡の奥へと駆け出した。
「──っだ! ──ろ!」
声の主たちから少しでも遠ざかるよう、ロランたちは走った。
途中で何度も瓦礫や植物の蔦に足をとられながらも、必死で。
だが、やがて二人の足が止まった。
瓦礫にまみれた敷地のおよそ中央の場所に、崩落したのであろう、直径八十メルム(八十メートル)ほどの大きな穴があったのだ。
大穴を覗くと、遺跡地下の広い空間が見渡せる。
空間の殆どは風雨に晒されて水浸しになっている。
大穴から水面までの高さは、十メルムほど。
たとえ下が水でも、飛び降りるには危険な高さだ。
地下空間の四方の壁は、びっしりと太い蔦に覆われていて、枝木が複雑な格子模様を築いている。
(あれは……)
地下空間を見まわしていたロランは、とある場所で目を留めた。
そこには──一体の巨人の姿があった。
巨人は壁を背にし、跪いた格好で身体の大半を水に浸からせて、眠っているように見える。
(……機甲?)
その姿はロランがこれまでに見たどのかたちとも違っていた。
だが彼の目には、打ち捨てられて、長い間放置された機甲に見えた。
一瞬ロランはあの機甲を使ってこの場を切り抜けることを考え、そしてすぐに諦める。
下までおりる手段がなく、すでに風化したあのようすでは到底動くとも思えない。
ロランも従騎士として機甲の操作は一通り学んでいたが、実戦の経験はまだなく、不確実な要素が多すぎる。
目下の目的は、エリシールを無事にトルスティン王宮に送り届けることである。
「エリシール殿下、穴を迂回します」
ロランの進言に、エリシールが頷く。
大穴の縁に沿って、移動を始めたところで、視界の端に追手らの姿が映った。
ロランはすぐに剣を抜き、エリシールを庇うように彼女の前に立った。
「ようやく追いついたぜ」
追手の一人が言う。
ロランたちの前に、目に見えて屈強な男たちが現れた。
その数、四人。
ロランたちと同じく、馬を降りて徒歩でこの場にやってきていた。
「観念して、王女をこっちに寄こしな!」
今しがた声を発した赤毛の男が、王女という言葉と共に、エリシールを顎で示す。
外套によって、半ば顔は隠れていたが、すでに知られているようだ。
(この男たちの格好は……一体何だ?)
やって来た男たちの装いを見て、ロランは訝しげに眉根を寄せた。
『ねぇ、ロラン。こいつらって……』
リリィも違和感を覚えて、男たちを怪訝な顔で見つめている。
彼らはエルムヴァレーンの騎士団員ではない。
先ほど広場にいた騎士団員とは、装備がまるきり違う。
鋼鉄製の鎧ではなく革製の鎧を身に付け、腰に帯びた剣も騎士用のものではない。
騎士というより、傭兵かもしくは武装したならず者といった風体である。
「……お前たちは何者だ?」
ロランが鋭く問う。
「我らはカールション宰相閣下の配下よ」
赤毛の男は小さく肩をすくめた。
背丈はロランよりも頭一つ分高く、肉体は引き締まっている。
年は三十を過ぎたあたりで、軽薄な口調とは裏腹に、隙は見られない。
「王女殿下が悪しき奸者にさらわれたと聞き、閣下は、それはそれは王女殿下のことを心配しておられる」
言いつつ、おおげさに悲しむそぶりをして見せる。
芝居じみたその態度に、ロランもまた渋面になる。
「そこで我らは、王女殿下をお救いすべく、宰相閣下より遣わされたのよ」
エリシールに向かって優雅に一礼し、赤毛の男がうそぶく。
それに対して、ロランは黙ったまま、剣を握る手に力を込めた。
「もう一度言う。王女をこっちに寄こせ。素直に聞いてくれれば、悪いようにはしない」
ロランが大した反応を見せないためか、ここで赤毛の男が甘言を弄する。
あくまでも軽い口調で、
「それなりの地位と金をやる。なぁに、任せとけ。閣下には、おれがきっちり渡りを付けてやる」
「……ロラン」
エリシールは自分を庇う従騎士の少年の背に声をかけた。
(……これまでですね)
この男の提案は、ロランにとって悪いものではないはずだ。
自分がここで捕まれば、ロランが身を挺する必要もなくなる。
生来の純真さからそう判じて、エリシールが一歩前に踏み出す。
「殿下、動かないでください」
エリシールの動く気配を感じて、ロランが言う。
目線は男たちから片時も離さない。
「無論、断る!」
力強く、ロランが発する。
(ロラン……)
彼の言葉に、エリシールの胸が熱くなる。
彼女とて、この状況で素直に喜んでいられないことは理解している。
だがそれでも、やはり嬉しかった。
「ふん、交渉決裂だな」
赤毛の男は鼻を鳴らし、肩をそびやかした。
それまで無言を通していた他の三人の男たちが、ほとんど同時に抜剣する。
最後に赤毛の男も剣を抜いた。
「一応、名を聞いておこうか……」
なにか思うところがあったのか、赤毛の男はロランに名乗りを求めた。
「ロラン・ブローリン」
ロランが剣を正眼に構え、オロフの配下たちを見据える。
「おれの名はイェート・ヘルムドソン。カールション宰相閣下の命により、王女殿下を返してもらう」
イェートが名乗りを返し、男たちがロランの前に立ちはだかった。